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エルファンス兄様への距離

 この世界には白魔法と黒魔法があって、聖術とは特に聖職者が行う回復・防御の白魔法の術の総称。

 その聖術の膨大な知識が集約されている場所がかつて神が降り立った地に立つミルズ神殿だった。


 そこで学ぶことかれこれ4年弱。


「聖術もかなり使えるようになって、あなたもすっかり立派な聖女となりましたね」


 私はついに夕食の席で、セイレム様から聖女としてのお墨付きの言葉を頂いた。


「これも、大神官であるセイレム様の直々の指導のおかげです!」


 セイレム様に褒められたくて、ここまで頑張れたのもある。


「ふふ、この分だと、あと10年ぐらい修行すれば、立派な大聖女になれますよ」


 10年……そ、それはさすがに謹んでお断りしたい!


「フィー、口の端にソースがついています」


 と、セイレム様の手が伸びてきて私の口端をその繊細な指先でぬぐう。

 私は、ぴくっ、と反応してから、頬が熱くなるのを感じる。


「あ、ありがとうございます」


「あなたは食べ方が本当に子供みたいですね」


 セイレム様が綺麗な水色の瞳を細め、ふわりと笑うと、今度は鼓動が早くなってくる。


 我ながらここ最近の私はおかしい。

 ずっと一緒にいるので、免疫はむしろ上がっている筈なのに、セイレム様を過剰に意識してしまう。

 頭の隅で危険信号が明滅する。


 夜も一緒に過ごそうと言われた16歳が目前だから?


