目覚める聖力
ルーシィとリセリたちがアナベルの件で慌しく動いている頃、帝都の教会で出逢ったサーシャは、あれからも毎日教会で祈りを捧げている。
帝都ヴァルディール――。
ヴァルディアン・カシミール湖のほとりに築かれたその都は、森と湖に抱かれた豊穣の都として知られている。
湖には数え切れぬほどの舟屋が並び、朝が訪れるたびに舟を漕ぎ出す音と、水面に跳ねる波音が街を目覚めさせた。
魚を獲る漁師たちの声、子どもたちの笑い声、屋台から漂う香ばしい匂い――。
人々の暮らしが湖と共にあることを、誰もが肌で感じられる。
その中心にそびえる白亜の城は、民を愛する皇帝と皇后の象徴であり、帝都の繁栄を見守る存在だった。
広場では、旅人や商人、貴族も庶民も肩を並べて行き交い、街路には色とりどりの花が咲き誇っている。
平和を愛するこの国に生まれた人々は、今日もまた当たり前のように笑い合い、暮らしを紡いでいた。
──その喧騒から少し離れた場所に、ひときわ静謐な建物がある。
魔法鉱石を練り込んだ白亜の壁を持つ教会。
陽光を浴びるたびに淡い金色の光を返すその姿は、まるで天より授かった聖域のようであった。
湖から海へ――。
父は今日も舟を出し、漁へと向かっている。
サーシャは、父の無事を願って毎朝欠かさず教会を訪れていた。
アナベルに植物のことを教わってきたサーシャは、祈りの合間に花や薬草の本を読み耽るのが習慣だった。
アナベルの死を知ったとき、サーシャは深く心を痛めた。
けれど祈ることで、その魂を少しでも安らかにできると信じている。
だから今では、父だけでなく、帝都に暮らす人々すべての幸せを願い、両手を組み続けていた。
その日も、祭壇の前で目を閉じ祈りを捧げていると――
彼女の全身が柔らかな金色の光を帯びている。
シスターが少し慌てた様子でサーシャに駆け寄った。
「サーシャ! あなた……今の……」
「シスター? どうかなさったのですか?」
サーシャが首をかしげると、シスターは一度深呼吸をしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「……一緒に来てくださる?」
「はい」
シスターに導かれた先は、教会の奥にある大きな扉の前だった。
色鮮やかなステンドグラスから射し込む光が床に散らばり、空気はひどく澄んでいて、息をするたび胸が洗われるようだった。
扉の前には司祭たちが控えていた。シスターが近づくと、一人の司祭が軽く会釈し、穏やかに声をかける。
「どうかなさいましたか?」
「ええ、この子を……教皇様にお目通りさせたいのです」
司祭は頷きかけたが、次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
金色にきらめくサーシャの輪郭に気づいたのだ。
「……! こ、これは……。しばしお待ちください!」
そう言い残すと、司祭は慌てて奥の部屋へと駆けていった。
ほどなくして、奥の扉が静かに開いた。
現れたのは白銀の髭をたくわえた老齢の教皇だった。威厳ある衣をまとっているにもかかわらず、その微笑みは春の日差しのように柔らかかった。
「……君が、サーシャですね」
優しい声が、サーシャの胸にすっと染み込んでいく。
緊張のあまりうつむく彼女の肩に、教皇はそっと手を置いた。
「怖がらなくていいのです。わしはただ、神の導きを確かめに来ただけ。君のその光……帝国にとって、大いなる恵みとなるでしょう」
その言葉に、サーシャの胸がじんわりと熱くなった。
彼の目には、身分や生まれなどではなく、ただ一人の人としての彼女が映っている。
「安心なさい。ここは君を拒まない。むしろ歓迎しますよ。さぁ、お掛けなさい」
教皇の部屋は、外の喧騒から切り離されたように静かで、温かな香りが漂っていた。
丸い卓上には湯気の立つ茶器と、蜂蜜をかけた焼き菓子が並べられている。
「緊張を解きなさい、サーシャ。ここでは客人としてくつろいでよいのですよ」
教皇は穏やかに笑い、手ずから茶を注いでくれた。
「わしは少し手紙を書かねばなりません。君はシスターと一緒に、ここでしばし休んでいなさい」
戸惑いながらも差し出された茶を口にすると、ほっと胸の奥が温まる。
甘い菓子を口に運びながらも、サーシャの心は落ち着かなかった。
──ふと、記憶の底に浮かぶ言葉があった。
