積み重ねてきたもの
「フィーネ!」
その時、死の淵へと沈みゆく私を引き戻すように、力強い声で名前を呼ばれた――
刹那――バン――っと視界が真白き光で埋まり――
一瞬後、私の身体はいつかのように、誰かの腕の中に抱きかかえられていた。
「セイレム様……!」
悲鳴のような声でロザリー様が名前を呼ぶ。
「わ、私は……」
「消えろ!」
ロザリー様の発言を遮切るようにセイレム様の殺気立った声が響き――続いて、グシャッと、何かが壁に叩きつけられたような、鈍い音がした。
「フィーネ、フィー! 大丈夫ですか!?」
抱かれたままいったん床におろされる感覚がして、必死な様子で呼びかけるセイレム様の声がした。
だけどもう瞳がかすみ過ぎて、目の前にあるものさえ見えない。
「毒を飲まされたんですね。すぐに中和しますから、嫌でも我慢して下さい!」
切羽詰った叫びが聞こえたあと、唇に温かい感触がする。
「……!?」
死にかけている身でそんな場合ではないのに、エルファンス兄様以外の男性の唇を奪われていることに気がつき、全身が拒否感で硬直する。
だけど弱り切ったこの身体には抵抗はおろか、指一つ動かす力さえ残されていない。
成すがままに口を開かれ、より深くセイレム様を受け入れてしまう。
――同時に温かい波動のようなものが口から口へと伝わり、流れ込み、私を内側から満たしていった――
無防備を越えて死体同然の惨めな私の顔の上に、ぬるい液体がぽたぽたと滴り落ちてくる。
「……可愛そうに……私がもっと早く駆けつけていれば……!」
嗚咽まじりの震え声。
泣いているの?
私が……悲しませている?
「フィー……本当に……すみませんでした……遅くなって……!
怖かったでしょう? 苦しかったでしょう。もう大丈夫ですからね……」
――朦朧とした意識の中、私は不思議に思う――
セイレム様は一つも悪くないのに、どうして謝っているの?
なぜ私の苦しみのことなんか考えているの?
私はあなたから逃げることばかり考えていたのに。
なのにどうして私なんかのために――
――そう思った瞬間――
自分の瞳から不可抗力の熱い涙があふれ出してくるのを感じた。
答えは全て記憶の中にちゃんとある。
それなのに、なぜ分かりきった問いかけをしているのだろう。
「フィーネ愛してます……! 私がついていますから頑張って……!」
その愛がいつも惜しみ無く私に注がれてきたことを知っていたのに――
――前世の頃、私は3人兄弟の真ん中で、みそっかす的立場だった。
両親の愛情や関心はつねに頭のいい兄か容姿が美しい妹にのみ向けられ、醜く要領が悪い私は幼い頃から家族に蔑まれ無視される存在。
あまりにも他の兄弟と扱いが違うので、ひょっとしたら自分だけが貰われっこでは?
