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炎陽  作者: うみの ねこ
7/27

七 傷

 三日後の午後三時十五分

 

 僕はまた画材屋に美鈴を迎えにやってきた。

 

 今日もジリジリと焼け付くような日差しに、シャツの袖から出た腕が痛いくらいに炙られている。手拭いを首から下げて流れる汗を拭きながら歩いてきたが、すでに手拭いはじっとりと濡れて生温い。

 

 店に入ると、オヤジが出てきたのでいつも通りの軽い挨拶をした。

 

「彼女、どこ?」

「ああ、奥にいるよ。実はさ、アトリエで着替える間、あんたを待たせるのが申し訳ないって言って。ここで一度着替えたんだけどね……」

 オヤジが申し訳なさそうに言い淀む。

「けど?」

「女房が、着方が気に入らないって言い出して、それで今、やり直してるんだ」

 

「はぁ──」

 

 大方の予想はつく。あの七五三みたいな窮屈な着方が、珠万緒(たまお)さんの美的感覚を逆撫でしたんだろう。お洒落に関しては妥協のない人だから。

 

 仕方なく店内を見ながらしばらく待っていると、奥のほうからバタバタという足音と共に、二人の女性の声が聞こえ始めた。

 

 ガラリと音を立てて、店内と自宅部分を仕切る引き戸が開き、奥から珠万緒さんが顔を出した。その後ろには美鈴がいるらしい。

 

「あら、マキさん。結局待たせちゃって悪いわね。でも美鈴ちゃん、色っぽくなったから見てあげて」

「でも珠万緒叔母さん、なんだか首の後ろがスースーして……」

「いいのよ、大丈夫だから」

「でも──」

 

 騒がしいというか、賑やかというか、女性が集まると何故こうも空気の色が変わるんだろう。

 

「はい!」

 楽しくて仕方ないという顔をした珠万緒さんが、美鈴を自分の前に引っ張り出した。

 

「!」

 

 いきなり僕の前に突き出された美鈴は、顔を真っ赤にして目を瞑った。


 この前と同じ浴衣だが、だいぶ衿元に余裕が出て涼しげに見える。前は息苦しそうで、見ているほうも暑くなる気がしていた。着方一つで、見ている人間の涼感がこうも変わるのか。

 

「ああ、この前より涼しそうだ」

 素直に言っただけなのに、珠万緒さんにギロリと睨まれてしまった。

「何よ、その感想。もうちょっと何か言いようがあるでしょう?まったく、だからマキさんモテないのよ」

「え……なんでそうなるんだよ」

 

 頭を掻いて困惑しているうちに、美鈴は下駄を履いて戸口のほうに立っていた。珠万緒さんがその手に日傘を持たせて「これを使って」と甲斐甲斐しく世話を焼いている。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

 オヤジと珠万緒さんにそう声を掛け、美鈴の横に並んで店を出た。外まで出てきて手を振る珠万緒さんに、美鈴が小さく手を振り返す。

 

 しばらく歩いてから、僕の斜め後ろで彼女が軽く頭を下げた。

「お……お待たせして、すみませんでした」

「いや、いいよ。それより、日傘、借りたんだろ。暑いからさしたら?」

 

「……はい」

 

 立ち止まって傘の留め具を外し、ろくろを押して開こうと横を向いて俯く美鈴に、僕も足を止めて目をやった。

 

 自然と衣紋を上から覗き込むような格好になり、白いうなじが目に飛び込んで思わずどきりと心臓が跳ねた。

 

 と同時に、あの人のしたり顔が目に浮かんだ。

 

 珠万緒さん……これはやりすぎだろ──

 

 大きく開いた衣紋は、背中まで見えそうなほど下げられて、そこにうなじから流れた汗が伝っている。これではスースーするのも当たり前だ。

 

 こんな着方は、大人の女がするもんだ。

 この子には、まだ似合わない。

 