『あなたのような人はね、世界の“痛み”に触れる力があるの。……だからこそ、きっとこれからたくさんの人を救うことになるわ』
それは、ルーシィが彼女に告げたもの。
サーシャは、茶器を両手で包み込むようにしながら小さくつぶやいた。
「……ルーシィさんは、そう言ってくれました。わたしには……人を救う力があるんだって」
隣で共に茶を嗜んでいたシスターが、そっとサーシャの手に自分の手を重ねた。
「ええ。きっとそれは、ただの慰めの言葉ではありませんよ。神が与えた“役目”なのだと思います」
しばらくして、さらさらと羽ペンを走らせていた教皇は、最後の一筆を置くと静かに息を吐いた。
羊皮紙を封筒に収めると、立ち上がり、サーシャの目線に合わせて膝を折る。
「サーシャ。君のご両親に宛てて手紙を書いたよ」
優しく笑みを浮かべ、包みを手渡す。
「すぐに答えを出す必要はない。両親と一緒に読み、ゆっくりでいいから考えてごらん」
その言葉に、サーシャは小さく頷きながら胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
「さぁ、もう深刻な顔をしなくていい。お茶の続きを楽しみなさい」
そう言うと、教皇は皿からクッキーをひょいと一枚つまみ、パクリと口に放り込む。
「んん、美味い!」と大げさに頷いたあと、片目を閉じてウィンク。
そのまま軽やかに部屋を後にしていった。
教皇の部屋を出ると、シスターはサーシャを家まで送ってくれた。
「大切なお話だから、ご両親と一緒に読んでね」
微笑みながらそう言って手紙を託し、軽く事情を説明すると「ゆっくり考えなさい」とだけ言い残し、穏やかに帰っていった。
残されたサーシャは、両親と共にソファーに座り封を切った。羊皮紙には教皇の端正な文字が並び、サーシャが特別な力を持っているかもしれないこと、その未来をどう選ぶかは本人に委ねたいことが記されていた。
読み終えると、父が口を開いた。
「……サーシャ。お前はどうしたいんだ? 私たちは、お前の望むことをしてほしい」
母も頷き、優しい眼差しでサーシャを見つめる。
サーシャは両手をぎゅっと握りしめた。
「私、自分の力のことは……まだよくわからないの。でも、植物や薬草のことをもっと知りたいの。お父さんが安心して仕事ができるように……みんなが幸せに、毎日穏やかに暮らせますようにって祈りたい……だから教会で勉強をしたい」
その言葉に、父と母は目を見合わせ、やがて安堵したように笑った。
「そうか。なら安心だ。サーシャの選んだ道を、私たちは応援するよ」
「ええ。あなたの願いなら、きっと神さまも祝福してくださるわ」
サーシャの胸に、温かな灯がともった。
「ありがとう……お父さん、お母さん」
三日後の朝。
サーシャは少しの荷物を詰め込んだカバンを肩にかけ、玄関先で最後の確認をした。
「忘れ物はないか?」
父の声にサーシャはにっこり笑い、両親をぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫! ……いってきます!」
その声には緊張よりも決意が強く宿っていた。
迎えに来てくれたシスターと共に、サーシャは帝都の教会へ向かう。
「ここがあなたのお部屋ですよ」
案内された部屋はこじんまりとしていたが、窓から差し込む光はやさしく、サーシャにとってはちょうどいい広さだった。
クローゼットを開けると、真っ白な修道服が数着、整然と並んでいる。
サーシャはそっと袖に触れ、胸の奥がきゅっと熱くなるのを感じた。
荷物を置き終えると、今日は教会の中を案内される。大広間、書庫、厨房、祈りの間……。見慣れないものに目を輝かせ、足を止めては質問をするサーシャに、シスターたちは優しく答えてくれた。
「明日から、私たちと一緒に作業をしていただきますね」
「はい!」
期待と少しの不安を胸に、サーシャの新しい日々が始まろうとしていた。
* * *
まだ空は墨色に染まり、街も湖も眠りについている時刻。
――カラン、カラン。
廊下を歩くマザーの澄んだハンドベルの音が、静けさをやわらかく破る。
サーシャは布団の中で小さく身を震わせ、慌てて起き上がった。
床に降ろした素足に、石畳の冷たさがじんと広がる。
「早いなぁ……でも、がんばらなきゃ」
