和解と手紙
翌朝、魔導省の制服姿で部屋に現れたエルファンス兄様は、泣き腫らした私の目を見て「何かあったのか?」と驚いた様子で尋ねてきた。
私が「戻って来れたのが嬉しくて泣いていた」と誤魔化すと、お兄様は一応納得してくれた。
そしてベッドの傍らの椅子に座り、いまだに弱っている私に朝食を食べさせてくれた。
「フィー。俺は今日、どうしても外せない用事があり、魔導省に出向かなくてはいけない。
日中そばについていてやれないが、一人で大丈夫か……?」
深い青の瞳を細め、心配そうに尋ねてくる。
私は元気に見えるように精一杯の笑顔を作った。
「うん、大丈夫! 出来るだけ早く帰ってきてね」
「分かった。可能な限り早く帰宅する。
フィーは昼食をきちんと食べて、ベッドから出ないようにしているんだぞ」
子供に言い聞かせるように優しく言うと、お兄様は私を強く抱きしめ、しばらく唇を重ねてから部屋を出て行った――
一人になった私は呼び鈴を鳴らし、現れた侍女にお母様を呼んで貰う。
4年ぶりに神殿から帰ってきたというのに、今のところ一度もお母様は私の顔を見に来ない。
それも無理からぬこと。幼い頃から私は相当母に辛く当たっていた。
娘を腫れ物扱いし、つねにおどおどした態度で接する彼女を心底軽蔑し、嫌い抜いていた。
挙句に、
「顔を見るだけで苛々するので、なるべく私の視界に入らないようにしてくれる?」
と暴言を吐いていたのだ。
だから部屋を訪ねるなんてとんでもないことだった。
逆に雷に打たれた以降の小心者になった私は、お母様に話しかけることはおろか顔を見る勇気すらなかった。
他の誰よりも惨い仕打ちをしてきたお母様への恐ろしいまでの罪悪感に怯えていたからだ。
お母様はそんな私の態度に、きっと、変わらず嫌われたままだと思っていたのだろう。
その証拠に数分後、部屋を訪れたお母様の顔は、酷く蒼ざめたものだった。
「フィーネ、何か用なのかしら?」
ビクビクした様子で尋ねてくるお母様に、私は単刀直入に質問した。
「アーウィン殿下と会うには、どうしたらいいのかを教えて欲しいんです」
お母様はうつむいていた顔を上げ、意外そうな目で私を見る。
「まあ、アーウィン殿下と? あなたの今の体調で?」
「出来るだけ早くお会いしたいの」
いつもは反らしていた視線を、しっかりとお母様に向けて言い切る。
お母様は眉根を寄せ、考え込むように沈黙したのち、おもむろに口を開く。
「それならお見舞いに来て頂いてはいかがかしら?
現在はルーベンス様が、あなたの衰弱を理由に誰からの訪問も断わっている状態ですから……。
アーウィン殿下からも、神殿からあなたが戻ってすぐに会いたいという要望があったそうよ」
ルーベンスというのはお父様の名前だ。
「でもどうやってお見舞いに呼べばいいんでしょうか?」
「手紙を書くといいわ。届ける手配は私がしますから」
「本当ですか? ありがとうございます、お母様!」
感謝の気持ちをこめてお礼を言うと、お母様は大仰に瞳を見張り、
「いいのよ……それぐらい」
まるで夢でも見ているような、呆然とした表情で呟いた。
「あと…お母様……もう一ついいですか?」
「何かしら?」
私は勇気を出してこの機会に、ずっとしなければいけないと思っていたお母様への謝罪をした。
「今更謝っても遅いかもしれませんが、幼い頃から今まで、酷い態度を取ってきてごめんなさい!
暴言や暴力など、今まで自分がお母様にしてきた事を思うと、どんなに謝っても許して貰えるとは思えませんが……。
本当に、本当に、申し訳ありませんでした、お母様! どうか私を許して下さい!」
「……」
お母様の下瞼の上にみるみる涙が盛り上がり、こぼれて両頬を伝っていく。
「……お母様?」
「ごめんなさい……あまりにも嬉しくて……」
お母様は喉を詰まらせ、取り出したハンカチを目元を拭った。
「まさかあなたの口からそのような、嬉しい言葉を聞ける日が来るなんて、夢にも思ってもいませんでした。
嫌われていたのもそうですが、私はつねにこの屋敷では空気みたいな存在でしたから……。ルーベンス様やあなたの気分を害さないことだけを考えて生きてきた。だからルーベンス様にはいっさい口答えせず、あなたを叱ることも出来ず、好き勝手させて来ました……女主人としても母親としても情けない、軽蔑されても仕方がない人間存でした……」
ハンカチで顔を覆い、冷めざめと泣いて語るお母様の姿は、見ていて胸が締め付けられる。
そうか、この人はこの控えめ過ぎる性格のせいで、夫にも娘にも逆らえなかったんだ。
これまでずっとそんな自分を不甲斐なく思って生きてきたんだ。
私は扉の前に立ったままのお母様に近づき、初めて自分から向かい合った。
「何も、お母様は悪くありません。私が強情で反抗的だったんです……!」
「いいえ、それは理由にはなりません……私は母親失格でした……。
あなたに嫌われることを恐れるあまり、母親としての役目も責任も放棄してきた。
でも分かって欲しいの、フィーネ、私はどんな時だって、あなたを一番愛してきたのだと!」
お母様はハンカチから涙に濡れた顔を出して訴えた。
「……私はあなたが生まれるまで愛を知らなかった……。両親も兄弟も冷淡で、政略結婚をしたルーベルト様には愛されず、私自身も誰かを愛したという記憶がなかった。
でもあなたが生まれ、その小さな身体を腕に抱き、愛らしい姿を目にした時――私は初めて心の奥底から湧き上がるような、温かい感情で満たされました。
それからはあなたの可愛い笑顔と成長する姿を、ただ一番そばで見ることだけが生きがいだった。
それなのに育っていくごとにあなたに嫌われ、関係を修復しようすればするほどよけい反発されて悪化する始末……。
やがて私は諦めの境地へと陥り、それ以上嫌われたくない一心で、接触自体を避けるようになりました。
あなたがいる時はひたすら気配を消し、愛する娘の心を失った絶望から、長く感情を凍らせてきたのです」
私は一度嫌った相手には容赦なく、徹底的だった。
いくらお母様が親子関係を修復しようとしても無駄だったのだ。
「だけど心の中では変わらず、誰よりもあなたを愛していたのです、フィーネ……!
