黒霧12
その頃から黒霧の状態に変化が生じてきていた。
さっきまでの異常な拡散スピードが、明らかに弱まってきている。
これは一時的な小康状態なんだろうか、それともようやく黒い災厄が終わりを迎えようとしているのか?
黒霧はさっきまで俺達が居た屋上入口の上を飲み込み、そこから数十センチの高度まで堆積したところで、ほぼ進行が止まっていた。
俺は周囲を見渡す。下は黒い闇に覆われており、底なしの深淵を覗いているかのようだ。下からは、まだ机を運ぶ物音が続いている。もう姿を見る事も出来ないけど、東校舎の屋上にはたくさんの生徒達が集まってくれているみたいだ。
町の方を見ると、さっきまで至る所で発生していた黒い渦が消えかかっていた。空は朱く染まり、わずかに残る黒い渦に夕焼けが混ざり町に戻った静けさを不気味に彩っている。
「私達、助かった、のかな…………?」
不意に後ろから声が掛かる。俺と背中合わせになる形で座っていた宮内さんの声。その声はさすがに疲れていた。
「うん、そうみたい。皆のお陰でなんとか、ね」
昼間から俺が感じていた何かが迫り来るような胸のざわつきは収まった。これで全て終わったはずだ。
「良かったぁ…………」
心の底から湧き出たような安堵の声。
宮内さんはようやく緊張から解き放たれ、脱力していた。
徐々に足元の黒い霧は薄れてゆき、下で俺達を心配そうに見上げていた生徒達の姿がうっすらと見えてきた。
突然、校舎のスピーカーのスイッチが入る。
それが約6時間に亘る、黒霧現象と俺達の戦いの終わりの鐘だった。
《皆、聞いてくれ。ついさっき自治会報道部から発表があって、現在の黒霧警報を黒霧注意報へと変更するそうや。もう少しで全て終わるはず。皆、もう少しだけ辛抱してくれ》
聞き慣れた関西弁。霧島の声だ。
学園全体から歓声が上がった。屋上に集まった生徒達も手を取り合って喜んでいる。
黒霧は次第に高度を下げ、屋上を覆う黒霧が完全に無くなったところで、俺達は他の生徒達の手を借りて机から降りた。
足元がふらつく俺に、最初に声を掛けてくれた男子生徒は肩を貸してくれた。集まった生徒達も口々に労いの声を掛けてくれている。
疲れきった俺達は、まともに応えることも出来なかったけど。
静刃先生や他の先生達もおり、俺達4人は東校舎4階に設置された仮の保健室へと運ばれた。こうして俺達はようやく陸の孤島からの生還を果たした。
仮の保健室の中に入ると、マットの上に毛布が敷かれただけの簡易ベットの上に、数人の生徒が寝かされていた。
俺や宮内さんを含め黒霧の影響を受けた生徒は、一応経過を見る為に一晩の間仮の保健室に泊まる事になった。
この学園に保険医は1人しかいない為、男女共に同じ部屋で寝泊りするそうだ。本来なら嬉しいシチュエーションのはずだが、さすがに今はそんな気分にはなれない。
夜7時頃。霧島が俺達の所に見舞いに来た。自治会が黒霧注意報を解除したのでこちらへ来たそうだ。
異寄町に1つだけある総合病院は、現在黒霧の瘴気に当てられた患者達で一杯らしい。しかし死者が出なかったのが不幸中の幸いだ、と話してくれた。窓の外を見ると夜も更け暗くなっている。まるで外が黒霧に覆われているような錯覚を覚え、思わず身震いする。
夜8時頃。食堂のおばちゃん達が俺達の為に差し入れを持ってきてくれた。メニューはホワイトシチュー。黒い恐怖に怯えていた俺達にとってこの白い温かさが身に染みた。一緒に居た霧島も何故かちゃっかりご馳走になっていた。
夜9時頃。保険医の先生は学園にあるシャワールームで汗を流すよう勧めてきた。運動部が使っているものだ。霧島は先程帰宅し、現在仮の保健室にいる男子は俺を含め4人になっていた。
俺と他の男子2人は疲れており、シャワールームへ向かうのも億劫だったのでそれを断った。もう1人の男子生徒はまだ寝込んだままだ。俺達は一晩くらい体を洗わなくても平気だが、女子はそうもいかないらしい。
宮内さんを含む女子6人は、疲れた体をひきずるようにしてシャワールームへと向かっていった。
夜10時頃。宮内さん達女子グループがシャワーを終えて戻ってきた。まだ少し湿っている髪を揺らし、彼女達は部屋に入ってくる。なんか直視してはいけないような気になって、視線を逸らすと俺の隣にいた男子生徒と目があった。彼も俺と同じような反応をしていたようだ。
2人で苦笑する。
女子生徒が戻ったのを見計らって保険医の先生は、生徒1人ずつに問診を始めた。先生も黒霧に襲われた患者の診察など初めてだろう。1人ずつ慎重に、体調をチェックしている。
女子全員の診断を終え、男子の診断を始める。ひとまず、体調に異変のある生徒はいなかったようだ。
…………1人を除いて。
男子生徒の中で簡易ベッドで横になったままの生徒がいる。
良く見ると、俺と一緒に最後まで東校舎の屋上に残っていた4人の中の1人、中等部の男子生徒。いまだに魘されているようだ。彼の額に手を当てた先生は表情を曇らせる。
「ひどい熱ね…………」
それを見ていた女子生徒の1人が口を開く。
「あの…………その子……私と同じで3階の渡り廊下を渡りきれずに黒霧が来る直前まで待ってたんですけど、私が渡り廊下を使うのを諦めて東校舎の屋上へ向かった時もまだ渡り廊下の所にいたんです。後から、その子も屋上に来たんですけど、もしかして逃げ遅れて黒霧に触れたのかも…………」
そういえば、この男子生徒は1人遅れて屋上へやって来ていた。
そして屋上へ来た時、様子がおかしかった気がする。
まさか、黒霧に精神を侵されたのか?
