第九話 『32歳、北関東医科大を目指す』
本日より更新時間を、基本的に平日は夜19時以降、休日は朝8~10時に変更しました。
たまに一日に複数話投稿することもあります。
どうぞよろしくお願いいたします。
【共通テストまで 226日】
医学部専門予備校 メディカル∞インフィニティ・昼休みが終わって3コマ目の教室のドアが静かに開く。
時間ギリギリの入室に、
予備校生たちが思わずそちらに視線を向けると、
そこには明らかに異質な人物が立っていた。
皺ひとつないグレーのスーツに革靴。
肌や髪型から推測するに年齢は明らかにタロウたちより上だった。
「……保護者?」
タロウは小声でいつものメンツに声をかける。
「面談か?」
「講師かもしれん」
「雰囲気が違いますね」
ざわつく教室。
すると男は穏やかに会釈をして。
「今日からお世話になります。黒岩といいます」
――受験生!?
一同は思わず固まった。
「黒岩 恒一です。
歳は32歳で元々社会人してました」
圧倒的な落ち着き。
声は低くて柔らかく、これが「大人」だとタロウたちはどぎまぎした。
「32!?」
「五條さん、上がいたな」
「受験界の大御所といったところか」
「社会人経験者…」
「いや、大御所というか医学部は現役生の時に受けただけで…
ブランクはあるんだけど再受験することにしました。
色々教えてくださいね」
「じゃあ大御所の称号は五條さんのままだ」
タロウが肘でつつくと、
五條は悪い気はしていなさそうだった。
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黒岩が席に着いた。
テキストは新品だが
持ち物が社会人。
真っ黒なボールペンのクリップにはモンブランのロゴがツヤツヤ光っていた。
「オーラが違う……」
「高収入のオーラだな」
新たな仲間の登場に、予備校生たちの噂話は絶えなかった。
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今日の授業が終わり、予備校生たちは自習室に向かうもの、帰宅するもの、別れていく。
タロウはさっそく、持ち前のコミュ力と発揮して、黒岩を捕まえた。
「なんで製薬会社辞めちゃったんですか?」
「どんな仕事してたんですか?」
「製薬会社でMRしてました」
「MR!? 年収もすごいんじゃ」
「まあそれなりに」と、黒岩。
「なんでそんなエリート職、辞めちゃったんですか」
「“このままでいいのか”って思ってね」
「それで医学部?」
「うん」
「経験値が違う」
「我々は偏差値で悩んでいるのにな」
「年齢なんて受験を前にしたら関係ないよ。
若い分君たちのほうが有利ともいえる」
こちらのおふざけも余裕でかわず、黒岩の対応に
浪人生たちはどぎまぎした。
「32歳で受験って、怖くないんですか?」
言葉を発した瞬間、タロウはしまった、と思った。
失言だった。
「怖いよ」
だが、黒岩は機嫌を損ねることなく、ちょっと困ったような笑顔で即答。
そして続けた。
「でもね、もっと怖いものがあったんだ」
「挑戦しなかったのを後悔し続ける事」
沈黙。
五條は少しだけ視線を落とす。
「やっぱり経験値が違う」
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【黒岩のスペック】
数学:C
英語:A+(TOEIC900超え)
化学:B
物理:忘却中
「物理苦手なんですか?」
「おかしいよ、現役の頃より公式が増えているんだ」
「時代の被害者がここに」
ニヒルな表情で、五條がにやり。
「五條さん、自分より下を見つけた気になって安心してるだろ。
これを見ろ」
タロウは黒岩の模試結果を五條の前に差し出す。
模試結果。
北関東医科大学:C判定。
「初年度でC!?」
五條が思わず立ち上がり、その反動で椅子が転ぶ。
「黒岩さん、現役で関東理科大学薬学部合格らしい」
「……基礎学力が違う」
決して偉ぶらない控えめなキャラクターと年齢だけで油断していたが
この人はバリバリのエリートなのだ。
黒岩はきまり悪そうに、頭をかいた。
「でも32歳でC判定は重いよ。伸びしろはないさ」
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昼休み、タロウ、終、五條、黒岩でテーブルを囲み、
つかの間の休息――ランチタイムだ。
(俊は高校生なので平日の昼間は学校に行っている)
黒岩のスマホのバイブ音が鳴り、彼は一瞬そちらに目をやったが
名前の表示を見ると、すぐに画面を裏返しにして伏せた。
タロウはその表示名が見えてしまった。
“実家”と書かれていた。
「出ないんですか?」
「仕事中だと思ってるから、ここで出たら怪しまれる」
「もしかして、再受験のこと言ってないんですか?」
黒岩は苦笑いしながら答えた。
「まだね」
「転職活動中ってことになってる」
「まあある意味、医学部受験も転職活動だろう」
五條がチョコスティックパンを食べながらふがふがと言う。
「その通り、だから嘘はついていないってわけ」
「でも安定職捨てて、再受験するってさすがです。覚悟決まってるってかんじ」
タロウは自分との差をかみしめた。
「そうでもないよ、夜は毎晩転職サイトを見てしまう」
「え」
「しかも年収600万以上のフィルターをかけて」
「「「一番迷ってる!!!!!!!」」」
浪人生トリオが声をそろえて言うと
黒岩は幼い笑顔で笑った。
「良かったらそのままタメ口で話してくれないか。
僕も君たちと同じ予備校の生徒なんだから」
黒岩 恒一は大人で、余裕があって、
自分たちとは違うワンランク上の人間だと思っていた。
でも実際は違うのかもしれない。
朝自分で握ってきたという、不格好ででかすぎる塩にぎりと水を飲む黒岩を見て、
タロウはそう思った。
親の金で買ったカップヌードルをつつきながら。




