九 再会
翌朝、陽が登ったばかりの早朝に目が覚めて、僕は布団の上で寝返りを打った。
一階の六畳間。雨戸も窓ガラスも開け放ち、網戸だけにした窓からは青白い光が差し込んでいる。今はまださほど熱を持たない静謐とした空気が、独寝の狭い空間を満たしていた。
まだ蝉も雀も寝静まっているようなしんとした朝の気配の中に、いつもの風鈴の音が微かな風によって控えめに鳴るのが聞こえてくる。
布団の上でしばらくぼんやりとしながら、昨夜の画材屋での話を思い出していた。
もう絵筆を握れなくなった、オヤジの右手……
僕は自分の右手を顔の前に出して、じっと見つめた。
どんなにか無念だったろう、と思うと胸が詰まった。
それでも、その現実を受け入れて生きていくしかなかった。
もしも僕が絵を描けなくなったら、受け入れることができるだろうか──
しばらく考えていたが結論など出るはずもなく、一度瞼を閉じて思考を遮断する。しかし、一度落ち込んだ気分はそう簡単には浮上しない。僕は暗澹たる思いで、のっそりと布団から抜け出した。
簡単に朝食を済ませ身支度を整えると、昨日美鈴が忘れていった日傘を持って画材屋に向かった。眩しい朝日を手で遮りながらしばらく歩いていると、一匹二匹と蝉が鳴き始め、暑苦しさが増していく。今日も真夏日になりそうだ。
そしてようやく街中に入り、店の前まで来て僕は途方に暮れてしまった。
──うっかりした。今日は定休日だった。
鍵の掛かったガラス戸の向こうにはカーテンがぴたりと閉じられ、中に人の気配は無い。
裏に回れば、オヤジか珠万緒さんがいるだろうか。
しかし、せっかくの休みの日に、こんな朝早く裏の勝手口を訪ねるのも気が引けた。
仕方がない。傘を返すのは明日にして、このまま出版社に向かおう。
僕は日傘を手に持ったまま、商店街を抜けて国鉄の駅を目指した。
挿絵を載せてもらっている雑誌の出版社へは、電車で一時間以上かかる。
風が吹き抜けるホームで、しばらくぼんやりと待っていると、上り電車がゆっくりと滑り込んできた。都心を目指す大勢の人が乗った車両に、僕も身体を押し込んで中程へと進む。
目指すは東京。大都会のど真ん中だ。
気温が上がる前の涼しい時間に家を出たが、着いた頃にはどんどん暑くなり、アスファルトの照り返しも相まって蒸し焼きにされているような気分だった。
住んでいる街とは比べ物にならない程、たくさんのビルが立ち並び、人混みも車の数も桁違いに多い。来るたびに思うが、こんな場所で朝から晩まで働き続けるなんて、僕には無理な芸当だ。
出版社が入っている雑居ビルは、そんな喧騒の真っ只中にあった。明治の終わりに設立され、当時から大衆文学誌を発行していた歴史ある出版社だ。
少女向け雑誌は明治末から大正期にたくさん刊行されたが、当時から現在まで発行され続けている本はあまり多くない。
僕が世話になっている本は大正末頃に創刊され、少女達はもとより保護者からの支持も厚く発行部数は一位を維持し続けているらしい。
ビルの入り口のガラス戸を開け、エントランスホールに足を踏み入れると、日差しが届かないおかげでかなり涼しい。日傘を傘立てに置くと、三階の出版社受付までエレベーターで上がった。
毎月数回、原稿を届けたり、今日のように原稿料を受け取りに来たりと編集部を訪ねているおかげで、受付嬢にも顔を覚えられ何も言わなくても担当者のところまで案内してくれるようになった。
先導する受付嬢が編集部のドアをノックして押し開くと、煙草の煙と社員達のざわめきが一気に押し寄せてきて一瞬目を眇めた。
「長谷川さん、蒔田先生がいらっしゃいました」
受付嬢が担当の編集者に声をかけてくれる。それから「こちらへ」と応接セットのある場所を手で指し示すと、受付へと戻っていった。
僕も何度も来ているから、勝手知ったる何とやらで遠慮なくソファに腰を下ろし、担当者が来るのを待っていた。
すると、担当の長谷川氏と一緒に一人の女性がこちらへ向かって歩いてくる。こんな時期に新入社員でも入ったのだろうか?