先生は少し考えた後、携帯電話を取り出しどこかへ掛け始めた。
病院に連絡するつもりだろうか?
しかし、さっき霧島の話を聞いた様子だと、現在異寄総合病院は押しかけた住民達の対応で手一杯で、新しく他の患者の受け入れが出来る状態では無いだろう。
そもそも「黒霧による精神障害」なんてものは、病気というよりも呪いに近い現象だ。医術の領分では無い気がする。
どうやら先生も同じ考えのようで、電話の会話内容を聞いていると、電話の相手は病院でなく個人のようだ。
おそらく、呪いに関する知識を持つ知り合いでもいるのだろう。
しかし、何人かに連絡しても色良い返事はもらえていないようだ。
黒霧は町中で発生していたのだから、既に他の人からの依頼を受けているのだろう。
4・5人から断られた後、先生の手は止まった。他に心当たりがある人がいないようだ。為す術が無くなり、考え込んでいる。
部屋の奥でその様子を見ていた宮内さんは、その男子生徒の方へと近づいて行った。
その男子生徒の様子を見ながら宮内さんは口を開く。
「…………私が診ましょうか、先生?」
言葉の意味をとりかねた先生は不審な顔を宮内さんに向ける。
「私は高等部1年4組、宮内久美と言います」
それを聞いた先生は得心がいったという顔をした。
「君が噂の奇跡の巫女か」
良く分からない単語を出してきた先生は、話を続ける。
「大丈夫なのか? そもそも君自身、被害者の1人なんだぞ」
「私は、黒霧の瘴気に少し当てられただけですから」
先生は再度、男子生徒の様子を見て宮内さんの提案を了承する。
「それなら手を貸してもらえるか? 正直、私には手の打ちようが無い。私に出来る事があれば 遠慮なく言ってくれ」
「では、この部屋の扉と窓全てに鍵を掛けて、カーテンを全て閉めて電気を消してください。この部屋を霊室とします。そして私の能力が発動したら、彼を起こして下さい」
先生は、言われた通り行動する。
一体、彼女は何を始める気なんだ? 俺は宮内さんに近づく。
「宮内さん、これから、何が…………?」
彼女はこちらを向いて微笑む。
「杉原君には、一度私の能力は体験させちゃったよね、最悪な形で。だけど、私の能力は本来あんな使い方をするものじゃないんだ…………」
俺の転校初日。凶也が犬神さんに暴言を浴びせた時に彼女の能力が発動した。教室中に文字が浮かび上がり、その文字を見た時俺はまるで暗示をかけられたように感じた。
「私は子供の頃から極度に精神が昂ると、意識が遠くなって眠ったようになることがあるの。そして、覚醒と睡眠の中間の状態の時に私の能力が発動するらしいわ。その精神の昂揚の原因が怒りや悲しみといった負の感情によるものであった場合、その想いが念字となって周囲に浮かび上がり、それを見た人に強力な負の暗示をかけてしまう。この現象を私は邪霊部屋と呼んでいるわ。」
精神の昂ぶりで睡眠に入ってしまう、睡眠障害の一種。確かナルコレプシーとか呼ぶ症状だったか。彼女のは極めて特殊な例だけど。
「逆に精神を安らげ、深く沈めることでも発動するわ。安らぎ、癒し、慈しみ、そういうイメージを持って半睡眠状態に入った時に能力が発動すると、周囲に浮かぶ念字には安らぎや癒しの暗示効果が生まれる。その現象を私は浄霊部屋と呼んでいるの。こっちが本来の使い方」
「…………それで、あいつを助けられるってこと?」
「ええ、人の意思の力というのは本来とても強力なものなの。強く意思を持てば、呪いだってはね返せる位にね。ただ、強く意思を持つというのは簡単なことでは無いわ。だから、それを私の能力で手助けするのよ」
先生が部屋の電気を消した。カーテンも閉め切っているので、部屋は真っ暗になる。
「それじゃ杉原君、精神集中するから少し離れてもらって良い?」
俺は暗くなった部屋の中で、手探りで壁際に移動した。