そう疑って、ある日戸籍謄本を確認し、逆に実子だと知って絶望したことがあるぐらい。
そんな愛情に飢えていた私の魂を、実にこの2年間、セイさんことセイレム様は、慈しみ育ててくれることで癒してくれた。
にもかかわらず私がセイさんであるセイレム様にした事は何だっただろう。
勝手に自分に都合のいいイメージを押つけ、それが違うとわかったとたん、もういらないと冷たく跳ね除けた。
ずっと大切に扱われ世話になってきたのに、すべてなかったような態度を取って……。
依存する自分の弱さや身勝手さは棚上げして、セイレム様の非ばかり一方的に責め立てた。
色んな教えを受けて家族のような語らいや、温もりをいっぱい与えて貰ったのに――
して貰ったことを全部忘れて、挨拶も感謝の言葉の一つも告げず、ただ私はセイレム様を捨ててここを出て行こうとしていた――
こんな恩知らずの私は死んだって仕方がない――
だからお願い。
お願いだからこんな私のために泣かないで――
「……な…さ……様……っ」
私は薄れゆく意識の中でひたすらセイレム様にたいして謝り続けた。
――再び意識を取り戻すと、私はいつものベッドの上に寝かされていた。
傍らには私の手を握ったまま椅子に座り、長い青銀の髪を広げてベッドにつっぷしているセイレム様の姿があった。
心配してずっとこうして付き添っていてくれたんだ――そう思ったとたん、目頭が熱くなった。
この人はいつも私の事を一番に想ってくれている――
死にかけないと、そんな大切な事にすら気づけないなんて、今までの自分はなんて恩知らずの愚か者だったのだろう。
羽毛のような睫毛が伏せられたセイレム様の寝顔を少し見つめてから、私は急に思い立ち、そろそろとベッドから起き出した。
精神的なものはともかく、身体はすっかりセイレム様が回復してくれたようで元通りに近い。
「フィー?」
やがて握っていたはずの私の手がないことに気がついたのか、セイレム様がぱちりと目を覚ます。
「あ、セイレム様」
呼ばれて私は顔だけ向けた。
「もう起きて歩いて大丈夫なんですか?」
「おかげ様で」
心配そうに見つめる顔に、私はにっこりと笑いかけた。
「……そうですか……本当に良かった」
セイレム様はそこでふーっと、深いため息をつき、
「改めて今回のことはすみませんでした。
全て、聖女ロザリーに破られるような簡単な術式で、扉に鍵をかけて出かけた私のせいです――どうか許して下さい」
心から申し訳なさそうに謝罪する。
私は否定するためにぶんぶんと頭を振った。
「ううん、違います――悪いのは私です。大切なお守りをしていなかったから、罰が当たったんです」
「お守り?」
私はそこで今度は身体を回してセイレム様に向き直り、胸元のペンダントを手で持って見せた。
「これをしていたら、すぐに来てもらえた筈なのに」
セイレム様は大きく目を見張り、私の手の虹色に輝く石を凝視したあと、
「――まさか、それをまた、つけてもらえるんですか?」
声を震わせて確認した。
「……大切なお守りですから。
今回私はセイレム様が来てくれなかったら死んでいました。
助けてくれて本当にありがとうございました!」
私は初めてセイレム様に素直な感謝の言葉を伝えた――
「フィーネ……」
そんな私を見つめるセイレム様の美しい水色の瞳は温かく潤んでいた。
その後、私はセイレム様に強く言われて、再びベッドに横になった。
とりあえず気になっていた、ロザリー様の事を訊いてみる。
「聖女ロザリーは当然ですが現在は牢の中です。そのうちしかるべき処罰が下されるでしょう」
殺されかけた時の生々しい恐怖を思い出し、私は一瞬、身ぶるいした。
「ロザリー様はセイレム様の事が、ずっと好きだったんですね」
「ええ……そうですね、私の方では、ああ言った邪念のある情の怖いタイプが一番苦手なんですが」
「そうなんですか?」
「似た者同士というのでしょうか。私は自分のそのような部分があまり好きではないのです……。
だからそういった部分がまったくない、あなたやセシリア様のような純粋無垢な人に強く惹かれる」
純粋無垢?
その四文字熟語を耳にして私はびっくりする。
「セシリア様はともかく――私は純粋無垢なんかじゃありません!」
邪念いっぱいです!
セイレム様はクスクスとおかしそうに笑った。
「自覚ないところが純粋さの証明なんです」
そういえば出会った頃にも似たような事を言われたっけ。
セイレム様はずっと私をそんな風に思っていてくれていたんだ。
なんだかいつだか一緒にいて楽しいと言われた時のように胸がいっぱいになる――
「しかし本当に、今回の出来事には思わず心臓が凍りつきました。だからそのペンダントはつねに身につけていて欲しいです。
と、いうか、これからは、大切なものを部屋に置いていくのは止めるようにします」
「え?」
――その宣言通り、次の外出時、セイレム様は私にも一緒について来るように言った。
「姿を変えるけど怒らないで下さいね」
一言断りを入れると、セイレム様は歩きながら――肩口で切りそろえた白髪と灰色の瞳――懐かしいセイさん姿になった。
「元の姿だと非常に目立つのと、この神殿内にはロザリーのような狂信的な私の信者が多いので、移動する時はつねにこの姿なんです。
あなたに正体がバレてからは、また怒らせてしまうのが怖くて使えませんでした。だから一緒にいる時は人気がない所にしか行けなかったんです」
ぎゃっ!
