甘い時間と嘘
いつものように目を覚まし、水場で顔を洗って、身だしなみを整える。
きちんと髪だって綺麗にとかして、セイレム様と朝食を食べるために中央の間に行くの。
「フィーネは本当に子供みたいな食べ方をしますね」
我ながらそう思う。
セイレム様はとっても上品な食べ方をする。
「葡萄ジュース、もっと飲みますか?
ミルクもありますよ」
――革袋には私の大好きなパンと葡萄ジュースが入っていた――
ごめんなさい。ごめんなさい。
夢の中で何度も謝る。
酷い事をしてごめんなさい。
あなたの心臓を奪ってしまってごめんなさい。
――泣きながら目覚めると真っ暗な天井が視界に広がっていた――。
すぐに夜だからではなくカーテンが閉めきられているからだと気がつく。
ああ、ここは神殿じゃなくて、公爵家の屋敷の自室なんだ……。
やっと帰って来れたのに私は夢のせいで悲しい気分だった。
ぼんやりと天井を見つめたままいったい今は何時頃だろうかと考える。
エルファンス兄様はもう魔導省に出勤しちゃった?
疑問に思いながら顔を視線を巡らし、はっと傍らにある人影に目を止める、
誰かがベッドにつっぷして寝ている。
カーテンから差し込む一筋の光が淡い銀髪を照らし出している。
驚いて見つめていると上半身を起こす気配がした。
「フィーネ、起きたのか?」
「お兄様……!」
「……ああ、良かったっ……!」
大きな溜め息とともに抱き起こされ、強く上半身を引き寄せられた。
温かい胸と力強い両腕に包まれた私は、大好きなエルファンス兄様の元へ帰ってきた事を実感する。
まるでお互いの存在を確かめるようにしっかりと抱擁し合った。
「二日も目覚めないから不安だった!」
「……心配ばかりかけてごめんなさい」
「本当にそうだ!」
力を込めて言うとエルファンス兄様は愛しそうに私の頬を撫でながら顔を寄せ、甘く唇を重ねてくる。
しばらく口づけを交わしたあと、ふと背中にまわされている両腕が緩んだ――
「ああ……暗いな」
エルファンス兄様は呟くと窓辺へと歩いて行き、一気にカーテンを押し開いた。
すると室内に飛び込んできた陽光が銀髪を煌めかせ、振り返ったお兄様の姿の眩しさに私はまた泣きそうになる。
「どうした? フィーネ、どこか、辛いのか?」
心配しながらベッドに戻ってきたエルファンス兄様に両肩を掴まれ肩に、顔を間近から覗き込まれる。
「ううん、大丈夫――ずっと傍についていてくれたの?」
「まあな。仕事に行ったところでどうせ何も手につきそうになかったし……」
「ごめんなさい」
しゅんとする私にお兄様は優しく笑いかける。
「本当に反省しているなら、早く元気になれ」
そう言ってエルファンス兄様は大きな手で私の頭を撫でてから、急に思い立ったようには部屋から出て行った。
一人で置いてかれた私は不安な気持ちになる。
「……お兄様……待って……」
ベッドから降りたもののまったく脚に力が入らず床に崩れ落ちてしまう。
神殿から帰る時は、セイレム様から生気を分けて貰っていたから歩けていたんだ。
食物を摂らずに一週間と二日寝ていたので身体が衰弱しきっている。
「何してるんだ。フィーネ」
少しして部屋に戻ってきたエルファンス兄様が、床にヘタりこんでいる私を見て、慌てたように駆け寄ってきた。
「ごめんなさい」
情けなくって涙が出てきた。
「ほらベッドに戻るんだ。今、食事を作らせているから」
「……お兄様……どこにも行かないで……」
「ああ、もちろん」
私の肩を抱き寄せながらお兄様が約束する。
「もう、離れたくないの」
「そんなの、俺だって一緒だ」
私達は再び長い抱擁と口づけを交わし合った。
食事が運ばれてくると、エルファンス兄様がスプーンを持ち、私にスープを飲ませようとした。
恥ずかしいので自分で食べると主張して受け取ったスプーンを持つ手が小刻みに震えてしまう。
「ううっ、私の身体、弱りすぎ!」
「本当にな、今お前を自分の物にしようとしたら確実に抱き殺してしまう」
ひーっ!
