1
いつのまにか、それはあった。
食べられないのに……
捨ててもいいと思うのに……
わたしは、それを持っていた。
でも、きっと、大切なものだろう。
そして、今日もわたしは、タマゴをポケットにしまっている。
夏の日差しがまだ抜けきれない、秋の空。
わたしは、空を見上げた。
学校から歩いて三分くらいのところに、一面の田んぼがある。
一番のお気に入りの場所。
その田んぼを囲むように、小さな川が流れている。
サラサラと、気持ちよさそうに音を奏でる小川。それを見下ろすように、わたしは草の上に腰を下ろした。
「なにをしているの?」
頭上で声がする。わたしは、顔を上げた。
日本人形のような艶やかな髪を、耳にかけながら、その少女はわたしに向かって微笑んだ。ここからそう遠くない、中学校の制服を着ている。
胸の赤いリボン、大きくてかわいいなぁ。
「なにをしているの?」
もう一度、少女は言った。
だれだろう?
心の中で、不思議に思いながら、わたしは少女のあどけない笑みにつられ、自分も笑っていた。
「ボーッとしてただけなの」
「いつも、ここにいるのね」
そう言って、少女は私の隣へと座った。
人懐っこい子。
「知っているんだ」
「まぁね」
「じゃ、一緒にボーッとしようよ」
「は?」
あきれたような表情を見せ、少女はわたしに向かってため息をつく。
「その制服、この近くの私立中学の?」
「え、う、うん。清純ってとこ」
なんで、そんなこと聞くんだろう。
不思議に思って、わたしは少女の顔を見る。
大きな二重瞼は少し吊り上がっていたけれど、キリッとしていて、きまっている。鼻筋はスーッと伸び、口元は花弁のようにきれい。
わたしより、年上かな。
「かわいいね。白いブラウスに、赤いスカートか。あっ、そのスカートって後にリボンがあるんだ」
そう言って、わたしの後ろのリボンを見る。
「うん。でも、飾りじゃないから、ほどけちゃったりして、わりとめんどくさいよ」
そうなんだぁ、と言って、少女は前を向く。
「うちの制服、セーラー服だからいやなの」
そう言いながら、少女は黒のセーラー服の裾を引っ張った。
「わたし、その制服、かわいいと思うよ」
「ありがと。ね、スカート、短くない?」
少女の視線は、スカートから覗いている、わたしの太もものところに落ちている。
「これ、学校指定だよ。みんなもこのぐらいだし。上級生はもっと、短くしている人もいるんだよ」
「ふーん」
しかし、一向に少女の瞳は固まっている。
うーん。ちょっと、いやだなぁ。
「……もう、恥ずかしいよ」
「ごめんごめん。それよりさぁ」
そう言って、少女は田んぼへと視線を移す。
「それよりさ、のあとはなぁに?」
少女は、うつむいてしまった。
だけど、いくら待っても、話してこない。
どうしたんだろ。
そっと、うつむいた少女の顔を覗いた。
「どうかしたの」
少女の唇が、かすかに開く。けれど、言葉を喋っているのか、わからなかった。
「どうかした?」
もう一度聞くと、少女はゆっくりと顔をわたしに見せた。
太陽の光りに反射した、少女の唇はダイヤモンドのようにきれい。
「うん。あのさ、どうして同じ中学に行かなかったの? やっぱ、あたしがいたからやめちゃったの?」
わけのわからないことを言われ、わたしはとんでもなく、おかしな声で答えてしまう。
「へ?」
「へ、じゃないわ」
「じゃあ、え」
「あんた、ばかにしてる?」
「ううん。そんなつもりじゃないんだけど」
「いいけど。私立なんか行ってさっ」
「ね、あなたって、わたしと同じ年?」
二、三回、ため息をついてから、少女は怒鳴りつけた。
「あたりまえでしょ! 十二歳っ。今年、中学に入ったばかり!」
どうして、怒るんだろ。へんな子。
「そ、そうなんだ。わたしも、そうだよ」
はぁ、とまた、少女はため息をつく。
「で、つかぬことを聞くけど、あたしのこと、知ってるよね?」
いきなりそう言われ、わたしは思考回路が正常にまわらなくなってしまった。
「なによ、その顔。あたしのしたこと、多恵子にあやまったじゃない。なんなのよ、その態度はっ」
キッ、と睨みをいれた少女は、どこか悲しげに怒っていた。
でも、この子のこと知らないのにな。
「えっと、ごめんなさい」
悪いとは思わないけど、一応、頭を下げる。
