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第十一話 『一から、続ける』

基本的に平日は夜19時以降、休日は朝8~10時に更新。

たまに一日に複数話投稿することもあります。

黒岩 恒一(くろいわ こういち)、32歳。

医学部専門予備校 メディカル∞インフィニティでは、少しだけ浮いている。


物腰が柔らかく、20歳前後の社会を知らない子供たちからすれば、彼は圧倒的に大人だった。


誰かが安定を捨てて受験なんて、勇気があると、笑って言う。

そのたびに黒岩は

「挑戦しなかった後悔のほうがずっと残るから」

と返した。

だが、その言葉の裏を知る者はいない。


現役のとき、黒岩は北関東(きたかんとう)医科大学(いかだいがく)に落ちた。

必死に勉強したつもりだったが、だが届かなかった。


浪人は選ばずに、合格していた関東理科大学(かんとうりかだいがく)薬学部に進学した。

本当は浪人したい気持ちもあったが、高校3年生の時に父親が交通事故で足を悪くし、今まで通り働けなくなっていた。

ゆえに浪人に快く送り出せるほど、家庭の金銭事情にゆとりがないことは敏い黒岩は気づいていたし

もう1年勉強したところで北関東医科大学に受かる自信もなかった。


これが現実的な進路だろう。

18歳の黒岩はそう自分に言い聞かせた。


大学は6年間ストレートで卒業。

卒業と同時にうける薬剤師国家試験も無事に合格。

薬剤師免許を取得し、

そのまま大手外資系製薬会社に就職した。


順風満帆な人生だった。

年収も同級生の中ではかなり良かった。

営業成績も平均以上。


社会人4年目の時に

地元の同級生と結婚し、その2年後に娘が生まれた。


娘は今四歳になる。

小さな手で、黒岩の指を握る。

「パパ、おしごとがんばってね」

舌足らずに言うその言葉がたまらなくいとおしい。


だがMRとしての仕事はそう甘いものではなかった。


営業成績。

ノルマ。

上司からの「もっと頑張れよ」という叱責。


営業担当先の病院でも、冷たい視線を向けられる。

「ごめんね、今日は忙しいんだよ」

「その話、前も聞いた」


夜なべして作った営業資料が出番のないまま捨てることも、

病院の駐車場に止めた営業車で、

ハンドルを握ったまま動けなくなることもよくあった。


——このままでいいのか。

医学部を志した時に抱いた医療に携わりたい、という意志。

結果合格には届かず

その意志の形を変えて、薬学部に入学し、薬を届ける側になって自分の中で昇華した気でいた。


だが、本当は「薬を処方する」側に立ちたかった。

白衣を着て、診断し、責任を負う側に。

ずっと、どこかに残っていた。


――あの時、医学部を諦めなかったら、どうなっていただろう。


________________________________________


夜。

娘が眠ったあと、黒岩は妻に言った。

「……もう一度、医学部を受験したいんだ」


沈黙。


「医学部って難しいってきくよ」


「……倍率平均10倍」


沈黙。


「卒業するのに6年かかるんでしょう?」


「その後、研修医になって

一人前になるのにおよそ8年かかる」


長い沈黙。

やがて妻は、静かに言った。


たとえ来年受かったとしても、

一人前になるまでに14年。

その時黒岩は46歳だ。


蓄えはあるものの、収入はなくなる。

妻と話していた家族計画は全て見直しになる。


正直、諦めろと言われてもしょうがないと思っていた。


「わかった。応援する。何をすればいい?」

「え?」

「あなたがずっと後悔するより、ずっといい」


泣きそうになった。

大人になればなるほど夢を口に出すのは勇気がいる。



だが両親には言えなかった。


医学部に落ちたことを励まし

それよりも有名薬学部に特待生で入ったことを「お前はすごい」と喜んでくれた両親。


黒岩は足が不自由で思うように働けない父のために、就職して以来ずっと今までの学費を返すつもりで仕送りをしていた。


二人はその仕送りを申し訳なさそうに受け取る。


独り立ちしたと思っていた息子が

安定した職を捨てて32歳で再受験するなんて

また優しい両親の胃を痛めてしまいそうで言えなかった。


幸いなことに、堅実な妻の元

今までの給料の多くは貯金していた。

マイホームと娘の教育資金として……だったが。


生活費、学費、予備校代を計算し、妻がパートを増やしてくれて

なんとか算段が付くと

黒岩は少し出遅れて、6月1日に医学部専門予備校 メディカル∞インフィニティに入塾。


勉強は得意な方だったが、

若い受験生たちのスポンジのような吸収力を目の当たりにすると、自分の老いを感じて悲しくなった。


黒岩にとって無限大の可能性をもつ眩しい彼らでさえ

「落ちたらどうなるんだろう」という不安を口にする。


黒岩の手が止まる。


もし落ちたらーーーー。


家族の生活はどうなっていくんだろう。

娘にどんな未来が与えられるだろう。


一番、失うものが多いのは自分だ。


だが、そんなシミュレーションはもう100億回した。

だから毎晩黒岩は決意をする。


予備校から帰宅して、子供部屋をそっと覗くと

小さな胸が、規則正しく上下する娘の寝顔がそこにある。


黒岩は、そっと呟く。

「パパ、もう一回だけ、一からやるよ」


32歳。

挑戦しなかった後悔のほうがずっと残るから。

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