殺すほどって、どれだけ激しくする気なの?
私は胸をどきまぎさせつつ、素直にエルファンス兄様にスプーンを返した。
そして口元へ運ばれてきたスプーンから、軟らかく煮られた野菜の入ったスープをすする。
「とにかく一刻も早く、俺が抱いても平気なぐらい体力を回復して貰わないとな。そのためにはたくさん食べて寝るのが一番だ。
ほら、口を開けて、出来るだけ多く胃に入れるんだ」
先日もやたら食べろと勧めていたのはそういう意味だったのか。
羞恥心で頬を熱くする私の口にちぎったパンが放り込まれる。
食べさせるエルファンス兄様の瞳は真剣そのものだった。
そうしてなんとかスープ皿を空にしてパンを一つ食べ終わると、私はいつかのようにベッド上でお兄様の膝に乗せられた。
左腕で腰を抱かれ、右手の指で髪を梳くように梳かされる。
それは離れていた長い年月を思うと怖いぐらい幸せな一時だった。
なぜなら一度自ら死を選択した私には分かっていた。
今の自分が一番が恐れているのは死ぬことなんかじゃない。
エルファンス兄様の愛を失うことなんだ――
「何を考えている……?」
「お兄様とずっと一緒にいたいなって」
思わず涙ぐんでしまう。
「俺も同じ気持ちだ」
背後から私を抱きながら耳元でささやき、上から重ねてくるむように手を握ってくれる。
「もしも……」
「え?」
「もしも、公爵家を出ることになっても、俺に着いてくるか?」
どうしてお兄様がそんなことを訊くの分からなかったけど、
「もちろん。お兄様の行くところならどこへでも着いていく」
返事はたった一つしかなかった。
「本当だな……」
「お兄様こそ私の事こと一生見捨てないで、一緒にいると誓う?」
駄目な私を見捨てたり、愛想を尽かしたりしない?
「見捨てる、というのが良く分からないが、そう誓ってフィーが安心するなら、いくらでも誓おう」
「死んでも」
「ああ、死んでも」
「他の人を好きになったりしない?」
リナリーに会っても心変わりしたりしない?
「出来るものならとっくにそうしてる」
エルファンス兄様の返事に私は唇を尖らせる。
「何それっ、出来るならって……まるでそうしたいみたい。お兄様は私以外の人を好きになりたいの?」
私が抗議すると
「……さあな、どうだろう」
お兄様ははぐらかすように言ってから、少し黙りこんだ。
えええーーーっ、まさか、本当にそうなの?
不安な気持ちで見つめていると、お兄様は静かに自分の気持ちを語り始めた。
「正直言うとこれまで俺は散々お前のおかげで生き地獄を味わってきた。
たとえば、毎日俺にしつこくつきまとうお前が、アーウィンにしなだれかかっているのを見かけた時。
それから、裸みたいな格好のお前が夜中に部屋に侵入してきた時。
あるいは、雷に打たれたお前が俺を避けるようになった時。
そしてお前が神殿へ入ると言い出した時と、神殿の門の中に消えていくのを見送った時。
何よりもお前のいないこの4年間。
――人が苦しみから逃れたいと感じる気持ちは自然なものだ」
その苦しみに満ちた告白から、
『嫌いになれたら、どんなにいいだろうかと、いつも思っていたよ……!』
いつかエルファンス兄様に言われた台詞が蘇ってくる。
幼い頃から私はお兄様に苦しみを与え続ける存在だったんだ――
「だけどそんな苦しみも――神殿で寝たきりになっているお前を見た時よりは、ずっとマシだった――
お前がこの世からいなくなることに比べたら、もう二度とお前に会えなくなることに比べたら、そんなことは何でもないことなのだと思い知った。
お前がいるならどこでもいいし、何でもいい……。
俺はお前のいない天国より、お前のいる地獄を選ぶ――」
「エルファンス兄様……!」
あまりにも深過ぎるお兄様の愛に感動してしまう。
