黒霧10
じきに部屋の外の騒ぎは静まった。
俺はそっと部屋のドアを開けて、左右を確認する。
人の気配は無い。
俺は2人に合図を送り、周囲に注意しつつ東校舎の渡り廊下へと向かう。
その途中、窓から校庭の方を確認すると、黒霧は2階の中程まで溜まっていた。今までの堆積速度とは明らかに違う。
黒霧は目に見えて俺達に迫ってきている。宮内さんもそれに気づき、俺達は渡り廊下へと向かって走り出す。
渡り廊下の近くまで来ると再び騒ぎ声がしたので、俺は後ろの2人を制止する。
渡り廊下には人が殺到し、未だ100人程が渡りきれずにいた。
先生達が誘導してるけど、収拾がつかなくなっている。
本来なら黒霧が見える生徒を優先して渡らせるべきなんだろうけど誰がそうなのか分からないし、黒霧が見えないからと言って安全とは言い切れない。
その100人の中には黒霧が見える生徒が数名いて、「黒霧がここまで来そうだ」と騒ぐので一層場は混乱する。
俺達は柱の影に隠れて状況を見守ってたけど、廊下の窓から間近に迫っている黒霧を見て、渡り廊下を使うのは無理だと判断した。
しばらく迷ったが、俺達は皆に気付かれないようにその場を後にする。
少し引き返して東校舎4階への階段を登り、更に屋上へと上がった。
あの場に残り続けて、逃げ遅れてしまうのは危険過ぎる。
かと言って屋上も袋小路だ。
究極の2択だったが、こちらの方がまだいくらか希望があるように思えた。
屋上へと出る扉の鍵は閉まってたようだけど、誰かが無理やりこじ開けたような形跡があり、ドアノブが少しひしゃげていた。
どうやら先客がいるようだけど、随分と乱暴な開け方だな。
けれども俺達にとっては、都合が良い。俺達は壊れかけた扉を抜けて屋上へと出る。
屋上からは学園とその奥に広がる町の様子が一望出来る。
そこからの光景はこの世のものとは思えないものだった。
町の至る所で黒い渦が発生し、逃げ惑う人々の姿が見えた。
まるで世界の終末を思わせるその光景に俺は戦慄する。
宮内さんも俺の隣で言葉を失っている。
その中でも特にひどい状況にあるのがこの学園だった。
この高度まで黒霧が堆積している場所は他に無い。
この学園へと避難してきた人達もいたが、避難先が最も危険だという皮肉な状況に陥ってしまっていた。
屋上から3階の渡り廊下の方を見ると、いまにも黒霧に飲まれようとしている。渡り廊下の中ではまだ、移動している生徒達が見えた。
大丈夫なのか? あの中に黒霧が見える生徒が居ない事を信じるしかない。
しばらく渡り廊下を見ていた俺に、ふと1つの案が思い浮かぶ。
(…………屋上から渡り廊下の上を伝って西校舎へ渡れるんじゃないか?)
そう思い立った俺は、2人を渡り廊下の上あたりの位置へ誘導した。
屋上から渡り廊下を見下ろすと、高度が5メートル程あった。
西校舎へと渡るにはここから5メートル下の渡り廊下へと飛び降り、向こう側で5メートルの高さへと飛び上がって西校舎屋上へと渡らなければならない。
常人には到底不可能な芸当だが、それが可能な人物がこの中にいる。
犬神さんだ。
彼女は狼の動物霊に憑かれてから、少しづつ身体が獣化に適応する体組織に変質を続け、次第に人間離れした身体能力を持つようになったそうだ。
その変化には大分苦痛を伴ったらしいけど。
俺も何度か目にしたけど、それはおそらく凶也と同等と言っても良い。
奴は俺の転校初日、男子寮から東校舎へと飛び移るという離れ業をやってのけた。
犬神さん1人でなら、西校舎へと移動出来るだろう。
俺はその考えを2人に話す。
それを聞いた犬神さんは一歩退き、泣きそうな顔で首を振る。
「……そんな……2人、は、あたしの為に……残って、くれたのに…………あたしだけ…………なんて……嫌だ、よぉ……」
犬神さんはそう言いながら、2歩、3歩と後退する。
「…………さっきとは、状況が違うよ。このままだと最悪屋上まで黒霧が到達する。そうなった時、なんとかするには人数が少ない方が助かりやすい」
彼女が俺達を気遣って言ってくれていることは分かっているので、こんな言い方はしたくないが、それでも現状その方法が一番である以上そう言うしかない。
宮内さんは犬神さんに寄り添い、優しく肩を抱く。
「大丈夫。後ですぐに会えるから。先に行って待ってて…………」
犬神さんは最後まで躊躇していたが、渡り廊下が黒霧に飲まれる直前に、渡り廊下の上に飛び乗り、西校舎へと移動した。
向こうへ渡った犬神さんは西校舎屋上の貯水タンクの上に登った後、心配そうに俺達を見つめていた。
「…………さて、と。これからどうしよう…………」
俺は遠い目で呟く。
「…………私に聞かないで…………」
宮内さんは苦笑する。
俺達が途方に暮れていると、どこからか声がした。
「よお、お前等。まだ、こっちの校舎にいたのかよ?」
上から視線を感じて見上げると、屋上の入口の上に腰掛けている生徒が居た。
他人を小馬鹿にしたような不快な笑顔。毎日見ているので、もう見慣れた顔だけど。
そこに居たのはクラスメイトでルームメイトでもある、凶也だった。
「なんだ、凶也? お前も逃げ遅れたのか?」
こいつが逃げ遅れるとは考えにくいが、一応聞いてみた。
「こっからだと、良く見えるんだよな…………」
「……は? 黒霧が?」
「……普段澄ました顔して生活している奴らが、慌てて逃げ惑う姿を見るのは面白れぇ」
俺は思わず溜息を吐く。相変わらずこいつは根性が捻くれ曲がってるな。
「……なんてことを……っ。」
隣に居た宮内さんが、肩を震わせる。
「放っておこう、宮内さん。こういう奴なんだよ。今はそれよりも、俺たちが助かる方法を考えよう」
宮内さんはまだ何か言いたそうだったが、黙して俺の方へと向き直る。
「なんだよ、杉原。やけに冷静だな。今この学園で一番ヤバい状況に置かれてんの、お前等なんだせ。慌てふためく姿を俺っちに見せてくれよ」
「……黙ってろ」
さすがに頭に来たので、一喝する。凶也は肩を竦める。
「…………ヘイヘイ」
認めたくないが、凶也の言う通り逃げ場の無い屋上に追い込まれた俺達には為す術が無い。
黒霧が収まるのを祈って、ここで待つしかないよな。