そう思って見るともなしに見ていると、その女性が僕を見て顔を綻ばせた。
──え?
「………紗織?」
「蒔田くん、久しぶり」
にこにことしながら小さく手を振る彼女に、唖然とする僕。その様子を見ていた長谷川氏が、目を瞬いて二人の顔を交互に見比べた。
「え?二人、知り合いなんですか?」
「ああ、美術学校時代の……」
「元恋人です」
紗織の一言で、長谷川氏はもとより近くにいた編集者達が一斉に振り返った。
こんなところで余計なことを言わないでくれ──
思わず口元を押さえて顔を背ける。それにはお構いなしの紗織が、凍りついたように固まっている長谷川氏の肩を満面の笑みで叩いた。
「やだなぁ、もう。冗談ですよ」
「え?あ……冗談?そっか、冗談だよねぇ、あははは」
顔を真っ赤にして頭を掻く長谷川氏に「ただの友人です」と言いながら、彼女は僕の顔をちらりと見て目を伏せた。
なんだか微妙な雰囲気のまま、三人で応接セットに腰を下ろすと、長谷川氏が咳払いを一つしてから口を開いた。
「実は、今まで事務を担当していた女性が先月いっぱいで寿退社いたしまして。新しく中途採用したのが、こちらの奥村紗織さんなんです」
紗織はその話をすました顔で聞いている。
「一応、蒔田先生にもご紹介しておこうと思ったんですが、必要なかったようですね」
ハンカチで汗を拭きながら、長谷川氏は持っていた封筒を差し出した。
「では、こちらが今月の原稿料になります。中を確認していただいて、よろしければこちらに受け取りの捺印か署名を──」
そう言って、手に持っていた書類の束の中から受領証を探すが、どうやら見当たらないらしい。
「すみません、ちょっとお待ちください」
そう言って自分のデスクに探しに行ってしまった。残された僕と紗織は、お互い違う方向を見てしばらく黙っていた。
元恋人──
それは嘘じゃない。学生時代、紗織とは一年半ほど付き合っていた。学部は違うが友人を通じて知り合い、モデルをやってもらったこともある。それが付き合い始めたきっかけだった。
けれど、彼女と僕は続かなかった。お互い嫌いになった訳じゃないのに、何故か口喧嘩が絶えなくなって、一緒にいるのが息苦しくなってしまったのだ。
別れを切り出したのは、二人ほぼ同時だった。
「なんで紗織がここにいるんだよ」
思っていたことがそのまま口をついて出てしまった。確か、美術学校を卒業したら田舎に帰って中学校の教師になると言っていた筈だ。
「地元にいるとね、同級生が次々と嫁に行くのを目の当たりにしなきゃならないわけ。親からも急かされるし、見合い話まで持ってこられて。嫌になっちゃったのよ、地元にいるのが。それで、職安で東京で働ける仕事を探して家を出たの」
「で入社したのがここだったわけ?こんな偶然あるんだな。びっくりしたよ」
「……偶然じゃないよ」
「──?」
一瞬、聞き間違いかと思って問い返そうとした時、長谷川氏が慌てて戻ってきたので口を噤んだ。
「お待たせしました!申し訳ありません、先生」
テーブルの上に紙を一枚置き、隣に万年筆と朱肉を添える。僕は無言で万年筆を持ち上げると、署名欄に手早く名前を書いた。
「ありがとうございます。いやぁ、余計なお時間をとらせてしまって、すみませんでした。では、今後ともよろしくお願いいたします」
受領証を手に長谷川氏が立ち上がると、一緒に紗織も立ち上がり、二人揃って頭を下げる。仕方なく、僕も立って礼を言うと、二人は背を向けて自席へと戻って行った。
紗織だけが、一度振り返って僕を見た。その視線が何か言いたそうで、しばらくその姿を目で追っていると、彼女の唇が微かに動いた。
(またね)
僕には、そう言っているように思えた。