荷物持ちを「もう要らない」と追放した王子様へ。その一言、誓約の解除呪文です ~実は国内唯一のSランク、手遅れになっても知らんぞ~
「バルト。お前は今日でクビだ」
焚き火の向こうで、第四王子レイモンドが腕を組んでふんぞり返っていた。
「貧弱な荷物持ちは要らないんだよ」
——パキン。
澄んだ音が、俺の胸の奥で鳴った。酒盃の氷が割れるみたいな、いい音だった。
ああ、言ったな。言いやがったな、この馬鹿王子。
焚き火に照らされた王子様は、今夜も無駄に顔がいい。赤毛の癖っ毛に、宝石のトパーズみたいな太陽のような目。母君譲りだという白い肌には傷ひとつなく、黙って立っていれば絵物語から抜け出してきたような十六歳だ。着ている鎧は特注の白銀で、鏡みたいに磨き上げられている。——ちなみに毎晩磨いてるのは俺だ。
「聞いてるのか、バルト。貴様はこの一年、俺たちの後ろで荷物を担いでいただけの男だ。俺はもうB級冒険者だぞ? 聖女と剣士を擁する『暁の剣』に、平民の荷物持ちは釣り合わん」
「……レイモンド様、それは」
聖女のセラが腰を浮かせた。蜂蜜色の髪を胸の前でゆるく三つ編みにした、たれ目の娘だ。白い法衣に金の刺繍。国に数人しかいない回復術の天才が、なんでこんな駆け出しパーティにいるのか七不思議の一つである。
「バルトさんがいなくなったら、誰が野営を張るんですか。誰が薬の在庫を数えて、誰が道を引くんですかっ!」
「そんなもの、金で人を雇えば済む。なあトマス?」
「へへ、その通りで。荷物持ちなんざ、どこにでも転がってますって」
鼬みたいな顔の斥候が、王子の後ろでにやにや笑った。剣士のユリア——夜色の短い髪に赤い切れ長の目、小柄なくせに腰に剣を二本差した娘だ——が眉を吊り上げて何か言いかけたのを、俺は目で止めた。
むしろ最高だ。
「いいんだ、嬢ちゃんたち」
俺は背負い袋を地面に下ろした。一年間、こいつらの飯と薬と替えの下着まで詰めて運んだ袋だ。我ながらよく働いた。
言っておくが、俺の見た目はしがない荷物持ちだ。灰色の髪をぼさぼさに伸ばして、無精髭、日焼け、目つきは自分でも褒められないと思う。三十過ぎの中肉中背の平凡な見た目で、取り柄は分厚い手のひらと、八十キロ担いでも減らない口くらい。……ってことに、なっている。
「王子様が要らないってよ。なら、要らないんだろ」
「わかればいい。報酬は今月分まで払ってやる。感謝しろ」
「おう、感謝するよ。……ほんとにな。お前の親父さんの次くらいに感謝してる」
「は? 親父……?」
「こっちの話だ」
俺は袋から自分の毛布と酒瓶だけを抜き取って、立ち上がった。ついでに、袋の底に忍ばせてあった魔物避けの香——俺が毎晩こっそり焚き直していた、S級素材の香だ——も回収した。もうこのパーティのものじゃないからな。
「じゃあな、『暁の剣』せいぜい輝けよ」
夜の街道を、俺は鼻歌まじりに歩き出した。
一年ぶりの、自由だった。
◇
ことの始まりは一年前。王都の裏路地にある酒場「古の王冠」だ。
「マレナちゃん。今日も別嬪だな。その前掛け、新しいだろ」
「三日前からです。麦酒?」
「麦酒、そこは気づいた俺を褒めるとこだろ」
「はいはい。えらいえらい」
看板娘に子供みたいにあしらわれる。この店に通う理由の三割がこれで、残りの七割が酒と、悪友だ。
その夜、俺はいつもの席で、いつもの悪友と飲んでいた。
「バルトよぉ、儂は悲しい」
「ガレスの旦那、酔うと湿っぽくなるの直せって」
悪友の名はガレス。五十がらみの髭面で、赤毛に白いものが混じった、熊みたいな大男だ。腕は丸太、笑い声は雷。左手の薬指にだけ、指輪を外した日焼けの跡がある。この店では「隠居した傭兵」で通っている。
正体は、この国の国王陛下であるんだがな。