 ――なんて、エルファンス兄様がいるのに、セイレム様にときめいていたから罰が当たったのかもしれない――


「おめでとう、フィーネ。あなたの兄君のエルファンス様が、第一皇女ミーシャ様とご婚約されたそうですね。

 公爵家の嫡男にして若くして魔導省次官と、皇女、とてもお似合いの一組だわ」


 ある日、エルノア様から贈られた祝辞により、私は一瞬にして地獄に叩き落とされてしまった。


 ここに来てからずっと手紙のやり取りすら禁じられていた私にとって、まさにそれは寝耳に水のニュース。


 私は自分が転生することによってできた、この世界の「ズレ」について分かっていなかった。

 ことエルファンス兄様との恋に関しては「恋プリ」のヒロインぐらいしか警戒していなかった。



「知って……いたんですか? セイレム様も」


 話を聞いた直後、加呼吸を起こしてベッドに運ばれた私は、涙に濡れた瞳でセイレム様の顔を見上げる。


 胸が苦し過ぎて、うまく息が吸えない。

 痛ましいものを見るような瞳をセイレム様は私に向ける。


「……皇女との婚約話であればあなたのお兄様に拒否権はなかったでしょう。

 仕方のないことです」


 たしかに婚約は不可抗力なもので、今でもエルファンス兄様は私を愛してくれていると信じたい。


 だけどもう永遠にお兄様は私のものにはならない。

 他の人のものになってしまんだ。


 そう考えるだけで、胸が引き裂かれるようだった。


 こんな辛いならエルファンス兄様のことを好きになるのではなかったと、後悔してしまうほどに。


 それは前世の愛に無縁だった私には到底知りえない苦しみだった。




 一週間経過しても私はその現実をうまく飲みこめず、食欲もなく、一日中泣いてばかりだった。


 その日の夜も寝られずに、ベッドの中で静かに横たわって泣いていると、


「フィーネ」


 二つ隣の部屋で休んでいたはずのセイレム様が私の寝室へやってきた。


「星を見に行きませんか?」





 物見の塔の最上部へ上がると、頭上には満点の星空が広がっていた――


 夜の澄みきって冷えた空気の中、セイレム様と並んで座り、降るような星を見上げたとたん――

 悲しみに浸っていた胸が、不思議に奮える。


 セイレム様が静かな口調で語り始めた。


「私も、セシリア様が嫁いだ時はとても辛かったので、今のあなたの気持ちがよく分かります」


 セシリア様の名がセイレム様の口から出たとたん、なぜか胸にチクリとした痛みが走る。


「いつだか、あなたの彼への気持ちを否定したことがありましたが、あれは嫉妬ゆえの意地悪です。

 むしろ彼へのあなたの想いが特別なものであることを、他ならぬ私だからこそ知っていました」


「特別?」


「そうです。初恋はとはそういうものです」


 初恋。

 セイレム様に言われて私は初めて気がつく。

 エルファンス兄様は前世と今世どちらの私にとっても、初めて恋した相手なのだと――。


「恋をするのにさしたる理由がいらないのは、私自身が一番よく知っていましたからね。

 私が彼女を好きになったのもそうでした」


 セイレム様は懐かしむように語りだす。


「私は当時まだ7歳で、産まれた時に母を亡くし、酷く孤独でした。上の兄弟とは年が離れていて、父からも関心を寄せらず、誰からも忘れ去れたような存在でした。

 おかげで私は極度に人見知りで、人前ではうまく自分を表せない、無表情で無口な子供になりました」


 家族の中で孤独だったというのは前世の私と共通する。


「忘れもしません。その日も皇宮では華やかなパーティーが行われていたのに、私は庭に一人でいました。飼っていた小鳥が亡くなったので小さな墓を作っていたのです。

 そこへたまたま通りかかったのが兄の婚約者だったセシリア様です。

 彼女は自分の煌びやかなドレスに泥がつくのもいとわず、私と一緒に土を掘り、小鳥の埋葬を手伝ってくれました。

 そして私の小鳥のために泣いて、涙すら流してもいない私を見下ろし『悲しかったわ』、そう言って、抱きしめてくれました。

 周囲から感情のない人形のように思われていた私は、その様に言われたのも扱われたのも生まれて初めてでした」


 つまりセシリア様はセイレム様にとって、初めて心に触れてくれた人なんだ。


「その後も彼女は私を気にかけ、会うたびに笑いかけては、優しい言葉をくれました。それだけで恋をするには充分でした。

 だから、16歳でセシリア様が嫁ぐとき、せめてもと思い、私の魂を込めた例のペンダントを贈りました。すると『ずっと身につけていますね』と約束してくれて、とても嬉しかった」


 私を慰めるためのセイレム様の過去の恋愛話なのに、聞いているのがこんなに辛いのはなぜだろう。

 複雑な気持ちで胸がかき乱されてしまう。


「初恋とは本当に不思議なものですね。恋が終わってしまっても、彼女は永遠に心の奥にある御座に座り続ける……。

 それでも過ぎ去った過去は現在には敵わない。今の私の心の中心はあなたへの想いに満ちています。あなたにもいつか必ずそんな日が来ますよ……」


 私の心がいつかエルファンス兄様以外の人への想いで満たされる?


 もしもそうなら私の心を次に満たすのは……。


 それ以上考えるのが怖くなり、私は星を見つめるのに没頭した。


 そうして胸が痛くなる思いで星空を見つめていると――


「星が綺麗ですね」


 ふいに、セイレム様が呟いた。

 しかし、彼が見ていたのは天ではなく、私の瞳だった。

 私の瞳に映る星を見つめながら、綺麗だと言っている。


 そう気がついた瞬間、胸の中で何かが熱く弾けて、大きく広がっていった。


 私はその時、急に目覚めるように自覚してしまった。

 自分の中に沸き上がるこの感情の正体に――


 そして一度意識したセイレム様への想いは、エルファンス兄様の婚約話よりも私を激しく打ちのめした。

 そこで初めて私は、自分があまりにも長く、セイレム様の近くに居すぎたことを後悔する。


 この4年間お兄様以外の男性と一日の大半を共に過ごし、沢山の思い出を積み重ねて絆を深めてきた――それは全部間違いだったのだ。


 今頃自分の愚かさに気がつくなんて――


 できればこんな気持ちには、一生気がつきたくなかった。



 その晩以来、私はますますふさぎ込んだ。

 食欲もさらに落ちて日に日に弱っていく、自身の心と身体をどうすることもできなかった――


「どうしたら元気になってくれるんですか?

 回復術は食事のかわりにはなりません。

 このままでは死んでしまいます」


 セイレム様は私がまだエルファンス兄様の婚約のことで落ち込んでいると思っていた。


 16歳の誕生日を2日過ぎたある日。

 私は力なくベッドに横たわった状態で、とうとうセイレム様に懇願した。


「セイレム様、……もしも私を、助けたいなら、神殿から、出してくれませんか?」


 辛い状況から逃れる術はもうそれしか思いつかなかった。

 自分の心の変化を自覚した今、これ以上セイレム様の傍にいることが恐ろしくてたまらなかった。


「フィーネ? 本気ですか?」


 唐突な私の懇願に、セイレム様が息を飲む。


「ここにいる限り……私は元気になれません……もう耐えられないんです……屋敷へ帰りたい……」


 私は両手で顔を覆って泣きむせいだ。

 しかしセイレム様の返事はきっぱりしたものだった。


「それは無理です」


 私はバッと顔を上げて、ただ感情的に叫ぶ。


「どうしてですか? どうして駄目なんですか?」


 私のエルファンス兄様への気持ちをセイレム様は分かっているはずなのに!