同時に自分の罪深さを知る。
私は今までどれだけたくさんの苦しみをこの人に与えてきたのだろう。
「ごめんなさい。私」
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しゅんとする私を見たお兄様は喉を鳴らして笑い、
「そうだな。今後は気をつけて欲しい物だな。
二度と俺の近くから離れていかないでくれ」
逃がさないとでも言うように後ろから覆うように私の身体を抱き閉じ込めた。
「うん、言わない! もう二度とお兄様の傍から離れない」
私は力を込めて頷く。
これはもう幼い約束なんかじゃない。
大人になった私の心の誓いだ。
――そうして夜遅くのまでエルファンス兄様の腕の中でたっぷり甘えていると――
不意に、コンコン、と扉をノックする音とお父様の声がした。
「フィー、入るよ」
私は飛び上がらんばかりに驚き、急いでエルファンス兄様の腕の中から這い出た。
室内に入ってきたお父様の顔は喜びに輝いていた。
「ああ、私の天使!
目を覚ましたというのは本当だったんだね。
お前のことが気になってたまらなかったが、昼間は貴族院の集まり、夜は宮中の晩餐会があって、こんな遅い時間になってしまった。
さあ、お願いだからその可愛らしい顔を良く見せておくれ」
飛びつくように私を抱きしめてから、私の顔を両手で挟み、まじまじとお父様は見つめてきた。
「本当に、よく帰ってきたね。
神殿生活で少しは癒されたかい?」
「はい、かなり」
「それは良かった! お前がいないこの屋敷は、まるで光が差さない洞窟。朝が来ない夜のようだった」
私の不在を嘆いたあと一転、お父様はパーッと明るい表情になり。
「とにかく帰ってきてくれてこれ以上に嬉しいことはない!
頼むからもう二度とお父さんの目の届かないところには行かないでおくれ」
「はい、お父様」
「約束だよ」
そこまで言うとお父様は急に真剣な顔になり、エルファンス兄様を振り返った。
「――さてと、少しフィーネと二人きりで話したいことがあるんだ。
席を外してくれないか? エルファンス」
「……分かりました」
エルファンス兄様は静かに頷いてベッドから立ち上がり、速やかに部屋から出て行った。
また明日会えると分かっていても、見送る私の胸は寂さでいっぱいになる。
「フィーネ」
扉が閉まるのを合図にお父様は再び口を開く。
「驚いたことに一昨日からこんな遅い時間まで、エルファンスはお前につきっきりだったようだね。
率直に訊くがお前はエルファンスともう肉体的に深い仲なのか?」
ほっ、本当に率直過ぎる!
「エルファンスは筋金入りの秘密主義だから、どうせ私が訊いても答えないだろう。
だからお前に質問するしかない。どうなんだ、フィーネ?
この際、精神的に愛し合っているかは、あえて問わないでおこう」
えっ?
私達の気持ちは確認はせず、肉体関係だけ問うって、いったいどういうこと……!?
考えてすぐに、あっ、と気がつく。
そうか、皇族との婚姻は純潔じゃないといけないからだ!
思い出すとともに頭から血の気がサーッと引いていく。
エルファンス兄様との再会に浮かれて、すっかり皇子達との婚約話のことを忘れていた。
結局4年間神殿入りしても何一つ問題は解決していない。
婚約問題もそのまんま。
それどころか二年前にアーウィンから受けた愛の告白を思うと、よりいっそう状況が悪化している。
もしもこの問いにまだお兄様と深い関係になってないと答えたら、即アーウィンと婚約コース?
だとしたらこの場合の正しい解答は――
私はゴクリとツバを飲み込み、緊張しながら答えた。
「お父様――私達――エルファンス兄様と私は、すでに肉体的にも結ばれています……!」
この答えで合っているんだよね? エルファンス兄様――