共有される特異点と、三人の不完全な等式
「……いいか、これが最終決定事項だ。異論は認めない」
翌日の放課後、俺は301号室の中央に立ち、手元のタブレットに表示された「新・居住ガイドライン」を二人に突きつけた。
昨夜の「静寂の拒絶」を経て、この部屋の空気は変わった。
だが、放置すれば再び「糖分爆弾」や「物理的な衝突」が再発するのは目に見えている。
俺は眼鏡をクイと押し上げ、二人の天才を交互に見据えた。
「第一に、床のラインはすべて撤去する。物理的な境界線は、逆に各々の『領土意識』を刺激し、不必要な紛争を誘発することが証明された」
「えっ、撤去しちゃうの? 私の『妹特区』が……」
理央が少し寂しそうに、剥がされたばかりの床の跡を見つめる。
「第二に、共有スペースにおける行動はすべて『湊の思考リソース』を最優先とする。静香、お前の精密管理は私の視界に入らない範囲で行え。理央、お前の『精神的バフ』と称する接触は、私が許可した時間帯のみとする」
「……了解しました。湊様の不可視領域における最適化、いわゆる『バックグラウンド・メンテナンス』に移行します」
静香は無機質な表情のまま、深く一礼した。彼女の瞳には、以前のような強引な管理欲ではなく、新たな「隠密」への挑戦心が宿っているように見えた。
「そして、これが最も重要だ。……食事および生活習慣に関する決定権の51%は私が、残りの49%をお前たち二人が折半して保持する。お前たちの暴走を止めるための、絶対的な拒否権を私が握るということだ」
俺がそう宣言すると、理央は「……ぐ、ぐぬぬぬぬ」と小さく声を漏らした。
「……五分の一ずつしか権利がないなんて。でも、お兄ちゃんの健康を守るためなら……いいわ! その代わり、お兄ちゃんが困ったときは、私のハッキング能力をフル活用して助けてあげるからね!」
理央は鼻息を荒くして、いかにも「自分が最大の味方だ」と言わんばかりの顔で胸を張った。実際、彼女の手はすでにタブレットの予備回線にアクセスし、俺のスケジュールを「妹の愛情(非公開設定)」で埋め尽くそうとしている。
「……理央。今すぐそのバックドアを閉じろ。……まったく」
俺は眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。
視界が白くぼやける。その瞬間、部屋の中に流れる「空気の揺らぎ」が変わった。
一人は俺のバイタルを陰から支え、一人は俺の精神に無自覚なノイズを投げかける。
この非論理的な空間。
「……湊様。お疲れのようです。設定された49%の権利に基づき、適切な濃度の緑茶と、低GIのナッツを供給します」
静香が、いつの間にか音もなく俺の背後に立ち、絶妙なタイミングでトレイを差し出した。
「あ、ズルい静香さん! 私だって、お兄ちゃんの肩の凝りを物理的に解消する権利を行使するんだから!」
理央が俺の左側から飛び込んできようとして、俺の鋭い視線に気づき、境界線(だった場所)でピタリと足を止める。彼女は頬を膨らませ、不満げに指先を動かした。
「……いいわよ。今は、お兄ちゃんの勉強の時間だもんね。私、お兄ちゃんが計算を終えるまで、そこで『いい子な妹』のふりをして待っててあげる!」
理央は、俺のデスクから1.5メートルの距離にあるソファに腰掛け、いかにも「私は我慢しています」という表情で俺を凝視し始めた。
……その視線自体が、相当なノイズなのだが。
俺は再び眼鏡をかけ直し、ディスプレイに向き直った。
20万字という膨大な文字数の果てにある、俺の「研究の完成」。
そこに至るまでの道筋に、この二人の天才という「不規則な変数」が組み込まれた。
理論上、私の効率は低下するはずだ。
だが、キーボードを叩く指先の温度は、以前の孤独な研究室にいた時よりも、僅かに高いところで安定していた。
「……静香。茶の温度が0.5度高い。再調整しろ」
「承知しました、湊様。……お嬢様、茶柱の直立確率を再計算します。協力をお願いします」
「いいよ! 私の計算機、フル稼働させちゃうんだから!」
背後で始まる、天才たちによる「極めて無意味で、極めて高度な」やり取り。
俺はそれを心地よいホワイトノイズとして処理し、数式の海へと深く潜っていった。
この「三人の不完全な等式」が、どのような解を導き出すのか。
20万字の物語は、ここから本格的な加速を始めることになる。
(続く)