 と、八つ当たりに近い苛立ちが胸に渦巻く。


 それに答えるセイレム様の声は、私と同じく、感情的なものだった。


「あなたは私の命だからです! 自分の心臓を自分でえぐる人間がいると思いますか!?」


 ――心臓――

 そこまで私を想ってくれているというの?


「かつて私が神殿に入ったのはセシリア様の結婚に悲観して、ではなく、自分が怖かったからです。

 私もロザリーと一緒で、身の内に邪悪な獣を飼っている。

 その獣によって彼女を傷つけてしまうことが私はとても怖かった。

 だからこの神殿へ10年以上ひきこもっていたのです。

 だけど、あなたに関してはもう手遅れだ。

 もうここまで愛してしまっては、到底、逃がしてあげることなどできない!」


 もう手遅れ。


 その言葉は瞬時に私を目のくらむような絶望に叩き落した。


 なんて私は愚かだったのだろう。


 19歳までに納得して貰う、なんて悠長に構えるべきではなかった。


 もっと早く神殿から出して貰えるように努力すべきだった。

 エルノア様に相談する機会だって充分あったのに――


 ううん、それでもやはり遅かったのかもしれない。

 前世の自分にとってセイレム様は「理想の人」だったのだから。


 そもそも私はこの神殿に来るべきではなかったのだ!


 自業自得。全て自分が蒔いた種。

 全部私の思いつきと選択が招いた結果。


 だったら、無理でも自分で刈り取らなくては……。


 私は気力を振り絞り、どうにかうつ伏せになる。

 それからずるずると身を引きずるようにして、ベッドから降りようとした。


「……出してくれないなら……這ってでも自分でここから出ます……!」


「どうやら、今あたなに必要なのは強い薬のようですね……!」


 セイレム様はそんな私に対し、苛立ちもあらわに声を荒らげると突然のしかかってくる。

 そして強引に私の身体を仰向けに戻し、ベッド上に組み敷いて顔を近づけてきた。

 私は自分の唇を手で覆い、口づけを拒む。


「いやっ……止めて下さい!」


 パチン、と抵抗のために私が放った光の壁は、セイレム様に一瞬で弾き壊される。


「あなたはもう16歳になったんでしたね……覚えてますか? 以前私が言ったことを?

 約束通り互いの肉体を繋げて、私のことしか考えられないようにしてあげます!

 もうここから出て行きたいなんて台詞が、二度とその口から吐かれないように!」


 宣言するとセイレム様は乱暴に私の衣服を脱がし始める。

 あわらにされた肌に長い青銀の髪がこぼれ落ちてきた。


「いやっ……セイレム様、お願いです……それだけは、それだけは嫌です。許して下さい……!」


 弱りきった私は涙を流し、無力にお願いするしか手段がなかった。


「嫌だなんて嘘だ!

 私は誰よりもあなたを深く知り理解している!

 この数年間というもの、かけがえのない時を二人で過ごし、すでにあなたはエルファンスよりも私をより深く愛しているはずだ!

 もう自分の気持ちを受け入れて楽になるべきだ……私が、今、あなたを救ってあげます……!」


「違います! 私が一番愛しているのは!」


 セイレム様の言葉を否定して、大好きなエルファンス兄様の顔を思い浮かべようとしたのに――


 なぜか、その面影が酷く遠い。

 深い青の瞳と銀色の髪を持つあの人の顔を思い描こうにも、その輪郭はぼやけたまま。


 私は、私は――。


 目の前にある美しい顔を私は絶望的な思いで見つめる。


 セイレム様を……愛してる!

 この人の愛を、強く求めている。


 私はついに涙を流しながら心の中で自分の感情を初めて言葉にして認めた。


 だって、今世の私ではなく、前世の駄目過ぎる私を誰よりも理解し、それでも愛してくれる。 

 この人を愛し返さないなんて不可能だ!

 今はまだエルファンス兄様への愛が勝っている。

 でも、これ以上一緒にいれば、私は確実にセイレム様をより深く愛してしまう。


 そんな未来など絶対に見たくないのに、こうしてセイレム様から逃れることもできない!