嘘みたいな話だが、本当だから困る。十年前、お忍びで城を抜け出したこの親父が酔っ払いに絡まれてるのを、たまたま俺が助けた。以来、月に二度はこの店で飲む仲だ。向こうは俺の正体を知ってるし、俺も向こうの正体を知っている。知った上で、互いに「旦那」「バルト」で通している。それがこの飲みの唯一の決まりだ。
ちなみに俺の正体ってのは——まあ、これも噓みたいな話なんだが。
この国に一人しかいない、Sランク冒険者。登録名「灰狼」。狼の面を着けて仕事をするから、素顔は誰も知らない。ギルドマスターと、目の前の旦那くらいだ。
なんで顔を隠すかって? 決まってるだろ。顔が売れたら、酒場で静かに飲めなくなるからだよ。
「末の息子がな、冒険者になると言い出しよった」
「へえ。いいじゃねえか」
「よくないわい。あれは剣の才だけはあるが、中身は膨らんだパンよ。外はそれらしいが、中は空ぞ。城の外を知らんまま冒険者の真似事なんぞしたら、三日で死ぬ」
「死なせときゃいいだろ、それで死ぬ器なら」
「バルトよぉ……」
「わーった、わーった。泣くな、面倒くせえな」
で、酒が進んで、進みすぎて、俺は言ってしまったのだ。
「よし、旦那! 俺がその坊主、いっぱしの冒険者にしてやんよ!!」
「おお! 言うたな! 誓約じゃ! 誓約の魔法で誓え!」
「上等だァ!」
誓約の魔法。古い魔法で、酒盃に魔力を落として誓いを立てると、破れない約束になる。破れば魔力が心臓ごと止まる、洒落にならん代物だ。
酔った俺と旦那は、その洒落にならん代物で洒落でやった。店主が「またやってるよこの二人」って顔で新しい酒を置いていった。この店の店主は、俺たちが何を誓おうが酒代さえ払えば文句を言わない。ほんと良い店だ。
誓いの中身はこうだ。
一つ。バルトは身分を隠し、レイモンドを一人前の冒険者に導くこと。
一つ。導いている間、バルトはレイモンドの前で実力を明かせない。荷物持ち以上の何者にもなれない。——これは旦那の案だ。「Sランクが隣で無双したら、あやつが何も学ばんじゃろ」と。まあ、正論だった。
一つ。この誓約は、レイモンド自身が「もう要らない」と口にしたとき、解除される。——これも旦那の案だ。
「息子が自分からお前を手放すようなら、それはもうそこまでの器ということよ。……そのときはあやつを見限ってええ。好きにせい」
あの夜の旦那の目は酔ってるくせに、酔ってなかった。
◇
だからこの一年、俺は「荷物持ちのバルト」だった。
言っとくが、荷物持ちってのは肩書きだけの話じゃない。俺は本当に荷物を持った。四人分の野営道具と食料と薬、締めて八十キロ。それを担いで、パーティの誰より先に危険に気づき、誰にも気づかれないように潰して回った。
夜営地の周りに魔物避けの香を焚いた。トマスが見落とした罠を、つまずいたふりして踏み壊した。セラの解毒が間に合わない毒を、最高級解毒ポーションをぶっかけて消した。依頼主と揉めれば頭を下げ、報酬を値切られれば夜中にギルドと交渉し直した。
一度なんか、街道の先に盗賊が二十人、待ち構えてたことがある。
「ちょっと小便」
俺はそう言って森に入り、五分で戻った。
「遅いぞ荷物持ち! 貴様のせいで日が暮れたらどうする!」
「わりぃわりぃ。歳でキレが悪いんだわ」
その日の街道は、不思議なくらい静かだった。翌朝、縄で簀巻きにされた盗賊二十人が街道脇に転がってるのを見つけて、レイモンドは「我が国の衛兵は仕事が早いな!」と満足そうに頷いていた。まあ、そういうことにしておいた。簀巻きにした奴の身にもなれ、五分で二十人は結構ぎりぎりなんだぞ。
剣の稽古だけは、堂々とやれた「荷物持ちの爺さんに昔習った型だ」と言い張って、レイモンドに毎朝、剣を教えた。
