聖なる光
「聖女教育」といっても、サーシャの日常は大きくは変わらなかった。
早朝のハンドベルの音で目覚め、祈りを捧げ、掃除や畑仕事をし、子どもたちの世話をする。
午後には聖書の朗読や勉強、そして時折、刺繍や薬草仕事を手伝う。
違うのは――その合間に、聖力を扱う訓練が加わったこと。
祈りに力を込めて祝福を与えたり、聖具に聖力を宿す練習をしたり。
最初は空回りすることも多く、力を注いだつもりが何も起きなかったり、逆に祈っていない時にふと光が漏れてしまったりした。
それでも一月が経つ頃には、目に見える成長があった。
サーシャの半径一メートルほどの空間は、自然と浄化の気配に包まれるようになったのだ。
澄んだ空気が漂い、そばにいるだけで人々の心が和らぐように感じられる。
「……聖女様のそばにいると、胸が楽になるわ」
孤児院の子どもたちがそう言って笑顔を見せるたび、サーシャは胸の奥が温かくなるのを感じていた。
* * *
その日もサーシャは、聖力の訓練を終えると花壇や薬草の世話に向かっていた。
ブライダルベールが白く可憐に咲き誇る花壇は、サーシャにとって特にお気に入りの場所だ。
しゃがみ込んで花を見つめていると、不意に胸の奥がざわめいた。
――違和感。
教会から少し離れた方角に、何か冷たく淀んだ気配がある。
それは、サーシャにとって見覚えのあるものだった。
じっとその方向を見つめ、幼い眉を寄せて意識を集中させる。
そこへマザーが通りかかり、立ち尽くすサーシャに気づいて足を止めた。
「サーシャ? どうしました」
マザーも同じ方向に目をやるが、そこにはただ静かな町並みが広がるばかり。
しかしサーシャから漂う緊張に、ただならぬものを感じ取った。
「向こうに……何か良くないものがあるのですね?」
サーシャは無言でうなずき、再び目を閉じて意識を研ぎ澄ます。
まだ九歳の身で聖女の力を制御するにはあまりに未熟。
それでもサーシャは諦めず、必死に聖力を高めていった。
額に滲む汗。
空気が震え、耳の奥でキーンと金属を擦るような音が響いた。
次の瞬間――サーシャの瞳に小さな星が瞬き、彼女は確かに“それ”を捕らえた。
その影に向かって、光を注ぐ。
苦痛の叫び声が闇の中から響き渡った。
姿を現したのは、かつてマリアベルに奇妙なハンカチを手渡した老婆。
その正体は、人々を惑わす魔を纏った存在だった。
聖力に晒された老婆の姿は歪み、やがて黒い塵となって風に散っていく。
サーシャは一瞬、呼吸することすら忘れていた。
塵が完全に消え去ったのを確認した途端、ようやく大きく息を吐き出す。
「――ぷはっ……!」
小さな胸が上下し、張りつめていた緊張がようやく解けた。
マザーがそっと抱きしめると、サーシャの体から力が抜けていった。
安堵したのも束の間、強い聖力を使った反動で、そのまま静かに眠りに落ちてしまった。
――どれほど眠っただろうか。
まぶたを開けると、そこには心配そうに見守る教皇の姿があった。
「……あ」
目が合うと、教皇は優しく微笑みかける。
「気分はどうですか?」
「……お腹がすきました」
一瞬、教皇の目が丸くなった。
次の瞬間、ふぉっふぉっふぉ……と愉快そうに笑い声を上げる。
「なるほど。それならまずは食事にしましょうか」
笑みを絶やさぬまま、サーシャを促し、食堂へと向かう。
温かい食事をとり、少し頬を赤らめながら「おいしいです」と笑うサーシャを見て、教皇の胸の重石はようやく下りていった。
――食後。
再び聖堂へ戻ると、教皇がすでに祭壇の前で待っていた。
「お待たせしてすみません」
「ふふ、構いませんよ。それより……たくさん食べましたか?」
