黒霧8
宮内さんに抱えられている子供は目を閉じてぐったりしてる。どうやら意識を失ってるみたいだ。
母親も疲れきった様子だったけど、それでも子供の名を呼び続けていた。
母子は先生達に連れられ、安静に出来る場所へと運ばれた。
保健室は1階にある為、仮の保健室を上階へと設置したらしい。俺と宮内さんは少し休めば大丈夫そうだったので、仮の保健室へは行かなかった。
先生には無茶な行動をとがめられたけど、その後「よく頑張った」と褒められた。
俺が誰かに褒められるなんていつ以来だろう。
15年間他人との関わりを拒み続けた俺にとって、それは素直に嬉しかった。
とっさにとった行動とはいえ、こんな俺でも誰かの役に立てるんだな。
俺達の周囲に集まっていた先生や生徒はそのうち別の場所へと移り、気づいたら俺達2人だけ。
なんだかちょっと嬉しいような気まずいような。
「杉原君…………」
振り向くと、宮内さんは俺の方を見ていた。
「さっき、杉原君が私の所へ来てくれた時、嬉しかった。正直私すごく怖くて、ぎりぎりの状態だったから…………君が来てくれてなかったら危なかったかも」
「いや、俺も無我夢中でさ。今、冷静に思い返すと自分の行動にぞっとする」
俺は苦笑する。
「…………私の実家はお寺なんだけど、そのせいか私の家系は霊感が強い人が多くて。中でも私の霊感はとりわけ強いらしいの。だから、校舎の入口から黒霧を前にした時に見ちゃったんだ。黒霧の中にとりこまれた、たくさんの霊達を。多分、黒霧の負の思念に引き込まれたこの辺り一帯の浮遊霊が、黒霧から出れなくなって助けを求めてるんだと思う。そんな霊達が黒霧の中でたくさん蠢いてすごいことになってた」
いや、怖すぎるんですけど。
話を聞くだけで寒気を感じた。
彼女はそんな中、母子を助けに行ったのか…………
良く見ると、まだ彼女の手は震えている。
俺が思わず彼女の手を取ると、彼女は驚いた表情でこちらを見た。
「あ、ゴメン。少しでも落ち着くかと思って…………嫌だったら言って」
彼女は黙って首を振る。
俺の手から彼女の柔らかい手の感触が伝わってくる。変な気持ちにならないよう慌てて思考を切り替える。
彼女の話が事実なら、さっき2階で女子生徒が黒霧を見たときに言った「声が聞こえる」というのは霊達のものだろう。俺が黒霧を見たときに意識をのまれそうになるのも、それが関係しているのかもしれない。
「杉原君」
宮内さんの声で俺は思考を中断する。
「ありがとう。もう大丈夫だよ、落ち着いたから。私、刹那のことが気になるから教室に戻るけど、杉原君はどうする?」
「…………うん、俺も一緒に行くよ」
俺は、彼女の手を離す。
名残惜しいけど。
俺達は立ち上がり、1年4組の教室へと向かう。
廊下を移動する途中で、俺はそっと横目で校庭の様子を確認する。
黒霧は既に校庭の半分程を覆っていた。
あまりに現実感の無いこの光景。
この状況は間違い無く、俺がこの町へ来てから経験した非日常的な現象の中でワースト1だ。
この学園の生徒や先生がこれ程動揺するなんて、最上級の異常事態だ。
教室の扉を開けると、十数人の生徒が居た。さすがにこの状況では授業は行われてはいなかった。
宮内さんは真っ直ぐ教室の後ろにあるテントの方へ向かう。そしてテントを軽く揺らし、声をかける。
中に居るのは宮内さんの友達、犬神 刹那さんだ。
「刹那、大丈夫?」
テントの入口がゆっくり開いて、中から不安そうな犬神さんの顔が覗く。
彼女の中の狼の本能が黒霧を恐れているようにも見える。
宮内さんはテントの入口に座り、犬神さんに話し掛けている。
俺も少し離れてテントの横の方に座る。教室内の皆は割と落ち着いていた。
自分達は2階にいて、安全だという安心感があるからだろう。俺も見慣れた教室に戻って、恐怖心が薄らぐのを感じた。
宮内さんと犬神さんの小さな声で囁くような会話を聞いていると、少しずつ眠気が襲って来る。
極限の緊張状態を強いられ疲労が溜まっていたみたいだ。
俺はそのまま、宮内さん達の声を子守唄にして夢の世界へと沈んでいく。
目が覚めた時黒い脅威が去っていることを期待して、壁にもたれたまま眠りにつく。
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どの位時間が経ったんだろう。
突然、スピーカーのスイッチが入る音で目が覚める。何かの夢を見ていた気がするけど忘れてしまった。
教室を見回すと眠る前と変わった様子は無い。
テントの入口の所で座っていた宮内さんは、犬神さんとの会話を中断して教室のスピーカーの方に顔を向ける。
《現在、東校舎2階にいる全生徒は3階へと移動しなさい。繰り返す。現在、東校舎2階にいる全生徒は至急3階へと移動しなさい》
あまりに唐突な放送だった。
放送をしているのは阿古田先生のようだけど、さっきと違い声に余裕が無い。
状況に何らかの変化があったみたいだ。
窓際に座っていた宮内さんもそう感じたらしく、そっと腰を上げて窓の外を見る。
「えっ!? 何なの、これ…………」
外の様子を見た宮内さんは絶句し、後ずさりする。俺も急いで駆け寄り、窓の外を覗く。
窓の外は真っ黒だった。
さっき見た時は校庭の半分程を黒霧が覆っていたんだけど、今ではどこが校庭なのか分からない程に一面漆黒の霧に沈んでいた。
そして目に見えて分かる程に、拡がり続けている。
まるで天から降り注いだ黒い砂が堆く積もっていくように、それは東校舎2階まで到達しようとしていた。
俺達2人の様子を見ていたクラスメイト達が、慌てて詰め寄る。
「おい、何かあったのか? 俺達、その黒霧とかいうの見えねぇんだけど」
どうやら、現在クラスに残っていて黒霧が見えるのは俺と宮内さんだけのようだ。
犬神さんは見えてはいないようだけど存在は感じるらしく、黒霧に触れるのは危険かもしれない。
俺はひとまずクラスメート達に状況を説明した。
「なあ、黒霧は見えない人間にとっては無害だって聞いたけど、本当なのか? 前に発生したのってかなり前の事なんだろ。そんな情報当てになんのかよ。俺達、ここに居ても大丈夫なのか?」
クラスメートは困惑したように、矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。
さっき霧島が言っていたように、現在伝わっている黒霧の情報には齟齬があるようだ。
黒霧が見えないと言っても、決して楽観は出来ないだろう。
「いや、ひとまず全員上の階に移動した方が良いと思う」
俺は率直な意見をクラスメイト達に告げる。
それを聞いたクラスメイト達は、我先にと教室を後にした。
俺がクラスメイトに避難を促した理由は2つある。
1つはもちろん、彼らの安全の為だけど、もうひとつの理由は犬神さんの為だ。
彼女は過去の心的外傷の為、極度の対人恐怖症なんだそうだ。
クラスメイトがたくさんいる中では、テントから出ることが出来ない。
そういう理由で教室を無人にする必要があった。
しかし、本当に心を許した人間に対しては話をすることも出来るらしい。
そんな人間はこの学園において2人しかいない。
宮内さんと、静刃先生だ。
最近は、俺に対しても少しずつ心を許してくれ始めているようだ。とは言っても、俺の前に出るのは宮内さんが傍に居る時|限定なんだけど。