ぎゅっと拳を握り、まだ慣れない修道服の襟を整える。
シスターたちと並んで聖堂に入ると、蝋燭の光が揺れ、神聖な空気が広がっていた。
パイプオルガンの低い音が響きはじめると、祈りの歌声が次々と重なっていく。
サーシャも小さな声で唱和した。胸の奥に静かな温かさが広がり、少しずつ目も覚めていく。
聖務日課が終わると、それぞれが持ち場へ散っていく。
サーシャは年長のシスターに教わりながら、教会の廊下を雑巾で磨いた。
窓を開けると、ようやく朝の光が差し込み、湖面から涼しい風が流れ込む。
花壇の花々に露が光り、その小さなきらめきに、サーシャは思わず笑みをこぼした。
やがて厨房からは、焼き立てのパンと温かいスープの香りが漂ってきた。
祭壇を整えたり、聖具を磨いたりしてから、ようやく朝食の時刻。
木の長机に並んで座り、シスターたちと「感謝の祈り」を唱えたのち、皆でパンをちぎり合う。
「おいしい……」
素朴な味なのに、なぜか胸いっぱいに満たされていく気がした。
食後は孤児たちに文字を教えたり、体調の悪い村人の世話を手伝ったり。
薬草棚では、乾いたハーブの匂いに思わず胸を弾ませる。
「これはフェーデリア様に教わったのと同じ……」
知っている草を見つけると、ほんの少し誇らしい気持ちになった。
昼食を終えた午後は、祈りと勉強の時間。
聖書を写本する静かな作業に集中すると、時間があっという間に過ぎていった。
聖歌の練習では、まだ声が小さくて少し恥ずかしかったが、隣のシスターがやさしく頷いてくれた。
夕暮れ時には畑へ出て、土に触れながら作物の世話をする。
赤く沈む陽を背に受け、泥だらけになった手を見て、サーシャは小さく笑った。
「ここなら、きっと私も役に立てる……」
夕の祈りと簡素な食事を終えると、修道院に静寂が訪れる。
蝋燭の火を見つめながら、それぞれが思索と祈りの時を過ごすのだ。
サーシャもベッドに身を横たえ、今日一日の出来事を胸の中でなぞった。
慣れないことばかりで疲れているはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
「明日も……がんばろう」
そう小さく呟いた瞬間、瞼はするりと落ちていった。
修道院の夜は深く静かに、サーシャを優しく包みこんでいった。
* * *
修道院に来てから数ヶ月。
サーシャはすっかりここでの生活に慣れ、毎朝の祈りも掃除も、もう自然な習慣の一部になっていた。
明るい笑顔と元気な挨拶は、教会に訪れる人々や、隣接する孤児院の子どもたちにも愛され、いつしか「サーシャがいると空気が明るくなる」と言われるようになっていた。
サーシャがいちばん楽しみにしているのは、午後の祈りと勉強の時間。
そしてもうひとつ――花壇や畑での仕事だった。土の香りや植物の息吹に触れると、胸の奥が自然とやさしい光で満たされるように感じるのだ。
その日、手工芸を行う部屋の前を通りかかると、乾いたハーブのさわやかな香りがふわりと漂ってきた。
思わず覗き込むと、年上のシスターがラベンダーの花を詰めた小さなサシェを縫っているところだった。
「わぁ……いい匂い! 私も一緒に作りたいです!」
ぱっと笑顔で声をかけ、駆け寄るサーシャ。
驚いたシスターは「きゃっ」と声を上げたが、すぐにくすくす笑い、手を止めて言った。
「ふふ、元気ね。いいわ、こちらへいらっしゃい」
そう言ってサーシャを隣に座らせ、針と布を渡す。
小さな手で不器用に針を動かすサーシャに、シスターは丁寧に教えながら一緒に作業を進めた。
やがて完成したサシェを両手に包み込み、シスターは目を閉じて祈りを捧げた。
「この香りとともに、安らぎと癒しが届きますように……」
サーシャも真似をして、自分の作ったサシェをぎゅっと握り、そっと祈る。
「どうか、これを受け取った人が病気やケガをしませんように」
その瞬間、サーシャの小さな両手がかすかに金色の光を帯びた。
ほんのわずか――けれど確かに、聖力が込められているように見えた。
隣でそれを見ていたシスターは、目を細めて優しく微笑んだ。
「……ここへ来た頃よりも、ずっと聖力を込められるようになってきましたね。
でも、あなたはまだ自分の力を信じきれていないのかもしれませんよ」
サーシャは小さく瞬きをし、胸にそっと手を当てた。
(私の力……信じる……?)
