孤狼3
突如、背後から強烈な違和感を感じた。
振り返ると、宮内さんは目を閉じたまま、意識を失っているかのように立ち尽くしている。
さっきまで宮内さんからは、何ら異質さを感じられなかったのに、今はクラスの誰よりも強い異質さを放っている。
(い、一体何が起こって……)
彼女の周りの空気が不自然に歪んでいる。
(え……!?)
ふと教室に目を移すと、考えられない異常な事態が起こっていた。
壁・床・机・黒板・ありとあらゆる所に文字が浮き出ている。
「死」 「刹那」
「凶也」 「友達」 「血」
「憎い」 「夜」 「満月」 「許さない」
「どうして」 「地下」
「拘束」
様々な文字が、形を変え、流動し、浮かんでは消える。
この文字の1つ1つがまるで意思を持っているみたいに蠢いている。
(ここに居たらマズい)
直感的にそう感じてはいるのに、足がすくんで動かない。
俺は、黒板に浮かび上がった「死」という文字から目が離せなくなり、強烈な悪寒に襲われた。
まるで地獄の使者に足を掴まれ、地の底へと引きずり込まれていくようなおぞましい感覚が全身を支配する。
(早く、教室……から…………出、な……)
これ以上この文字を見続けるのは危険だと、頭では理解しているのに、目が離せない。
次第に頭痛と吐き気に襲われ、全身から冷や汗が流れてくる。
教室の前の方では、誰かが嘔吐している音がした。
意識が遠くなってゆく…………………………
(…………暗い……)
その時、誰かの手が俺の目を塞いだ。
「…………落ち着いて、ゆっくり息を吸え」
俺は軽いパニック状態だったけど、その声に反応して、言われた通りゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐く。
(ふぅっ……)
少し、落ち着いた。
目を塞がれているので教室がどうなっているのか分からない。
「ちっとは、落ち着いたかよ? 転校生」
この声は凶也だ。
俺の目を塞いでいるこの手はどうやら凶也の手のようだ。
宮内さんの事や、クラスの他の皆の状態やら聞きたい事がたくさんあったけど、俺は一番知りたい疑問を口にした。
「お前、俺を助けてくれたのか?」
「あん? 俺っちのせいで死なれたら、寝覚めが悪いだろうがよ」
どうやらこの状況を直接生み出しているのは宮内さんだけど、きっかけは凶也の犬神さんに対する言動にあったみたいだ。
「これ、宮内さんがやってるのか? どうすれば止められるんだ?」
「俺っちが知るかよ。今、お前の目ェ塞いでっから身動きとれねぇんだよ」
「おい、司っ!! どうすりゃいいんだ?」
凶也が、霧島に呼び掛ける。
しかし、反応が無い。教室は、静まり返っている。
「おいおいおい、マジか? お前までやられちまったのかよ、司!?」
凶也も、目を閉じていて教室の状況が分からないようだ。
「ちぃっ! どいつもこいつも」
他の皆はどうなっているんだ?
教室内の異常な空気感は続いている。
何が何だか分からないけども、このままだと命に関わる犠牲者が出るかもしれない。そんな事にでもなったら、宮内さんは深く傷つくだろう。きっとこの学園には居られない。
なんでもいい、何か俺に出来ることは無いのか?
「聞こえるかっ!! 宮内さんっ!! 返事をしてくれっ!!」
教室内がこんな状況なのに未だ能力を使い続けているということは、今きっと彼女は無意識状態なんだ。
意識さえ取り戻せば、もしかしたら。
「無駄だって! 委員長がこの状態になったら、こっちの言葉には反応しねー」
教室で誰かが倒れる音がした。
やっぱり、宮内さんも異質な魂の持ち主だったのか。
こんな異能は見たことも聞いたことも無いけど。
どう対処すれば良いのか見当すらつかない。
俺はそれでも何か打開策は無いか必死に頭を巡らせる。
…………!?
その時、急に、頭がぐらついた。
何だ? 宮内さんの能力の影響か?
いや、違う、この感覚は覚えがある。
まただ。さっき校庭で感じた虚脱感。さっきより大分、軽い感じだけど。
何でこんな時に?
意図して起こした現象じゃ無い。まるで宮内さんの強力な異能に呼応したかのようだ。
視界が暗転する。
一筋の光すら射さない完全な暗闇。肉体の方の目は反応しない。
俺は、再度、心の目を開く。
今朝と同じ、赤銅色の世界。
視覚以外の感覚が遮断される。
振り返ると、凶也に目隠しされた俺が立っていた。
再び、精神が肉体から剥離したらしい。一度幽体離脱を経験した人間は、肉体と精神の結びつきが弱まるなんて話を聞いた事が有る。
周囲では変わらず文字が至る所に蠢いてるけど、今の俺の状態なら特に影響は無いみたいだ。
前の方では何人かが倒れ、他の皆も項垂れている。正確に状況を理解出来ているのはきっと俺だけだ。
案外、今はこの精神体でいる方が動きやすいのかもしれない。
何にせよ、早く何とかしないと本気でやばそうだ。何か解決の糸口となるものは無いか、辺りの様子を観察する。
クラスメイトの胸のあたりにはガラス玉が浮いている。緑・赤・水色、皆それぞれに色が違う。
子供の頃集めていた色付きのビー玉を思い出した。未だにこれが人間の魂だなんて信じられないけど、俺の精神の持つ感覚がそうだと告げている。
宮内さんの方を見ると、さっきと同じように教室の真ん中で目を閉じて呆然と立っていた。
彼女の魂の色は青だ。まるでサファイアのように輝いている。しかし、宮内さんの魂だけ他の人とは違う点が有る。
魂が光を放ち、上下左右前後に揺れ動いている。
なんで、彼女の魂だけがこんなに不安定なんだ?