意気地がなくて、神殿から戻ったあなたが意識不明の間しか様子を見に来れなかった。目覚めてからは会いにくる勇気がなかった、臆病な私を許して!」
愛は見ようとしなければ、そこから目を反らせば、見えないこともある。
幼い頃から癇癪を起こすたびに、お母様に怯えた瞳で見られ、私は勝手に思い込んでいた。
化け物のように恐れられて嫌われているのだと、愛されていないのだと。
――しかしそれは間違いだった――
最速で神殿まで迎えに来て、私と一緒なら地獄までいくと言ってくれたエルファンス兄様。
私が屋敷に戻ったことに大喜びして、心を込めて諭してくれたお父様。
そして生まれた時から私を一番に愛し、心を痛めてくれたお母様。
今の私には前世の頃とは違って心から愛してくれる家族がいる。
その大切さに気づかず避けようとしていた私は、なんて愚か者だったんだろう!
私はお母様に抱きつき、そのまま二人で床に泣き崩れた。
そうして幼い子供のように母の温かい胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
私はひたすら後悔と申し訳なさでいっぱいだった。
これまでの態度だけではない。
今回の件でも、私はエルファンス兄様との恋に盲目になるあまり、あやうく両親まで破滅させるところだった。
本当に私は自分達のことしか考えていなかった……。
お兄様だけではなくお父様もお母様も、私を愛してくれる大切な家族。
守らなければならないんだ。
そのためには駆け落ちなんかせず、アーウインとの婚約を正式に解消し、エルファンス兄様との未来を勝ち取らなくてはいけない。
決心を胸に手紙を書く間、お母様はそばに付き添い、皇族に失礼のない文面についてのアドバイスをくれた。
さらに手紙を書き終えると、急ぎで宮中に届けるように手配もしてくれた。
そうして一息ついた頃には昼食の時間になっていた。
食事が運ばれてくるとお母様は、まるで小さな子供の世話をするように私に食べさせてくれた。
驚いたことに、「可能な限り早く会いたい」と書いて送ったアーウィンへの手紙の返事は、その日の夕方過ぎに届いた。
ちょうど私が早めの夕食を食べ終わった頃だ。
「なんて書いてあるの?」
お母様も内容が気になるようで、手紙を開いた私の横から問いかけてくる。
「明日、来るって」
「まあ、明日!
あなたの体調は大丈夫なの?」
「大丈夫です。今日はお母様にずっと看病をして頂きましたし」
「そんなのは当たり前のことです。
とにかく顔色はかなり良くなったとはいえ、明日に備えて早めに寝なくてはね。
お父様やエルファンスには、あなたを起こさないように伝えておきます」
本音を言うと寝る前に大好きなお兄様の顔を見たかったけど。
今はそんな自分の欲求より、明日のことを優先させるべきだ。
「はい、お母様。今日はもう寝ます!」
「フィーネは素直な良い子ですね」
「あ……でも、お母様、一つだけ頼んでもいいですか?」
「何でしょう?」
「エルファンス兄様やお父様には、明日アーウィン殿下が来ることを、秘密にしておいて欲しいの」
二人に言えばきっとアーウィンに会う事を反対される。
「まあ、フィーネはこの私に隠しごとをしろと言うのですか?」
お母様は一瞬目を丸くしてから、にっこりと微笑み
「それに答える私の返事はたった一つです」
と答えた。
「たった一つ?」
「ええ、私にとって最愛のあなたの意志よりも、優先するものなどこの世にはありません。
ミルズ神に誓って二人には言いません。
だから安心して今夜は眠ってね」
「ありがとうお母様!」
感激する私をお母様は嬉しそうに見つめ、食器を下げにきた召使いに、温かいミルクを運んでくるように指示をした。
就寝の挨拶をしてお母様が部屋から出ていくと、私は明日のアーウィンとの再会について頭を巡らす。
しかし昨夜の寝不足と、安眠出来るようにと飲まされたミルクがきいたのか、考え始めてものの30分もしないうちに眠りに落ちた――
次の日の朝。
エルファンス兄様が部屋にやってきた時には、すでに早起きのお母様が私に付き添っていた。
おかげでいつものように熱い抱擁も口づけも交わすことができなかった。
「母上……めずらしいですね」
そう言った時のお兄様の無表情な顔がなんだかおかしくて、私は少し笑ってしまった。
昨日届いた返事の手紙には、今日の昼過ぎに見舞いに来ると書いてあった。
私は緊張に胸を高鳴らせながら、アーウィンの訪れるを待つ。
お母様がベッドにいても綺麗に見えるようにと、丁寧に髪を梳かして下さり、着る物を選んでくれた。
ひょっとして私がアーウィンを好きだと勘違いしているのかも?
――やがて部屋の扉をノックする音と、アーウィンの訪問を告げる使用人の声が響いた――