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炎陽  作者: うみの ねこ
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八 黄昏

 ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いてきた美鈴を部屋に残し、僕は台所に水を取りに降りた。

 湯呑みに水を汲み、ついでに箪笥の引き出しから手拭いを一本出して階段を登る。

 

 アトリエの椅子に座って、グズグズと鼻を啜る美鈴に手拭いと湯呑みを渡すと、小さく会釈をしてそれを受け取った。

 

 

 いつの間にか部屋中が西日に染まって、淡いオレンジ色のベールがかかったように光の粒子が部屋の中を埋め尽くしていた。その向こうに、ベールを纏って輪郭の曖昧になった美鈴の横顔が見える。

 その瞬間を切り取ってキャンバスに写し取りたいと思うほど、美しい絵画が目の前に広がっているようだった。

 その完成された絵の中に僕がいることが躊躇われ、ほんの僅か身を引いて彼女がそこにいる世界を目に焼き付ける。

 

 やがて、美鈴の目が僕を捉えると、まるで夢の中にいざなわれるように、僕はゆっくりと彼女に近づき、その傍に寄り添った。

 それでもなお、彼女に触れることはない。

 

「辛いことを思い出させて、悪かった」

 手拭いで涙を拭きながら首を振り、美鈴が湯呑みを口に運んで水を含む。それをごくりと飲み込んで、彼女は濡れたまつ毛を伏せた。

 

「あんなふうに言ってもらったの、初めてでした。なんだか……嬉しかった。ありがとうございます」

 そう言って僕を見上げて少しだけ微笑むと、細めた目の端からまた雫が落ちる。

 

 柔らかな光を受けたその雫は、まるで蜂蜜みたいな色をして、ゆっくりと彼女の頬を伝っていく。

 それをこの手で拭いたい衝動に駆られる自分を、僕は唇を噛んで押さえつけていた。

 

「──いや」

 そっけなく返事をして、僕は思わず顔を背けた。

 

 これ以上見ていたら、約束を破ってしまうかもしれない。そんな気がしてならなかった。

 

 こんなんじゃ、もう絵を描くどころじゃない。

 

「……今日は、もう帰ろうか」

「はい」

 

 今度は美鈴も素直に立ち上がり、二人で階段を降りた。

 

 

 外へ出た時はまだ明るさを残していた空が、歩いているうちに少しずつ藍の色へと変化していく。その残照の中、低いところに細い三日月が浮かんでいた。

 空気はまだ昼間の熱を残し、時折吹き抜ける風は潮を含んでまとわりつくように重い。

 

 黙って後ろを付いて来ていた美鈴が、急にあっと声を上げた。

「どうかした?」

 驚いて振り返ると、彼女は申し訳なさそうな顔をして手を口元に当てていた。

 

「日傘を、忘れてきてしまいました」

「ああ、珠万緒さんから借りた傘か。今から戻っていたら遅くなるから、明日にでも画材屋に届けるよ」

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな謝罪の言葉に、僕は笑った。

「謝るほどのことじゃない。どうせ明日は挿絵の原稿料を受け取りに出版社に行くつもりだったから、そのついでだ」

 

 その言葉に美鈴も少し微笑み、それからまた黙って歩き始める。いつしか蝉の声が消えて、街の喧騒が聞こえ始めていた。

 

 

 画材屋に着くと、待ち構えていたように珠万緒さんが出迎えてくれた。

 

「おかえりなさい!ねえ、マキさん、どうだった?筆は進んだかしら?」

 僕に話を振りながら、何故か美鈴の浴衣を気にする珠万緒さんが、あら、と小さな声をあげた。

「どうかした?」

 

「ふぅん、着崩れてもいないし、美鈴の着方でもない。私が着せたまんまだわ。ホントに何にもしてないのね、マキさん」

「はぁ?何言ってるの、当たり前だろ。ていうか、珠万緒さん、今日のはちょっとやり過ぎだよ。美鈴が可哀想だ」

 強めの語気で詰め寄ると、何の事かと目を丸くして首を傾げた。

「背中は……気にしてるんだから、あんなに見せるような着付けをしちゃあ──」

 そこまで言ってようやく合点がいったように、ああ、と頷いた。

「ちゃんと見えないように着せるから安心してって言ったわよ。それに、出掛ける直前にも確認して、大丈夫だって言ったのに」

「それでも、本人が不安で集中できないって言うから、ほとんど作業が進まなかったよ」

 

