灰色の空の下
その先に何があったとしても、彼は後悔はしないのです。
*時計塔に住む少年*
灰色の曇り空が広がっていました。
大きな街の中、綺麗に並んだ煉瓦の建物。街の中心には、時計塔が建っていました。
街に住む人々は青い空を知りませんでした。
時計塔に住む少年も、その青い空を知らない人々の一人でした。
生まれてから一度も青い空を見た事がありません。この街の人は、誰も青い空を見た事がありません。
しかし、誰も疑問を持ちません。何故なら、青い空を知らないからです。
ある時少年は夢を見ました。青い空の夢を。
少年は、夢の中で見たあの不思議な青い空を、現実に見たいと思いました。
いつか晴れる日が来るのかと待ち続けても無駄でしょう。
街の人も青い空を知らないのですから。
この街は少年たちが生まれるずっと前から、ずっと曇り空の下にあるのです。
少年は決意しました。必ず青い空を探しに行くと。
ある時、街に旅人がやって来ました。
その人は小さなハープを持っていました。
少年や街の人々が見たこともないようなものを身につけています。
ヒラヒラとした布の服、羽のついた大きな帽子。
女性のような出で立ちでした。
旅人は、街の人々の視線を集めながらも、少年の住む時計塔に向かって行きました。
街で一番高く、シンボルとも言える塔です。
少年がいつも通り、時計塔の周りを掃除していた時。
旅人が少年の元へ訪れました。
「やあ、こんにちは」
話しかけられた少年は、顔を上げ旅人を見ました。そして目を見開きます。見たことのないものを身につけていました。
「こ、こんにちは」
少年にとって、初めて見る異国の人です。
「君はどうして掃除をしているの? 当番かい?」
「当番じゃありませんよ。僕は、ここに住んでいるんです」
「へぇ」
少年は時計塔を見上げました。つられたように旅人も時計塔を見上げていました。
「この時計塔、僕のおじいちゃんが建てたんです。そしてお父さんが時計を整備して、僕が綺麗にしているんです」
少年は誇らしげに言いました。
時計塔についた大きな鐘が鳴り響きました。
「この時計塔の上には行けるの?」
「行けますよ。こっちです」
少年は旅人を連れて、時計塔の中に入りました。
時計塔の中は螺旋階段が上までずっと続いています。
時々部屋があって、丁寧に拭かれたドアノブが光っています。
壁には様々な文字が刻まれていました。
「ここが一番上ですよ。ドアを開けますね」
少年は、時計塔の中で一番大きく、一番重い扉を開けました。
扉を開けて、最初に飛び込んできたのは強い風でした。
耳元で、びゅうっと風の音がします。
太陽が出ていたなら、眩しい光が射し込んできたことでしょう。
しかし、それはありませんでした。
この街が灰色に曇っているからです。
「何だか少し寂しいな」
街の景色を見た旅人が言いました。
この街は、明るい光が無いのです。
もしここに、オレンジ色の夕日が射していたなら、絵画の様な美しい街並みが見えたことでしょう。
少年が、旅人に尋ねます。
「旅人さんは、青い空を知っていますか?」
聞かれた旅人は驚き、目を見開きました。
「勿論知っているけれど......。君は知らないのかい?」
少年は旅人の言葉に頷きました。そして、確信しました。この世界には確かに、青い空がある事を。
「あの、僕を旅に連れて行ってくれませんか?」
旅人は目を瞬かせました。
「僕、青い空を見たいんです。現実で、青い空を」
そう言った少年の目には、強い光が宿っていました。
旅人は、目を細めて言いました。
「良いよ。だけど、親御さんにはちゃんと言って来てね」
「......! はいっ!」
少年はパアッと笑顔になりました。
*旅人*
いつもよりも少しだけ雲が厚く、少しだけ暗かった日。
少年は旅人と街を出ました。
街の外に出ても、青い空は見えません。土がむき出しの道の向こう、遠くの空も灰色です。
「街から出ても空は曇ったままなんですね」
少年は空を見上げ言いました。
「そうだよ。あの街に近づくにつれ、雲は厚く、灰色になっていくんだ」
旅人は空を指差します。
空は今にも雨が降り出しそうな色をしています。
しかし、湿った風は吹いていません。 雨雲ではない雲が空に広がっているのです。
「いつも曇っていると、大変そうだね。雨ばかりでしょう?」
旅人の言葉に、少年はキョトンとした顔をしました。
「アメ? ......あぁ、空から水が降ってくるっていうやつですか。僕が生まれてくる前に降ったらしいですよ」
今度は旅人が驚く番です。