教えたのは、基礎の構えをひとつだけ。腰を落とし、剣を後ろに引いて、息を三つ数えて撃つ——それだけの型だ、名前は教えなかったが「朝の型」とだけ呼ばせた。本当の名前を教えるのは、あいつが一人前になった日でいい、そう思っていたんだ。
予想外だったが、あの馬鹿、飲み込みだけは本当に早かった。一年でB級まで来たのは、半分は俺の仕込みだが、半分はあいつの才だ。
そこは、認めてやってもいい。
ついでに白状しておくと、俺は女が好きだ。
宿場に着けば女将を褒め、酒場の給仕に軽口を叩き、市の花売りから一本買って渡してみたりする。たまに肘鉄を食らって笑っている。旦那には「その歳で懲りんのう」と言われるが、褒めて減るもんじゃない。名を名乗れん男に残された、数少ない贅沢だ。
ただし、うちの二人は別枠だった。
仲間で、王家からの預かりもので、しかもこっちは身分を偽ってる。口説くなんぞ論外だ。だから俺は一年、その線をきっちり守った。
……守りすぎた、というのを知るのは、もっと後の話になる。
問題は、強くなった分だけ、中身のパンが膨らんだことだ。
「セラ、ユリア。お前たちは俺の女になれる名誉を——」とか言い出したあたりから、雲行きは怪しかった。聖女と剣士は完全に俺の稽古と俺の飯のほうに懐いてたから、王子様は面白くない。面白くない理由をあいつは俺に付けた。
で、冒頭の追放、というわけだ。
……なあ、旦那。あんたの読み通りだよ。
この坊主、そこまでの器だったわ。
◇
王都に戻った俺は、その足で「古の王冠」の扉を開けた。
「おう、バルト! 久しいの!」
「旦那。聞いて笑え。クビになった」
「なんじゃと?」
「『もう要らない』——一言一句、この通りだ。誓約はパッキパキに割れた。証人はいらねえよな、あんたの魔法だ」
旦那はしばらく黙った。それから、髭の奥で長い長いため息をついた。
「……そうか。あれは、言うたか」
「言った言った。いやあ、いい音だったぜ」
「馬鹿息子がっ」
卓が拳で割れた。店主が「勘弁してくださいよ隠居さん!」と悲鳴を上げる。
「すまんの、バルト。一年も付き合わせてこの様か。……誓いは果たされた。文句なしの満了じゃ。お前はもう自由よ」
「おう。だから今夜は祝いだ。飲むぞ旦那、あんたの奢りでな」
「当たり前じゃ! 飲め飲め! ……じゃがのう、バルト」
旦那は新しい酒を呷って、静かに言った。
「あれの転び方だけは、見届けてやってくれんか。親としてではない。……酒の相手として、頼む」
「趣味悪いねえ、旦那」
俺は笑って、盃を合わせた。
見届けるも何も。俺が消えた『暁の剣』がどうなるかなんて、賭けにもならねえ。
◇
◆side レイモンド
バルトを切って三日目の夜、野営地が魔物に襲われた。
「なぜだ!? この街道は安全なはずだろう!?」
「わ、わかりません! 一年間、夜襲なんて一度も——」
トマスの悲鳴を、ゴブリンの群れの咆哮がかき消す。たかがゴブリン、されど四十匹。俺の剣で二十は斬った。セラの結界とユリアの剣でどうにか凌いだが、天幕は破れ、食料の半分が駄目になった。
「おかしい……この一年、夜襲なんて一度もなかったのに……」
ユリアが呟いた。セラが小さく言った。
「……バルトさんが、毎晩なにか焚いていました。天幕の風上で」
「そんなのは偶然だっ」
俺は言い切った。荷物持ちの線香ごときで魔物が防げるものか。
五日目、ギルドで護衛依頼を受けようとしたら、商人に断られた。
「『暁の剣』? ああ、あの灰色の髪の兄さんがいるパーティだろ。え? 辞めた? ……なら、いいや。別を当たる」
「な……俺は王子だぞ! B級冒険者の!」
「あのねえ王子様。あんたらの護衛が快適だったのは、あの兄さんが宿と飯と揉め事を全部さばいてたからだよ。商人はみーんな知ってる。知らなかったのは、あんたらだけだよ」
七日目、昇格査定が下りた。B級からの降格勧告だった。