 それを聞いて、珠万緒さんが急にしおらしくなった。本当はそれだけが理由じゃないんだけれど──


「それは……悪かったわ。マキさんの邪魔をするつもりはなかったのよ。美鈴ちゃんも、ごめんなさいね」

「いえ、私が気にしすぎるのがいけなかったんです。せっかく綺麗に着付けてもらったのに、ごめんなさい」

 

「とにかく、次から着付けは美鈴に自分でやってもらうから。珠万緒さんは余計なことしないでよ」

 項垂れていた珠万緒さんが、上目遣いに僕を見て口を尖らせた。

「わかりました。もう何もしないわ」

 

 それに頷いて、溜息を一つ吐く。その僕の耳元にひょいと顔を近づけた珠万緒さんは、美鈴を見ながら声を顰めた。

 

「でもね、モデルは画家をその気にさせてなんぼなのよ。美鈴ちゃんったら、色気もなにもありゃしないんだもの。少しくらいマキさんを唆らせないと、いい絵が描けないわよって、言っといたから」

 

 僕は思わず息を呑んで、横目で珠万緒さんを睨む。

「……オヤジさんに怒られるよ」

「あの人、自分のことは棚に上げてよくいうわよ。まあ身内の子だから大事にしたいと思うのは、私も同じだけどね」

「自分のこと?」

 僕は何のことかと問いかけた。

「あら?言ってなかったっけ。私、あの人のモデルだったのよ」

 それは初耳だ。確かに、歳の離れた美人女房をどこで見つけてきたのかとは思っていたが。

 

「で、どこで引っ掛けられたの?」

「私の一番上の兄の中学からの友人だったのよ。たまたまうちに遊びに来ていた時に初めて会ったの。

 当時ね、あの人、美術学校を出てからとある画家に弟子入りして絵の勉強をしていたんだけど、どうしても私をモデルに絵を描きたいって兄に頼み込んだんですって。まだ私が十八の時だったからしら」

 

 その話が耳に入ったのか、美鈴も興味を引かれたように近寄ってきた。

「それでね……」

 意気揚々と話を続けようとする珠万緒さんの背後に、突然オヤジさんがぬっと姿を表した。

 

「珠万緒、それ以上余計なことを言うんじゃない」

 きまりが悪そうに顔を顰めて、鼻の頭に汗を浮かべている。

「あら、あなたの絵が文展で入選したのは私のおかげだって話、しようと思ってたのに」

 つんとそっぽを向いて腕を組む珠万緒さんを無理矢理引っ張り、「お前はさっさと家に戻って夕飯の支度をしろ」と言いながら背中を押した。

「んもう!わかったわよ。マキさん、また今度ゆっくり聞かせてあげるわ。じゃあね」

 

 軽やかに手を振り、美鈴を連れて奥へと歩いていく姿を見送って、僕はオヤジに向き直った。

 

「──ねえ、オヤジさん」

「うん?」


「何で、絵描くのやめちゃったの?」

 

 僕に背を向けて勘定場の机の上を片付けていたオヤジが、ぴくりと肩を震わせて手を止めた。

 

 天井から下がった白熱灯の明かりが、ふいに弱まってまた元に戻る。その下で俯くオヤジの背中は、何か言い知れぬ憂いが滲んでいるように見えた。

 

 しばらく身じろぎもせず黙りこくった後、低い声でぽつりとオヤジが呟いた。

 

「戦争でさ……怪我しちまったんだよ、右手」

 

「──」

 

「絵筆が握れなくなっちまったんだ。情け無いよなぁ。絵どころか文字だってろくに書けなくて……。親がこの店残してくれてなかったら、飯食うのにも困ってたなんてさ」

 

 振り向いたオヤジの顔は、眉を八の字に下げて自嘲するように笑っていた。それでも、目の奥には物言わぬ感情が渦を巻いているのがわかる。

 

 悔しさ、悲しさ、後悔──

 そんな言葉では言い尽くせないモノが、この笑顔の下に吹き荒れているに違いない。

 

 僕は何も言えず、自分の拳を握りしめた。

 

 美鈴も、オヤジさんも


 なんで、罪もない人達が

 悲しんで、苦しんで

 夢や希望を奪われなきゃいけなかったんだ

 

 なんで

 なんで

 

 

 繰り返す波のような思考に飲み込まれて、僕はただ黙ってオヤジの右手を見つめて立ち尽くしていた。

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