問いかけに、サーシャは少し恥ずかしそうにうつむいて、けれど小さくうなずいた。
「……はい」
教皇は嬉しそうに目を細め、やがて表情を引き締める。
「邪気を祓ったと聞きました」
その言葉に、サーシャは息をのみ、しばし沈黙ののちに口を開いた。
「……あの気配は、以前にも感じたものだったんです。だから……なんとかしなきゃって。そう思ったら、体の奥から力がいっぱい湧き上がってきて……」
サーシャの小さな声が聖堂に響く。
教皇はしっかりと頷き、その幼い決意を受け止めるように、静かに耳を傾けていた。
「よくやりましたね」
優しい声でそう言われ、サーシャの胸があたたかくなる。
「私……もっと上手に力をコントロールできるようになりたいです!」
瞳にはまだ、星のきらめきが宿っていた。幼いながらも真剣なその表情に、教皇はふっと笑みを浮かべ、一冊の古い本を手に取った。
ぱらりとページをめくり、そこに記された言葉を読み上げる。
「聖女の聖力は、その者の持つ体力が鍵になっている。その力を発揮したければ体を鍛えよ。朝日を浴び、鍛錬を欠かさず、夜には月に祈りを捧げよ――」
その声はどこか厳かで、聖堂の空気に染み込んでいくようだった。
本をぱたんと閉じると、教皇は後ろに控えていた一人のシスターを呼び寄せた。
「紹介しよう。シスターナビだ。君の鍛錬を任せたい」
すらりとした長身の女性が一歩前に出る。
色白の肌に、長い黒髪は真っすぐ背に流れている。切れ長の目は三白眼で、どこか鋭さを帯びていた。感情をあまり表に出さず、静かな気配をまとっている。
ナビは無駄のない動作で軽く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「彼女の一族は武に秀でていてね。体を鍛えることにかけては一流だ。安心して学びなさい」
そう言い残すと、教皇は公務へと戻っていった。
聖堂には、サーシャとナビの二人だけが残される。
サーシャは緊張しながらも一歩前へ出て、元気に頭を下げた。
「明日から、よろしくお願いします!」
ナビの表情は変わらなかったが、その声は落ち着いていて耳に心地よい。
「明朝、お迎えに上がります。動きやすい服装がよろしいでしょう……後ほどお届けします」
淡々と告げると、ナビは静かに聖堂を後にした。
残されたサーシャは胸を高鳴らせながら、明日から始まる新しい修練を思い描くのだった。
夜――
黒い霧の気配はないかもう一度意識を集中する。
「……よかった……」
その気配はもうなく、虫たちの音色が耳に響く。
安堵の息をつきながらも、その小さな胸には決意が芽生えていた。
もう二度と、同じような悲しみや恐怖を誰にも味わわせてはならない――。
夜、静まり返った聖堂の窓辺に立ち、月明かりを仰ぐ。
両手を胸の前で組み、サーシャはそっと祈りの言葉を口にした。
「どうか……この帝国を、そして大切な人たちをお守りください」
栗色の髪を月光がやわらかく照らし、その横顔は幼さを残しながらも、確かに“聖女”の輝きを宿していた。
その頃、南の森――
老婆を操っていた魔鉱石が粉々に砕け、黒い塵となって風に散った。
その瞬間、帝都に渦巻いていた邪念は霧散し、ミザリーの企ては完全に潰えた。
「ちっ……!」
忌々しげに舌打ちをすると、ミザリーは漆黒の喪服を纏い直す。
「……この国ではもう望みはない。愚かな民と聖女め……」
唇の端を吊り上げながらも、その声には苛立ちが滲んでいた。
帝国と帝都に邪念を集めることは、もはや不可能。
そう悟ったミザリーは静かに背を向け、夜の帳へと消えていく。
ぶつぶつと呪詛のような言葉をつぶやきながら――彼女が次に目指すのは、隣国パシナ。
そこには新たな「闇の種」が眠っているのだ。