詳しく少年に話を聞いたところ、あの街では基本的に雨が降らないと言うのです。
いくら雲が厚くても、いくら空が暗くても、雨が降ることは稀です。
そして雨が降った時は、長い間止まないのです。
前に降った時は、街が水没しかけた程降り続けたらしいと少年は言います。
「どうして、そんな気候なのかな」
「知りません。ずっと前からそうらしいですよ」
旅人の疑問に答えられる人はいません。
二人で焚き火を囲いました。あと二日程度歩いて行けば、青い空が見えるところまで行けると旅人が言っていました。
「旅人さんはどこから来たのですか?」
「あの街に来る前は王都にいたよ」
王都と聞いて、少年は目を輝かせます。
「王様がいるところですよね。どんなところですか?」
「う〜ん、とても大きな都で、ごちゃごちゃしたところ、かな」
私はあまり好きじゃない、と旅人は続けます。
歯切れが良くないところを見ると、本当に好きじゃないというのがよく分かります。
「でもいい人たちがいるのも知ってるから」
旅人が笑顔になって言いました。
旅人は当然ながら少年が知らない事をたくさん経験しているのでしょう。
「ところで、その本、なんですか? 青い色がとても素敵ですね」
焚き火の光に照らされて、少し眩しく見える青い本を旅人が持っていました。
「これかい? これはね、世界のことが書かれているのさ。僕たちの知らない世界のことがね」
少年は本を見せてもらいましたが、何が書かれているのかさっぱり分かりません。首をかしげて考えていると、旅人がクスクスと笑うのでした。
*少年と空*
空が少し明るくなって来ました。
街から離れてきて、雲が薄くなったのです。
それでもまだ、青い空は見えません。
「青い空はまだ見えないのですね」
「もうちょっとだよ」
空を見上げ言う少年に、旅人は笑いながら言いました。
もう少しと聞いて、少年は駆け出したくなりました。心がとても軽くて、でもドキドキとしています。
「ところで、君はどうやって青い空を知ったんだい? 街の人は誰も知らないだろう?」
「それはですね、夢を見たんです」
少年は夢を見ました。
白い砂の大地に立っていて、周りには何もありません。
上を見れば、眩しい程の青空。雲一つもありませんでした。
見た事がない空の様子。
飛び起きた少年は直ぐに窓の外を見ました。
見上げた空はいつも通りの灰色。
その日から時々青い空の夢を見るようになった少年は、青い空に焦がれるようになりました。
「そっか......でも私としては、主張したい事があるかな。確かに青い空も魅力的ではあるけれど、夜明けや夕焼けも綺麗だよ」
旅人の空の話に、少年は夢中になりました。
太陽が昇る時、空は段々色を変え、紫紺から薄い青に変わっていきます。
少年は知りません。
地平線から光の帯が出てくる事を。
太陽が沈む時、空は段々色を変え、青からオレンジ色、紫紺へと変わっていきます。
少年は知りません。
雲にも光がうつり、様々な色になる事を。
太陽が沈めば星が見えます。
少年は知りません。
黒い空に浮かぶ小さな命の光を。
*灰色*
「もうすぐ王都だよ。......大丈夫?」
「え? 大丈夫です」
雲はますます薄くなり、景色が明るくなってきました。
旅人が少年の方を振り向くと、少年の顔色が酷く悪く見えました。
旅人の目には、少年が白っぽく見えています。
太陽の光が徐々に届くようになり、少年が明るく見えるようになったのかと思いました。
しかし、どうにも様子がおかしいのです。なんだか、徐々に消えていってしまっているような気がしてきて、心配になってきました。
「本当に大丈夫なの? 真っ白だよ」
「大丈夫ですよ。少し暑いですけど」
暑いはずはありません。今は実りの秋。残暑はとっくに消え去り、世界が冬へと変わっていっているのです。
雲の切れ間から、光が差し込み、青い空が見えます。
少年がフラフラと光の方へ進んで行きます。
旅人は考えました。
ずっと曇った街に暮らしていた少年にとって、太陽の光は毒なのではないか、と。
旅人は、ふと、一つの噂話を思い出しました。
北にある灰色の街には......。
「あぁ、あれが青い空ですか。綺麗ですね。すごいですね。......何だか暑くなくなってきました。すごく嬉しいのに、どうしてでしょう。あれ......青い空が見えなくなってきました......まだ見たかったのに......」
吸血鬼が住んでいるんだよ。
青い空の下へ出た時、少年はいなくなりました。
少年が立っていたところには、灰色の塵が積もっていました。