「ふざけるな! 俺たちは強くなっている! 現にゴブリン四十を退けた!」
「達成報告書を見てください」
受付嬢は淡々と書類を積んだ。
「過去一年、五十七件。うち四十九件の報告書が、同行者バルト氏の署名です。彼の署名がある依頼は達成率十割、苦情ゼロ。……先週の依頼、彼が抜けて初めての一件は、納期遅れと備品破損で違約金が出ています。ギルドの査定は、パーティではなく実績に付くんです」
「そんな、馬鹿な……」
八日目、新しい荷物持ちを募集した。応募はゼロだった。
「B級パーティの専属だぞ!? 相場の倍払うと言っているんだぞ!」
「王子様よぉ」
ギルドの酒場の隅から、古株の冒険者が笑った。
「あんたの前の荷物持ち、この街の裏方連中の兄貴分みたいな人だぜ。宿の親父も、道具屋の婆さんも、みーんなあの人の顔で動いてた。……その人をゴミみたいに捨てた雇い主んとこに、誰が行くかね」
酒場じゅうが、くすくす笑っていた。
王族のこの俺を、笑うな
十日目、セラとユリアが荷物をまとめた。
「待て! どこへ行く! お前たちは俺の——」
「私たちは、あなたの物になった覚えはありません」
セラの声は、祈りの時と同じくらい静かだった。
「レイモンド様。あなたは強くなりました。それは本当です。でも、誰のおかげで生きて強くなれたのか、一度でも考えたことがありますか」
「荷物持ちのおかげだとでも言うのか!? あいつは俺の成長に嫉妬して——」
「稽古をつけていたのは、どちらですか」
ユリアの一言に、何も返せなかった。
毎朝の、あの型。荷物持ちの爺さん直伝だという、あの馬鹿みたいに実戦的な型。俺の剣は、ぜんぶ、あれで——
「……出て行け! 女など、いくらでも代わりがいる!」
二人は出て行った。トマスは翌朝、置き手紙も残さず消えていた。
後で知ったことだが、トマスはパーティの備品を勝手に売り払おうとして、ギルドに捕まったらしい。査定表の写しを裏の商会に流そうとした件も足がついて、冒険者証は没収。俺の腰巾着だったあの男は、俺より先に、冒険者ですらなくなった。
俺は、一人になった。
◇
その頃の俺——バルトの話もしておこう。
クビになって十日。俺は王都で、実にいい休暇を過ごしていた。朝から風呂、昼から酒、夜も酒。合間にギルドの裏口から灰狼の仕事を二件ばかり片付けて、財布はあったかい。最高かよ。
その夜も「古の王冠」で一人飲んでたら、扉が開いて、見覚えのある二人が入ってきた。
「……バルトさん。やっぱりここだった」
「うちの姫様が、どうしてもって」
「げっ」
聖女と剣士だ。逃げ場のない席まで、まっすぐ来やがった。法衣を脱いだセラは町娘の格好で、三つ編みをほどいた蜂蜜色の髪が肩に流れてる。ユリアは相変わらず腰に二本差しのままだ。酒場に剣を二本持ち込む美少女、悪目立ちにもほどがある。
「げっ、とはなんですか。げっ、とは」
「いやあ……嬢ちゃんたち、こういう安酒場に来ていい身分じゃねえだろ」
「パーティ、抜けてきました」
セラはあっさり言って、俺の隣に座った。ユリアが反対側を固める。挟み撃ちだ。盗賊二十人より質が悪い。
「バルトさん。一つだけ、教えてください」
「なんだよ」
「あの魔物避けの香。あれ、王都の道具屋を全部回っても、売ってませんでした。……素材から言って、S級火竜の心臓の腱。市場に出れば、家が三軒建ちます」
「…………詳しいねえ、聖女様は」
「教会の薬草学は伊達じゃないんです。——あんな物を毎晩惜しげもなく焚く荷物持ちが、どこの世界にいるんですか」
俺は酒で誤魔化した。ユリアが横から、ぼそりと言った。
「私は、剣でわかってた。あの型、対人じゃなくて対竜の型でしょ。荷物持ちの爺さん直伝、なんて嘘。……でも、聞かない。話したくなったら、話して」