ロザリー様以外にも狂信的なファンがいるなんて怖すぎる!
あれっ……でも、と、いうことは、ひょっとして。
今まで無人の場所しか行かせて貰えなかったのは、私が原因だったってこと?
「ここからは元の姿になっても大丈夫なんです」
いくつかの階段を上り下りし、回廊を進み、入り組んだ経路を通った後そう言って、セイレム様は元の姿に戻る。
――そこは今まで私が一度も入ったことのない神殿区域だった――
「まあ、聖女フィーネ、もう身体は大丈夫なんですか?
聖女ロザリーがあなたにした酷い行いを聞きましたよ!」
大きな扉をくぐってすぐの位置で、聖女長のエルノア様に話しかけられる。
「あ……! エルノア様ご無沙汰しています。
この通り、もう、すっかり大丈夫です!」
「そうですか、良かった。大聖女修行頑張って下さいね」
「……!?」
って!? 頑張るも何も、そんなものは全然していないんだけど……。
これって、つっこんでいいのだろうか?
疑問に思いながら、私はさらに青銀の長髪をなびかせて進んでいく、セイレム様の後に付き従って行く。
「これはこれは、はじめまして、聖女フィーネ」
「あ、はじめまして」
次に出会ったのは赤毛の中年男性だった。
「私は大神官補佐官のダグラスです。おもにセイレム様のかわりにこの神殿内のことを取り仕切っております。
大聖女修行頑張られていると伺っておりますよ」
彼は訊く前に勝手に説明的な台詞を言ってくれた。
挨拶を返したかったけれどセイレム様は立ち止まらず、お辞儀だけして慌てて私は次の部屋へ飛び込む。
と、今度はそこにいた黒髪の壮年の男性を紹介される。
「こちらが神官長のラムズです」
「始めまして、聖女フィーネ。大聖女の修行の方はいかがですか?」
「ラムズは祭事関係を私の代わりに行っています」
「そうなんですね、よろしくお願いします」
頷きつつ、私はここに来て確信した。
私も薄々セイレム様があまり働いていないことには気がついてたけれど――どうやら大半の仕事を他人に丸投げしているみたい!
それになんだか私も先刻から、同じことばかり言われているような気がする!
「みんな私が大聖女修行をしていると思っているんですね!?」
「まあそういう名目で私があなたを囲っていますからね。
私はこれでも信頼の厚い大神官なんです」
セイレム様がいたずらっぽく笑って言う。
信頼か……実際にセイレム様が私と二人でいる様子を、ぜひとも皆さんにライブ中継で見せてやりたい!
「お待ち下さいセイレム様! 大切な用件を伝え忘れていました」
そこで後ろから慌てた声がして、先ほど別れたばかりのエルノア様が追ってきた。
「用件とは?」
「はい、セイレム様。セシリア様からまた改めて会いに来て欲しい伝言が届いております」
「ああ、それは申し訳ないけど断わっておいて下さい」
セイレム様は振り返りもせずに答えた。
「えぇ?」
よほどその答えが意外だったのか、エルノア様が驚いたような声を上げる。
「私には他に優先させなければいけないことがありますので」
言いながらセイレム様は私に微笑みかけてきた。
あ、なんだろう。
今、凄く嬉しいと感じたかも!
そうして二人で並んで歩いて行き――最後に辿りついたのは、磨き抜かれた床の上に、書類が山積みにされている大きな机が置かれた一室。
「ここが私の執務室です。
――はぁっ……また書類がたくさん溜まっていますね。
なるべく急いで片付けますから、フィーはそこの椅子に腰かけて、本でも読んでいて下さい」
私はキョロキョロと室内を見回す。
この部屋「恋プリ」ゲーム内に思い切りて出ていたかも!
