七 傷
三日後の午後三時十五分
僕はまた画材屋に美鈴を迎えにやってきた。
今日もジリジリと焼け付くような日差しに、シャツの袖から出た腕が痛いくらいに炙られている。手拭いを首から下げて流れる汗を拭きながら歩いてきたが、すでに手拭いはじっとりと濡れて生温い。
店に入ると、オヤジが出てきたのでいつも通りの軽い挨拶をした。
「彼女、どこ?」
「ああ、奥にいるよ。実はさ、アトリエで着替える間、あんたを待たせるのが申し訳ないって言って。ここで一度着替えたんだけどね……」
オヤジが申し訳なさそうに言い淀む。
「けど?」
「女房が、着方が気に入らないって言い出して、それで今、やり直してるんだ」
「はぁ──」
大方の予想はつく。あの七五三みたいな窮屈な着方が、珠万緒さんの美的感覚を逆撫でしたんだろう。お洒落に関しては妥協のない人だから。
仕方なく店内を見ながらしばらく待っていると、奥のほうからバタバタという足音と共に、二人の女性の声が聞こえ始めた。
ガラリと音を立てて、店内と自宅部分を仕切る引き戸が開き、奥から珠万緒さんが顔を出した。その後ろには美鈴がいるらしい。
「あら、マキさん。結局待たせちゃって悪いわね。でも美鈴ちゃん、色っぽくなったから見てあげて」
「でも珠万緒叔母さん、なんだか首の後ろがスースーして……」
「いいのよ、大丈夫だから」
「でも──」
騒がしいというか、賑やかというか、女性が集まると何故こうも空気の色が変わるんだろう。
「はい!」
楽しくて仕方ないという顔をした珠万緒さんが、美鈴を自分の前に引っ張り出した。
「!」
いきなり僕の前に突き出された美鈴は、顔を真っ赤にして目を瞑った。
この前と同じ浴衣だが、だいぶ衿元に余裕が出て涼しげに見える。前は息苦しそうで、見ているほうも暑くなる気がしていた。着方一つで、見ている人間の涼感がこうも変わるのか。
「ああ、この前より涼しそうだ」
素直に言っただけなのに、珠万緒さんにギロリと睨まれてしまった。
「何よ、その感想。もうちょっと何か言いようがあるでしょう?まったく、だからマキさんモテないのよ」
「え……なんでそうなるんだよ」
頭を掻いて困惑しているうちに、美鈴は下駄を履いて戸口のほうに立っていた。珠万緒さんがその手に日傘を持たせて「これを使って」と甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「じゃあ、行ってくるよ」
オヤジと珠万緒さんにそう声を掛け、美鈴の横に並んで店を出た。外まで出てきて手を振る珠万緒さんに、美鈴が小さく手を振り返す。
しばらく歩いてから、僕の斜め後ろで彼女が軽く頭を下げた。
「お……お待たせして、すみませんでした」
「いや、いいよ。それより、日傘、借りたんだろ。暑いからさしたら?」
「……はい」
立ち止まって傘の留め具を外し、ろくろを押して開こうと横を向いて俯く美鈴に、僕も足を止めて目をやった。
自然と衣紋を上から覗き込むような格好になり、白いうなじが目に飛び込んで思わずどきりと心臓が跳ねた。
と同時に、あの人のしたり顔が目に浮かんだ。
珠万緒さん……これはやりすぎだろ──
大きく開いた衣紋は、背中まで見えそうなほど下げられて、そこにうなじから流れた汗が伝っている。これではスースーするのも当たり前だ。
こんな着方は、大人の女がするもんだ。
この子には、まだ似合わない。
無意識に眉間に皺が寄っていたのを、美鈴が気付いて心配そうな顔をした。
「あの……背中、何か変ですか?」
「いや、変じゃない。けど、自分で着付けたほうが、君らしくていいと思うよ」
「……」
それきり会話も途切れて、美鈴は地面を見つめたまま、傾けた日傘の陰に隠れるようにして後をついてくる。
うるさいほどの蝉の声と、砂利を踏む二人の足音だけが、白い日差しの中に響き続けていた。
◇
アトリエに着いて窓を開けると、またどこかで南部鉄の風鈴が鳴っていた。その音に僅かな涼を感じて、一つ息をつく。
その日は、最終的な作品と同じ大きさの紙に、前回描いたスケッチの構図を元にデッサンを始めた。
しかし何故か、僕が見るたびに美鈴は視線を逸らせてそっぽを向く。こっちを向いてと言っても、その時だけ目を向けて、またすぐにあらぬ方向に視線が泳いで行ってしまう。
「美鈴ちゃん、どうかした?」
「いえ……なんでもありません。ごめんなさい」
そう言いながらも、足元を見つめたまま顔を上げようとしない。心なしか顔が赤いようにも見えるが、具合でも悪いのだろうか。
「ちょっと早いけど、今日はもう終わりにしよう。片付けたら画材屋まで送るから、ちょっと待ってて」
椅子から立ち上がった僕に、美鈴は慌てたように手を伸ばした。
「あの、待ってください。まだ大丈夫ですから、続けてください」
「でも、なんだか調子が悪そうだし、集中出来てないみたいだから。無理はしなくていいよ」
そう言うと、言いにくそうにしながら両手を握り合わせて下を向いた。
「実は……衣紋が、背中が気になって集中できなくて──」
「なんだ、そんなことか。さっきも言ったけど、別に変ではないし、こっちから見ているぶんには背中側は見えないから、気にしなくていいよ」
「それは、そうなんですが……傷が、見えてるんじゃないかって、心配なんです」
傷──
そういえばオヤジが言っていた。幼い頃に空襲で背中に火傷を負って、その痕が背中に残っているって。
僕は黙って美鈴の背後に回り込んだ。
「え?……あ、あの……いや、見ないで!」
椅子に座ったまま背中を隠そうとする美鈴に構わずに、上から衣紋を覗き込んでから、正面に向き直って膝を付く。
震える両手で顔を覆う美鈴を下から見上げて、僕は静かに声をかけた。
「大丈夫、見えてない。安心して」
そろそろと両手を下ろした美鈴は、目に涙を溜めて唇を震わせていた。
「空襲の時のこと、覚えてる?」
そう聞くと、こくりと小さく頷く。話を促すように、僕は首を傾げた。
「夜中、寝ていたら警報が鳴って、防空頭巾を被って母と手を繋いで逃げたの。川へ向かって逃げる途中、爆弾がたくさん降ってきて、街中が火の海になった。そのうちに、背中に火の粉が飛んできて、着物に火がついて……
母が被っていた頭巾を脱いで、叩いて火を消してくれて、そのあとすぐに川の水で冷やしたんだけど──」
痕が残ってしまった。
その状況では、すぐに手当もできなかったんだろう。
「痛かったろうね」
美鈴は頷きながら、大粒の涙を零した。あとからあとから、とめどなく零れ落ちてくる涙が頬を伝って顎から落ちる。
「美鈴」
呼びかけると、僕を見て一つ息を吐いた。
「あの空襲の夜を知っている人間に、君の傷を笑う奴なんていないよ。君は生き延びたんだ。もっと胸を張っていい」
再び両手で顔を覆った美鈴は、声を殺して泣き続けた。
揺れる肩先に触れようとして、伸ばした右手をすんでの所で止めた。指先が空を切って、ただ何もない掌を握る。
こんな痛々しい姿を目の前にしても、指切りの呪縛に縛られている僕を嘲笑うように、蝉達の叫声が一際高くなったような気がした。