「……お前ら、いい女になるよ」
「なりました。誰かさんの飯で」
そこへ、麦酒の追加を運んできた看板娘が口を挟んだ。
「バルトさん、その台詞、あたしにも言いましたよね」
「言ったな」
「……マレナさんにも?」
セラの声が、半音下がった。
「言うのよ、この人は。誰にでも」
ユリアが果実酒の杯を置いた。置き方が、ちょっと強い。
「へえ。じゃあ私たちのも、その他大勢と同じ口ですか」
「違うに決まってんだろ」
俺は麦酒をあおって、顎で二人を指した。
「マレナちゃんは器量を褒めた。あんたらは中身を褒めた。——全然ちがう」
二人が同時に黙った。
……なんだよ、その顔は。
「……ずるい人ですね」
「そういうとこ」
嬢ちゃんたちは顔を見合わせて、それきり何も言わずに杯を合わせた。俺には何が起きたのかさっぱりわからん。わからんが、二人とも耳まで赤かったのは、たぶん酒のせいじゃない。
まったく、口の回る嬢ちゃんたちだ。その夜は三人で飲んだ。聖女様は見た目の三倍飲む酒豪で、麦酒を十杯空けても祈りの姿勢が崩れなかった。教会は何を育ててるんだ。ちなみに馬鹿王子の話は誰もしなかったな。
◇
◆side レイモンド
認めない。認めるものか。
俺は強い。この一年で強くなったんだ。それを証明すれば、全部元に戻る。女たちも、査定も、全部だ。
だから俺は、掲示板のいちばん上の依頼を剥がした。
——A級討伐依頼。火竜。通称「谷の主」。竜の谷にて目撃。討伐報酬、金貨三百枚。
「王子様、正気ですか!? A級はB級パーティでも全滅する案件——ましてやソロなんて!」
「うるさい! 俺を誰だと思っている!」
雇った傭兵五人と谷に入って、半日で理解した。
俺は、何も、わかっていなかった。
谷の主は、噂の倍の大きさだった。赤黒い鱗は城門みたいに厚く、吐く火焔——竜焔は、岩を飴みたいに溶かした。傭兵は最初の一吹きで二人焼かれ、残りは俺を置いて逃げた。
だから俺は、最後の力で、あの構えを取った。
毎朝の、あの型。腰を落とし、剣を後ろに引いて、息を三つ。
「うおおおおおッ!!」
渾身の一撃は、確かに入った。この一年でいちばん冴えた、最高の一太刀だった。
入って——鱗の上で、折れた。
もう左脚が、折れてる。剣は、根本からへし折れた。目の前には、口を開けた竜の喉。奥で、火が渦を巻いて——
ああ。
死ぬ間際ってのは、本当に、いろんなことを思い出すんだな。
毎朝の稽古。飯の匂い。破れた天幕を黙って繕っていた、あの背中。
……あの人の担いでいた八十キロの中身を、俺は一度も、見たことがなかった。
「たす……けて……」
誰にともなく、俺はそう呟いていた。
火焔が、来る。
——が来なかった。
「よお」
いつの間にか、竜と俺の間に、男が立っていた。
灰色の狼の面。夜みたいに黒い外套。左手に無造作に提げた、黒鞘の長剣。中肉中背。俺より頼りない体つき、なのに体幹にぶれがない。
男は俺の折れた剣を一瞥して、それから、静かに腰を落とした。
剣を後ろに引く。息を、三つ。
——同じ、構えだ。
俺が毎朝やらされた、あの「朝の型」と、寸分違わず、同じ——
「灰狼剣、一の牙」
男が、囁くように言った。
「——『風喰み』」
風の音がした、と思った次の瞬間、火竜の首が、胴体と別々の方向に倒れていった。
遅れて、谷じゅうの空気がまとめて震えた。斬撃の余波が向かいの崖を撫でて、岩肌が豆腐みたいに一枚、滑り落ちる。抜き打ちの一太刀。剣が鞘を出た瞬間すら、俺には見えなかった。
巣から飛び立った火竜の眷属——飛竜が六匹、悲鳴のような咆哮を上げて男に殺到した。
男は、面倒くさそうに首を鳴らした。
「六か。……二の牙、『群狩り』」
黒い剣線が、横に一度だけ閃いた。