今更ながら、前世セイレム様ファンだった私の血が騒いでくる。
折角の機会なので机に椅子を寄せて、近くで書類に印章を押しているセイレム様の姿をじっくり観察することにした。
「私の顔に何かついていますか? と、いうか、今日はどうしてそんなにジロジロ見るんですか?」
セイレム様が照れたように苦笑する。
「いえ、別に!」
たしか出会った頃にも、こういう会話をしたような気がする。
そのまましばらく仕事をする麗しいセイレム様の姿を堪能したあと、私はおもむろに口を開いた。
「ねえ、セイレム様……」
「なんですか?」
「私、思ったんですけど、修行がしたいです!」
「え?」
私の意外な発言にセイレム様はいったん手を止め、書類から顔を上げ、
「急に、どうしたんですか? フィー。勉強嫌いのあなたがそんなことを言うなんて」
心底驚いたような眼差しを向けてくる。
「――だって、皆さん、私が修行していると思っているみたいだし、私には聖女の資質があるんですよね?」
「ええ、ありますよ。そういえばまだ力を封印したままでしたね」
私は今回のロザリー様の一件でつくづく思い知ったのだ。
殺されそうになってもまともに抵抗すらできない、こんな無力な私のままでは駄目だと。
エルファンス兄様とずっと一緒にいるためにも、死なないように少しは自分の身を守れるようにならなくちゃ!
「だったら、それを磨きたいんです。
それでセイレム様が危機にあったら今度は私が助けてあげます!」
それにして貰ってばかりのセイレム様にも、何かお返ししたい気持ちでいっぱいだった。
「非常に嬉しいですが、いったいどうしたんですか?」
「今回の出来事で自分の無力さが身に染みたんです」
私はしみじみ呟く。
「たしかに今回の件は辛かったでしょうね――今後はこうして私が片時もそばから離れずにあなたの身を守りますが……一応念のために、回復術以外に防御術の方もマスターしておいた方がいいかもしれませんね」
セイレム様も繊細な指を自身の顎に絡めつつ、私の希望に同意した。
――かくして、翌日から、さっそく聖女修行が再開されることとなった――
と、言っても私は相変わらず劣等生で、飲み込みも要領も悪かった。
そんな私に対し、セイレム様は笑顔でスパルタ式の指導を加える。
「さあもう一回意識を手に集中して、イメージしながら光の盾を作るのです!
成功するまで、今夜は食事抜きです!」
生き生きと私をしごくその姿はどう見ても、楽しんでいるようにしか見えなかった……。
そうして私達は元の師匠と弟子の関係に戻り、再び穏やかな日々が始まった。
もちろんセイレム様との関係が良好になろうとも、私の決意は揺るがない。
何があっても、少なくとも19歳になったら、這ってでも神殿を出て、エルファンス兄様の元へ帰ってみせる!
けれど今の私は逃げるのではなく、きちんとセイレム様に分かって貰った上で、神殿を出たいと思っていた。
甘い考えかもしれないけど、少なくとも鋼鉄の扉を破壊するよりも、そのほうが現実的なはずだから。
何より時間はたっぷりあるし、根気よく気持ちを伝えれば、きっといつかセイレム様は分かってくれるはず。
差し当たってはまず――
「うなじにキスとかいきなり止めて下さいね!」
「え?」
過度のスキンシップをやめてもらうようにお願いしなきゃ――
エルファンス兄様に悪いのと、喪女には刺激が強すぎて心臓にも悪いから……。
やがて最奥殿でのセイレム様との共同生活にも慣れていき、大聖女修行も順調とは言えないまでも進行していった。
私達の絆は命の危機を経たせいか、以前より深まったようだった。
もちろん折にまぜて私とエルファンス兄様の話をすることも忘れなかった。
嫉妬されつつもじょじょに理解して貰えているような手応えもあった――
そんな充実した日々を繰り返しているうちに私は15歳になり、気がつくと16歳の誕生日が目前に迫っていた――