3
窓から入ってくる風が、とても気持ち良い、小学校最後の夏。初夏。
「どうしたんだ?」
「その、つ、つきあっている人、いるの?」
久住くんは、一瞬、驚いた顔をしたあとで、やさしく微笑んだ。ポロシャツの三つあるボタンを外し、肌が見えた。
かっこいい。
返事を待つわたしは、久住くんの顔や体を見ながら、熱でもあるかのように顔を真っ赤にしていた。
「え? いないよ」
「ほ、ほんとっ」
自分がロケットになって、このまま彼と飛んで行きたい心境だった。
しかし、久住くんは待って、とわたしに手のひらを見せる。
「あの、ね、元村さん」
「久住くん。つきあっている人いないなら……」
「とっても、うれしい。ぼくはまだ、好きと言う感情はわからなくて。ただ、いつも一緒にいたいなって思う人はいる。だから、ごめん」
「え、それって、彼女にしたい人がいるってこと?」
「だから、自分ではわかんないんだ」
そう言ったっきり、久住くんは口を開けようとはしなかった。
どうして?
「なにやってんのよ、多恵子」
くるくると軽くパーマのかかっている髪を耳にかけながら、美園ちゃんは教室に入って来る。
「えっ、そのね。わたし、久住くんのことが、えっと、す、好きで。前に、言ったよね。好きな子がいるって」
彼女は一年生のときから同じクラスで、とても仲良かった。キツイけど、頼りがいのある美園ちゃんは、クラスの人気者。わたしが、恋の相談をしたときには、がんばって、と応援してくれた。
それなのに……。
「やめてよ」
ふだんよりも、キツイ言いかただった。
「え?」
「あたしと康之の邪魔しないで」
「だ、だって、久住くんはつきあっている子、いないって」
「ばかね。それはあんたに対する、親切よ」
「やめなよ、美園」
「この子、言わなきゃ知らずに、あたしたちの邪魔してくるわ」
「元村さんは、そんな子じゃないと思うよ」
いつもと違う、美園ちゃんを見た気がした。
ドキンドキン。
心臓が音を立てている。
「とにかく、あたしはいやなの。いーい。多恵子。あたしと康之はつきあってんの。あんたの入る隙間なんて、これっぽっちもないってこと、わかるわよね」
「え? く、久住くんたちつきあっているの? さっきの言葉はうそなの?」
「ごめんね、元村さん。つきあっている人はいない。でも……ぼくは美園ちゃんといつも一緒にいたいと思っているんだ」
「ったく、だから、それがつきあっているってことなのよ。……多恵子、あたし、あんたのこと見そこなった。人の彼氏を奪おうとしたんでしょ」
「つきあってんのしらなかったもの。奪おうなんて、思ってないのに」
「そうだよ、美園。そんないい方、悪いよ」
「そうかな。でもあたし、ムカついちゃうもん! あんたなんか、泥棒だ!」
み、美園……ちゃん……っ。
「美園!」
「ひ、ひどいよ。それって、ひどいっ」
わからないまま、わたしは教室を飛び出していた。うわばきのままで、外に出た。
キキーッ!
耳が痛くなる音がしてから、わたしは真っ白い靄を見た。
……気がづくと、固いベットの上に寝ていた。わたしは、校門を出たあと、右から来た車にはねられてしまったのだ。
幸い、ケガもたいしたことなくて、三週間の入院で済んだ。
久住くんと美園ちゃんは、自分たちの責任だと言って、ずっとお見舞いに来てくれた。
だけど、ふたりに会いたくはなかった。
ずっと、ずっと拒絶した。
この苦しくて、辛い想いは、だれが見舞いに来ても、癒すことなんてできない。
だれか、助けて!
こんな記憶、いらないっ。
捨てたい!
(ほんとに、それでいいの)
心の中で、だれかがわたしに問う。
いいよっ。あんな悲しい記憶は、なくなってしまえばいい!
(ほんとに、ほんとに?)
もう一度、聞かれる。
あたりまえだよ。一番の友達だと思っていた美園ちゃんに、泥棒呼ばわりされるし、久住くんにはふられるし。いいよ。この気持ち、わたしの中から出て行ってほしいわ!
涙がたくさん出た。
隣で、お母さんが慰めてくれていた。
もう、美園ちゃんの顔は見たくない。
そう思うと同時に、わたしはお母さんに言っていた。
「わたし、私立行く。清純に」
「だって、美園ちゃんと一緒のとこにするって、言ってたじゃない」
「いいの。もう決めた」
お母さんは困った顔をしていたけれど、わかったわ、と承諾した。
退院後、わたしは勉強した。
悲しい記憶を忘れるためにも。
(ほんとにいいのね)
ときどき聞こえる、もう一人のわたしの声。
うん。
その度に、わたしは頷いていた。
寒いときでも半そでを着て、「暑がりなんだ」と、ウインクして笑ったあの久住くんの笑顔が忘れられない。
でも、もう忘れてしまいたい。
小学校の卒業式をあしたに控えた休日。
(じゃあ、記憶消してあげる)
そう聞こえたと同時に、眩しくて目を閉じた。
なにも、聞こえず。
なにも、見えず。
時間は、数分とも、数時間とも、言えるような感じがする。
……。
(もし、記憶を取り戻したかったら、このタマゴを割って)
わたしがわたしに声をかけた。
記憶を取り戻す?
そんなこと、必要じゃないよ。
だって、今、とっても気持ちいいもん。
すっきりしたって、感じだよ。
……。
そうだった。あの日からわたしは、すべてを忘れていたんだ。
久住くんは美園ちゃんと同じ中学だと思っていたのに、まさか隣のクラスにいたなんて。でも、うれしいな。
ポケットに手を入れると、あったはずのタマゴは消えている。
割らないようにしていたのに、どうして?
ザザザザッ
葉っぱだけになった木々が、風に揺さぶられて音を立てる。
わたしは、思い出の中から、現実に引き戻された。