六つの首が地面に落ちるまで、俺は瞬きを二回しかしていない。剣筋は、一本も見えなかった。B級になった俺の目で、一本もだ。
これが。
これが、本物の——
——そのとき、谷が、鳴った。
崖の上の空が翳り、太陽が消えた。翼だ。翼が、空を覆っている。
『——ォォォォォォォッッ!!』
鼓膜じゃなく内臓で聞く咆哮とともに降りてきたのは、谷の主の番——雌竜だった。竜は雌のほうが大きい。倍、大きかった。開いた顎の奥で、白い火が渦を巻いている。あれを吐かれたら、谷ごと蒸発する。終わりだ。今度こそ、何もかも——
「ちっ。……悪いな、デカいの」
男は空を見上げて、初めて剣を両手で握った。
「こっちは今夜、酒を飲んで女なんだ——」
腰が沈む。剣が背中まで引かれて、黒い外套が風を孕んだ。息を、三つ。
白い火焔が、降る。男が、掻き消える。
「灰狼剣、終の牙——『月墜し』」
世界が、縦に割れた。
そうとしか言えなかった。天から地まで白銀の線が一本走り——降ってくる火焔ごと、雌竜の巨体が真っ二つに分かれて、谷の両側へゆっくりと倒れていった。地響きが、二度。それきり、谷は静かになった。
俺は声も出せずに、立ち込める土煙の中の背中を見ていた。
朝の型。あの馬鹿みたいに地味な、素振り一万回のあの型。あれは——この化け物の剣の、入り口だったのか。
「Sランク……『灰狼』……」
国内にただ一人の、生ける伝説。ギルドの緊急要請でしか動かないという、仮面の最強の冒険者。
その灰狼が、面に手をかけた。
「生きてるか、馬鹿王子。——」
面の下から出てきた顔を、俺は、忘れるはずがなかった。
「バ……ルト……!?」
「おう。お前がクビにした、荷物持ちだよ」
◇
時間を少し巻き戻す。その日の昼、俺はギルドの裏部屋に呼ばれていた。
「灰狼! 頼む、緊急要請だ!」
ギルドマスターの禿げ頭が、卓にめり込む勢いで下がった。この男と俺は十年の付き合いだが、ここまで慌ててるのは初めて見た。
「例の馬鹿王子が、単独でA級討伐に出た。火竜だ。止めたんだ、受付総出で止めたんだが、王族命令だと喚いて振り切られた。……なあ灰狼、頼む。あれでも国王陛下の」
「知ってるよ。俺がクビになったパーティのリーダー様だ」
「〜〜〜っ、だから頼みづらかったんだ!!」
「規定の報酬でいいぜ。竜素材の優先買取権も付けろ。あと」
俺は狼の面をかぶりながら、ついでみたいに言った。
「急ぎの仕事だ。走るぞ、爺さん。竜の谷まで」
「あ、ああ」
「夕方までに終わらせて、夜は酒と女だ」
俺は身体強化の魔法を、無詠唱で三枚重ねた。
「——『疾風』、三重ね」
扉を開けて、蹴り出すように加速した。窓という窓が風圧で鳴って、ギルドマスターの「せめて扉から出ろぉ!」という叫びが後ろに消えた。
別に、急いでやる義理はない。ないんだが。
……間に合わなかったら、旦那があの湿っぽい顔で飲むことになる。あれに付き合わされる身にもなれ。俺はあくまで、俺の晩酌と女のために走るのである。
◇
いやあ、良い顔みれたわ。
ちなみに技の名前は、ぜんぶ俺が付けた。かっこいいだろ。旦那には「四十を前にその名付けはどうなんじゃ」と笑われるが、うるせえ、技ってのは名前を呼んでやると冴えるんだよ。俺は昔からそう決めている。
念のため言っとくと、俺は駆けつけたわけじゃない。ギルドの緊急要請だ。「B級冒険者が単独でA級討伐に出た。止められなかった。頼む灰狼、間に合ってくれ」——報酬は規定通り貰う。人助けはSランクの仕事で、俺は仕事に手を抜かない。それだけだ。
ただ、まあ。面を外したのは、完全に私情だな。
「うそだ……うそだうそだ! 荷物持ちが、Sランクのわけが……だってお前、一年間、一度も……! それに、いまの構え……朝の型……!」
「お、気づいたか。そうだよ。お前に教えてた型は、灰狼剣の零の牙——全部の技の親だ。三年振り込めば一の牙が出る。……お前、あと二年だったんだぜ」