 いったい私はどうしたらいいの?


 いっそ苦しみから逃れるために、全部受け入れてしまいたい。

 前世の私が憧れたように、狂ったようなこの人の愛に閉じ込められたい。

 何も考えられないほど、愛し壊されてしまいたい。


 そう思う反面、そんな自分は絶対に受け入れられない自分がいる。

 そんな自分を死んでも見たくない自分がいる!


 心がまっ二つに引き裂かれたようだった。


「どうしたんですか? 否定できないんですか?

 もしもそうであってもなんら恥じる必要はない。あなたのお兄様も結局は婚約を受け入れた。

 人の気持ちは変わってしまう。それは紛れもない事実なんです。

 あなたもそろそろ自分の気持ちを素直に認めるべきだ!」


 その真実の鋭い切っ先は何よりも私の心に深く突き刺さり――


「愛してます……フィーネ。あなたを一生離しません……!」


 束縛の言葉さえ甘美に聞こえる自分にぞっとする。


 思えばこの世界に来てからずっと死ばかりを恐れてきた。

 だけど今の私には分かる。

 この世には死ぬより辛いことがあるのだと――


 このまま誓いを破ってエルファンス兄様を裏切る自分は見たくない。

 変わってしまったお兄様も見たくない。

 それを見ないといけないぐらいなら、未来なんか、命なんていらないと――


 そう、強く願った瞬間。


 急にわかってしまった。


 自分の取るべき選択、運命が――


 とたんに嘘みたいにずっと苦しかった胸の内がスッと楽になっていく。


 覚悟を決めた私は顔を上げ、初めて自分からセイレム様と唇を重ねる。


「そうです……愛してます。セイレム様……」


 涙が後から後から流れてくる。


「やっと認めてくれたんですね。フィーネ……!」


 感激にまみれた声でセイレム様が私の身体をかき抱く。


 だけど最期の告白を終えた私はその腕の中で――

 いつかドラマや小説の中で見た時には絶対できないと思った――自分の舌を歯で噛み切る、という行為に、奇跡的に成功していた――


 同時に、あらかじめ自分の胸に当てて置いた手に、今まで修行で高めてきた魔力のありったけを込めてぶつける。

 そうして私は、私の心臓を、完全に、止めた――


 こんな凄いことは、前世の意気地なしの私だけでは出来る訳がない。

 きっと今世のフィーネとしての意識が後押ししてくれたんだろう。


 セイレム様は一瞬遅れで異変に気がつき――ゴボゴボと口から血を吹き出させる私を見て、絶叫した。


 ごめんなさい、セイレム様。

 ここまでしないと、あなたを求める気持ちが止められなかった。

 私はどうしてもエルファンス兄様を裏切りたくないの。

 もしも舌を噛み切っていなければ、私はこのまま、身体も心もあなた受け入れいてただろう。


 残念ながら私の命は19歳までもたなかった。


 でも私の一番の望みと大切な約束は守られた。

 だからこれでいい……。


 永遠にエルファンス兄様を一番愛している状態のままでいられるのだから――


 結局、私は生まれ変わっても一つも変わることができなかった。

 流されやすくて、心も弱いまま……。


 いくら見た目が変わってもどうにもならなかくて、せっかく神様がくれたチャンスをフイにしてしまった。


 だけど前世の私と大きく違うのは、この胸の中にたくさんの思い出があること。


 友達も愛してくれる家族もいなかった、あの何も持たなかった頃の私とは違う。

 そして自分だけしか愛さなかった私とも。

 エルファンス兄様に愛され、セイレム様にも愛され。


 心の中に大切な人への愛を抱いて死ねる今世の私は、凄く幸せだ。


 だから泣かないで、セイレム様。

 またあなたが愛せる別の人と出会えますように――


 最後に酷い苦しみを与えてごめんなさい。

 この4年間は、今まで生きてきた中で一番幸せでした。

 ありがとう、さようなら。




 ――そうしてだんだん大好きなセイレム様の顔がかすんで見えなくなり……。

 

 私の意識はひたすら底へ底へと沈んでいった。


 やがてその果てに近いところで、やっと私は――


 銀色の髪に深い青の瞳の、愛しいエルファンス兄様の顔をはっきり見る事が出来た。


 お兄様、そこにいたのね。

 やっと会えた。


 ずっと会いたかった……。


 今傍に飛んで行くからね……。



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