胸の奥に、ほんのり温かな光が芽生えるのを感じながら。
その日の夜、サーシャはなかなか眠れなかった。
胸の奥に残るシスターの言葉――「まだ自分の力を信じきれていないのかもしれませんよ」――が、頭の中で何度も響いていたのだ。
気づけば、足は自然と聖堂へ向かっていた。
夜の聖堂は静かで、月明かりがステンドグラスを透かし、祭壇を淡く照らしている。
サーシャは祭壇の前で跪き、両手を胸の前で組む。
「私は……私の力が、まだどんなものなのかわかりません。怖いと思っているのかもしれません。
でも、この力で……フェーデリア様のように、悩みを抱えている人や、大切な人たちを守りたいです……」
その瞬間だった。
祭壇に置かれた大きな水晶玉が、ふいに眩い光を放ち、聖堂全体を満たした。
虹色の光がきらめき、柔らかにサーシャを包み込む。まるで水晶そのものが彼女を呼んでいるかのように。
吸い寄せられるように歩み寄ったサーシャは、そっと水晶玉に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光が一層強く脈打ち――虹色の輝きがすべてサーシャの胸へと吸い込まれていった。
温かく、やさしい光。
それは恐怖ではなく、不思議な安心感を伴ってサーシャの心を満たしていった。
突如、聖堂全体が眩く光り輝いた。
月明かりさえ掻き消すほどの神々しい輝きが、一瞬にして教会の隅々まで満ちあふれる。
空気は清らかに震え、息を呑むほどの聖なる気配が広がっていった。
その異変に気づいた教皇、マザー、そして数名のシスターたちが慌ただしく駆けつけてきた。
サーシャは祭壇の前で膝をつき、きょとんとした表情のまま振り返る。
けれど、自分の身体から何か温かく不思議なものが絶え間なくあふれ出している感覚を、確かに感じていた。
「これは……サーシャ、いったい何が……その喉にあるのは!」
教皇の声が驚きに震える。
サーシャは無意識に喉元へ手をあてた。そこには、虹色の光を宿した模様が浮かび上がっていた。
マザーはその姿を目にした瞬間、息を詰め――次の瞬間、深く跪いた。
「……聖女様の誕生を、心よりお祝い申し上げます」
シスターたちも驚愕と感動に打たれ、次々と頭を垂れる。
それは、まさしく聖女の証。
しかも二千年に一度現れるかどうかと伝えられる、虹色に輝く特別な印だった。
サーシャは自分が「聖女」と呼ばれることに戸惑っていた。
「……わ、私が?」
絵本の中で見たことがある、遠い昔の聖女の物語。
その姿と自分が重なるなんて、まだ実感はまるで湧かなかった。
しかも記録に残る聖女たちは、いずれも二十を超えた大人の女性ばかり。
この世界で最年少の聖女が誕生したのだ。
教皇は感極まって涙を流した。
「まさか……わしが生きている間に聖女誕生の時を見ることができるとは……!」
その目には純粋な喜びがあふれていた。
マザーは冷静にシスターたちへ指示を与え、最後にサーシャへ微笑む。
「明日から少し忙しくなります。ですので今日はゆっくりお休みくださいね、サーシャ……いえ、聖女様」
そう言って、感情を抑えきれぬ笑みを隠しながらも、静かにその場を後にした。
一方、教皇はサーシャの頭を軽く撫でると、少年のように弾んだ声を上げた。
「こうしてはおれん! わしも色々準備をせねばな!」
隠そうともしない浮き立つ気持ちをそのままに、聖堂を駆け出して行った。
シスターたちに声をかけられ、サーシャは自室へ戻る。
ベッドに横たわると、戸惑いと緊張の中でも眠気が一気に押し寄せ、深い眠りへと落ちていった。
――夢の中。
サーシャはアナベルの姿を見つける。
「フェーデリア様!」
泣きながら抱きつくと、彼女は優しく抱きしめ返した。
「サーシャ……ごめんね。そして、ありがとう」
とても穏やかな笑顔を浮かべると、その姿はゆっくりと光の粒となって消えていった。
――カラン、と遠くからハンドベルの音が聞こえる。
目を開けると、窓の外はまだ薄暗い。
カーテンを少し開けて、朝の訪れを待つ空を眺めながら呟いた。
「……フェーデリア様、ありがとう」
こうして、サーシャの新しい日々――聖女としての教育が幕を開けるのだった。