俺は転がってる馬鹿の横にしゃがんで、ゆっくり教えてやった。
一年前の酒場のこと。誓約の中身のこと。「レイモンドの前で実力を明かせない」という縛りのこと。
そして、その誓約の解除条件のこと。
「『もう要らない』。……お前が俺をクビにした、あの一言だ。あれが解除の呪文でな。お前は自分の口で、自分の守り紐を切ったんだよ」
「じゃ、じゃあ、その誓約は、誰と……誰が、そんな……」
「飲み友達とだよ。……ガレスの旦那っていうんだが」
背後の崖道から、雷みたいな声が降ってきた。
「——馬鹿息子がァァァ!!」
鎧も着けず、馬を乗り潰して駆けつけた髭面の大男を見て、馬鹿王子は今日いちばんの悲鳴を上げた。
「ち、父上ぇ!? なぜ、ここに……なぜ父上が、バルトを……」
「なぜもクソもあるか! 儂の飲み友達を! 儂の頼みで一年もお前の尻を拭いてくれた大恩人を! お前は! クビにしおったんじゃあ!!」
拳骨が落ちた。良い音がした。ちなみに旦那、あれでも手加減してる。素の拳なら頭蓋が割れてる。
「聞け、レイモンド。沙汰を言い渡す」
旦那は——いや、この時ばかりは国王陛下は、心が折れた息子を見下ろして言った。
「王籍からの除名は、せん。じゃが冒険者資格は剥奪。B級の実績は、もともとバルトのものじゃ。返してもらえ。そしてお前は明日から三年、身分を伏せて働け。——荷物持ちとしてな」
「に、荷物持ち……」
「不服か。ならば聞くがの。お前をここまで生かした荷物持ちより、お前は偉いのか?」
「それは……俺は、王子で……」
「たわけ。王子だから何じゃ」
旦那の声が、一段低くなった。城で聞けば、臣下が残らず平伏する声だ。
「肩書きは荷物と同じよ。中身が入っとらん袋を、人は担がん。……お前は一年、目の前で見ておったはずじゃ。八十キロ担いで、罵られて、笑っておった男をな。あれが、中身の入った男というものじゃ」
馬鹿王子は、返す言葉を一つも持っていなかった。
血と泥の中で、長いこと黙り。
それから、絞り出すみたいに言った。
「……分かりました……」
俺は立ち上がって、外套の埃を払った。
で、一年ぶんの気持ちを込めて、にっこり笑ってやった。
「——よう荷物持ち」
◇
◆side レイモンド
隊商の朝は早い。
偽名で潜り込んだ俺に親方がまず教えたのは、荷の縛り方だった。次が水の配分、次が野営の風向き。……ぜんぶ、見たことのある手際だった。あの男が毎晩、焚き火の横でやっていたことだ。
三十キロの荷を担いで、山道を一日歩く。夕方には肩が肉ごと剥がれそうになる。飯は働いた分しか出ない。その飯が、悔しいくらいに美味い。
「兄ちゃん、剣を持ってたんだって?」
隊商の子供に聞かれて、俺は少し黙ってから答えた。
「……昔な。強いつもりでいた」
「今は?」
「今は、荷物持ちだ」
夜、荷を下ろした後、俺は誰もいない場所で構えだけをやる。腰を落とし、剣の代わりに天秤棒を後ろに引いて、息を三つ。
零の牙。全部の技の親。あと二年だったと、あの人は言った。
……もう一度、あと二年を積む資格が、俺にあるだろうか。
あの男の背中に追いつくのは、いつになるのだろうな。
◇
後日「古の王冠」。
「かんぱーい!」
「……なんで、こうなった」
俺の右隣で聖女様が麦酒をあおり、左隣で剣士の嬢ちゃんが果実酒を舐めている。二人とも今日、正式にパーティ申請を出してきたらしい。リーダー欄は空白で、その下に「荷物持ち・バルト」と書いてあったそうだ。ギルド中が大笑いだったと受付嬢が教えてくれた。
「だってバルトさん、Sランクだってバレたんだから、もう隠す意味ないでしょう?」