「ごめんなさい、じゃないわよっ。ほんとに知らないの? あたし、小林 美園よ!」
うーんと、そう言えば小林さんって言ったよね。
この子が……あっ、どうしてわたしの名前を知っているんだろ。
ということは、小林さんは、昔からの友達ってことなのかな。
で、えっと……『あたしのしたこと、多恵子にあやまったじゃない』とか言ってたんだよね。
それじゃ、中学に入る前に、小林さんになんかされたんだ。で、悪いと思って、わたしにあやまりに来たのね。
一気にまくし立てられ、わたしは状況を把握するのに、時間がかかった。
うーん、でもなぁ、わたし、小学校時代のことって、全然覚えていないんだよねぇ。
「あのね、いちお、小林さんがどうしてわたしのところに来たのかわかったけど」
「あんたって、そんなにボケてたっけ?」
はあ、と小林さんはため息つく。
「よく、言われるよ、わたし」
「あっそ……って、ちょっと待った。あんた、あたしのこと、小林さん、って呼んだ?」
頷いたわたしを見て、 彼女は肩を落とした。
「それじゃ、なんて呼べばよかったの?」
「ううん、いいの。そうだよね。あたしのことを忘れちゃってんだもんね……」
しばらく、彼女は唇を閉じたままだった。
「わたしね、小学校のときのことって、覚えてないんだ。卒業式に行ったこともあやふやだしね。不思議でしょ。あれ、どうしたんだろ。小林さんにこんなこと、言っちゃった」
ゴクン、とわたしにも聞こえるような音がして、小林さんは唾を飲み込む。
「どうかした?」
かすかに、小林さんの体が揺れた。
「……ショックだったのは、わかるわ。悪いと思う。でも、あたしのことは覚えてなくても、康之……久住康之のことは……」
くずみやすゆき……?
記憶の糸をたぐりよせてはみたけれど、その名前は出てこなかった。
「う……そ」
小林さんの制服のリボンが、風に揺れる。
そのとき、もう一人のわたしの声がした。
(ポケットにしまってある、タマゴを割りなさい。きっと、久住康之のことを思い出すわ。でもね、そうしたら、苦しくなるよ)
タマゴを割る……?
わたしは、ポケットに手をつっこんで、タマゴを触る。
ザラザラしている、ただのタマゴだよ。
「なに、してんの……?」
「あっ、タマゴ触ってたんだ。ほら、これ」
そう言って、わたしはタマゴを見せた。お店で売っているよりは、ひと一回り小さい。
「なに、これ?」
「だから、タマゴだよ」
「わかっているわよっ。なんで、こんなのを持ち歩いてんのっ」
「へーきだよ。割れないもん。見ててね」
「えっ!」
タマゴを勢い良く地面に投げつけた。コロンコロン、と動き、やがて小さな石にぶつかって止まる。
小林さんは、タマゴを拾い上げた。
「おもちゃのタマゴなんて、持っててなんの価値があんのよ。そんなことより、ほんとに康之のこと、覚えていないの?」
そう言いながら、小林さんはわたしにタマゴを渡す。受け取ると、ポケットにしまった。
「うん」
「あんたの好きな子だよ、ねぇ!」
「だって、聞いたことないもん。……きっと、このタマゴに、わたしの記憶が封じ込まれちゃってんだよ」
「おいおい。そこまでボケないでよ」
「ボケてなんかないよ。もう一人のわたしが言ってた。このタマゴを割れば、その男の子のことを思い出すって。でも、苦しくなるって。だったら、割らない」
しばらく、小林さんは黙っていた。
ふぅー、と息を吐く。
それから、ゆっくりとわたしを見た。
「ほんとに、そのタマゴに失った記憶が封印されてるなら、なんで割らないの?」
「さっき言ったよ。苦しくなるから、いや」
「えっ」
「わたし、苦しいなら、思い出さなくてもいい。このままでいいもん」
「多恵子」
「小林さんとも、今からお友達になれば、いいでしょ」
「そういう問題じゃないっ。だめよ、多恵子。あたしの責任だと思うんだ、あんたがこんなふうになったのは」
「そうなの? でも、満足しているから、べつに責任取らなくてもいいよ」
はぁぁぁぁ……、と深く、重く、小林さんはため息をついた。
「ううん、立ち直らせるわ。ねぇ、また会いに来るわ。いいでしょ」
「え、うん」
「絶対に、責任取るからね」
スクッ、と立ちあがると、彼女はわたしから離れた。
べつに、いいのになぁ。小林さんって、親切な子なんだな、きっと。
わたしは、去って行った彼女の背中を見つめながら、そう思っていた。