その理由はすぐに理解出来た。理屈では無く、今の俺の感覚が教えてくれた。
どうやら彼女が異能を行使しているが故に、その魂は揺れているようだ。
この状況を生み出している根源は彼女の魂だ。
俺の中でそう結論付けた時、この状況の収拾を図る方法が浮かんだ。
彼女の魂の揺れを抑えることが出来たなら、この異能を解除出来る。
これは思考による推論では無く、感覚的なものだけど。
試してみる価値は有るはず。
その方法として思い浮かんだのは、精神体である俺が彼女の魂に直接触れ、揺れを押さえ込むというもの。
なんでそんな発想が出てきたのか、自分でも不思議だったけど、それしかないと思った。
しかし、それはどう考えても危ない気がする。
俺が彼女の魂に触れて砕けたりはしないか?
見た目はただのガラス玉だから、なんか脆そうだ。
俺が迷ってる間に、教室の前の方でまた一人、女生徒が倒れた。
くそ、どうする、迷っている暇は無いのか?
でも、試してみるにしてもあまりに危険だ。
だが教室内のこの現状を放置すると、死者が出る可能性が有る。
宮内さんの目の前に移動し、表情を窺う。彼女自身もなんだか苦しそうだ。
(…………ごめん、宮内さん。もし万が一があったら、俺も心中するから)
本気でそう思った。
俺は覚悟を決めて彼女の胸に手を伸ばす。
俺の手は彼女の体をすり抜けて、魂に触れる。
俺の手に触れている感触は無い。
俺は細心の注意を払い、そっと掌で包み込むように魂を固定。
少しの間、その状態を維持する。
言いようの無い恐怖が俺を襲う
。
まるで生きている人間の心臓を素手で掴んでいる気分だ。
ほんの数秒の時間がとてつもなく長く感じる。
俺の手が震えているような錯覚を覚える。
しばらくすると、少しずつ魂から光が失われていった。
恐る恐る手を離すと、彼女の魂は他の人同様に定位置に浮遊していた。
……………………成功、したのか?
宮内さんに見た目上の変化は無い。
彼女は無事なのか?
徐々に教室内に浮かび上がった文字が消えていく。
ほとんどの文字が消えた頃、教室の前の扉が開き、話を聞きつけたであろう静刃先生が入って来た。
先生は教室の中央に居た宮内さんの肩を抱き、倒れないように支える。
他の先生達も1年4組に駆けつける。ひとまず事態は沈静化したようだ。俺は緊張が解けると同時に、気が遠くなるのを感じた。
ふと、気が付いて目を開けると、いつも通りの視界に戻っていた。
どうやら元の体に戻れたらしい。教室の中央では静刃先生が宮内さんの状態を確認してたけど、どうやら彼女は気を失っているだけみたいだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
俺の体は特に異変無さそうだ。
凶也は俺の隣に立って、教室の様子を素知らぬ顔で眺めている。
犬神さんが気になったので、テントに声を掛けるが反応が無い。入口を開けると、彼女は中で気を失っていた。
(カタカタカタカタカタ)
静まりかえった教室から何か音がする。
音のする方を見ると、霧島がノートPCのキーボードを叩き続けている。
え? 嘘だろ? こいつ、もしかして4時限目の授業からずっとPCをいじってるのか? この教室の惨状にも気付かずに?
この尋常ならざる集中力はある意味驚嘆に値する。
その姿を見た凶也はずかずか霧島に近づき、後頭部を蹴る。
霧島はその勢いでディスプレイに前頭部をぶつけた。
「な、何やぁっっ!?」
そこで初めて、霧島はクラスの惨状を目の当たりにする。
「なんやコレ、皆どないしたんや?」
面倒くさいので、誰も答えない。
静刃先生は教室の前の方へ行き、比較的ダメージの少なそうな生徒から事情を聞いている。
それを見てこの事態の元凶である凶也はあぶら汗を流している。
しばらくして静刃先生は、ゆらりとこっちに振り向く。
「凶也……? ちょっと私と一緒に来なさい?」
静刃先生はとても静かな声で、こっちに語りかける。
それが逆に怖い。
凶也は叱られた子供のように縮こまり、青ざめている。普段の傲慢さが微塵も感じられない。
他の教室から来た先生達は具合の悪い生徒を次々と保健室へと運んでいくんだけど、なんというかとても手馴れている。こんな状況は日常茶飯事だとでもいうんですか?
仮にそうだとしたら、命がいくつあっても足りゃしないぞ。
「それと……杉原君もちょっと来てくれるかな? 話があるから」
え? 俺? 俺は別に何も悪くないです。悪いのは全部、隣でガクブルしてる坊主頭です。
静刃先生は宮内さんを抱きかかえ、俺は犬神さんを負ぶさり、保健室へと向かう。その後ろから凶也が両手をポケットに突っ込み、ふてくされたようについてくる。