「大ありだっつーの。……バレてからこっち、道を歩けば決闘を挑まれ、酒場に入れば奢らされ、ギルドに顔を出せば依頼の列だ。面の有り難みが骨身に沁みてるとこだよ」
「あら。じゃあ私たちのパーティに入れば、受付は全部私がやりますけど?」
「私は決闘を全部斬る」
「勧誘の手口が旦那と同じなんだよなあ、お前ら……」
「あ。それと、バルトさん」
セラがにっこり笑った。笑っているのに、目だけが祈りの時の顔だ。
「昨日ギルドで、赤毛の受付嬢さんに『その髪の色はいい』って仰いましたよね」
「言ったかもなあ」
「今日、その方から差し入れが届きました。わたくしが受け取りました」
「おい」
「ちゃんと、わたくしが食べておきました」
「食ったのかよ!」
「半分は私」
ユリアが真顔で頷いた。
「……なあ嬢ちゃんたち。それ、どういう了見だ」
「さあ」
「知りません」
声が揃った。息もぴったりだ。仲がいいのは結構だが、こっちの菓子を返せ。
「私たちは知ってます。あなたの荷物の中身がぜんぶ、私たちを守るためのものだったこと」
「……酒がまずくなる話はやめろ。飲め」
「では飲みつつ、交渉です。——灰狼剣、私にも教えてください」
ユリアが果実酒を置いて、真顔で言った。目が本気だ。剣士の目だ。
「はぁ、『朝の型』からだな。素振り一万回、三年」
「やる」
「即答かよ。……ったく、王子様に聞かせてやりてえ返事だ」
「まあまあ飲んどるの、お主ら!」
奥の席で旦那が笑う。ちなみに例の馬鹿息子は今ごろ、隣街の隊商で三十キロ担いで山道だ。最初は三日で音を上げて、逃げようとし、隊商の親方に拳骨を貰ったらしい。良い親方だ。俺の古い知り合いでな、まあ、偶然だ。偶然。
「なあ、バルト。それで、儂の頼みなんじゃがの」
「断る」
「まだ何も言うとらんじゃろ!」
「顔に書いてある。『三年後、性根を叩き直したあれをもう一度』——だろ」
……そういえば俺は、竜を斬りに走った日に「今夜は酒と女だ」と言った覚えがある。
酒はある。女も、まあ、両隣にいる。
いるが、これは、そういうんじゃない。……ないよな?
旦那は髭を撫でて、にやりと笑った。
「酒代は、儂が一生持つ」
「…………」
「王家の酒蔵、開け放題じゃ」
「……考えといてやるよ」
まったく。
誓約の魔法ってのは、酒の席で使うもんじゃねえな。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「追放した側が、自分の口で解除呪文を唱えてしまう」——思いついたのはその一点だけで、あとはバルトが勝手に喋ってくれました。楽しんでいただけたなら幸いです。
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——反応が良ければ、連載版をやるかもしれません。三年後、荷物を担げるようになったあの馬鹿王子が戻ってくる話が、頭の中には一応あります。
続きが読みたいと思っていただけたら、ブックマークで教えてください。数が見えたら書きます。
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作者は連載でこちらも書いております。
『名字マニアの天下取り ~名字が国名の戦国で、俺は47の名を誉めて味方にする~』
https://ncode.syosetu.com/n1116mn/
名字マニアの会社員が、国の名前が全部「その土地でいちばん多い名字」という戦国日本に転生する話です。名の由来を言い当てて誇りを誉める——奪えば恨みが残るが、誉めれば名が味方になる。
毎日20時10分更新。第一部・琉球動乱編は完結済み、第二部・九州動乱編は9月3日(木)に完結予定です。
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