 無意識に眉間に皺が寄っていたのを、美鈴が気付いて心配そうな顔をした。

「あの……背中、何か変ですか?」

「いや、変じゃない。けど、自分で着付けたほうが、君らしくていいと思うよ」

「……」


 それきり会話も途切れて、美鈴は地面を見つめたまま、傾けた日傘の陰に隠れるようにして後をついてくる。

 

 うるさいほどの蝉の声と、砂利を踏む二人の足音だけが、白い日差しの中に響き続けていた。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 アトリエに着いて窓を開けると、またどこかで南部鉄の風鈴が鳴っていた。その音に僅かな涼を感じて、一つ息をつく。

 

 その日は、最終的な作品と同じ大きさの紙に、前回描いたスケッチの構図を元にデッサンを始めた。

 

 しかし何故か、僕が見るたびに美鈴は視線を逸らせてそっぽを向く。こっちを向いてと言っても、その時だけ目を向けて、またすぐにあらぬ方向に視線が泳いで行ってしまう。

 

「美鈴ちゃん、どうかした?」

「いえ……なんでもありません。ごめんなさい」

 

 そう言いながらも、足元を見つめたまま顔を上げようとしない。心なしか顔が赤いようにも見えるが、具合でも悪いのだろうか。

 

「ちょっと早いけど、今日はもう終わりにしよう。片付けたら画材屋まで送るから、ちょっと待ってて」

 椅子から立ち上がった僕に、美鈴は慌てたように手を伸ばした。

「あの、待ってください。まだ大丈夫ですから、続けてください」

「でも、なんだか調子が悪そうだし、集中出来てないみたいだから。無理はしなくていいよ」

 そう言うと、言いにくそうにしながら両手を握り合わせて下を向いた。

 

「実は……衣紋が、背中が気になって集中できなくて──」

 

「なんだ、そんなことか。さっきも言ったけど、別に変ではないし、こっちから見ているぶんには背中側は見えないから、気にしなくていいよ」

「それは、そうなんですが……傷が、見えてるんじゃないかって、心配なんです」

 

 傷──

 

 そういえばオヤジが言っていた。幼い頃に空襲で背中に火傷を負って、その痕が背中に残っているって。

 

 僕は黙って美鈴の背後に回り込んだ。

「え?……あ、あの……いや、見ないで!」

 

 椅子に座ったまま背中を隠そうとする美鈴に構わずに、上から衣紋を覗き込んでから、正面に向き直って膝を付く。

 震える両手で顔を覆う美鈴を下から見上げて、僕は静かに声をかけた。

 

「大丈夫、見えてない。安心して」

 

 そろそろと両手を下ろした美鈴は、目に涙を溜めて唇を震わせていた。

 

「空襲の時のこと、覚えてる?」

 そう聞くと、こくりと小さく頷く。話を促すように、僕は首を傾げた。

 

「夜中、寝ていたら警報が鳴って、防空頭巾を被って母と手を繋いで逃げたの。川へ向かって逃げる途中、爆弾がたくさん降ってきて、街中が火の海になった。そのうちに、背中に火の粉が飛んできて、着物に火がついて……

 母が被っていた頭巾を脱いで、叩いて火を消してくれて、そのあとすぐに川の水で冷やしたんだけど──」

 

 痕が残ってしまった。

 その状況では、すぐに手当もできなかったんだろう。

 

「痛かったろうね」

 美鈴は頷きながら、大粒の涙を零した。あとからあとから、とめどなく零れ落ちてくる涙が頬を伝って顎から落ちる。

 

「美鈴」

 呼びかけると、僕を見て一つ息を吐いた。

 

「あの空襲の夜を知っている人間に、君の傷を笑う奴なんていないよ。君は生き延びたんだ。もっと胸を張っていい」

 

 

 再び両手で顔を覆った美鈴は、声を殺して泣き続けた。

 揺れる肩先に触れようとして、伸ばした右手をすんでの所で止めた。指先が空を切って、ただ何もない掌を握る。


 こんな痛々しい姿を目の前にしても、指切りの呪縛に縛られている僕を嘲笑うように、蝉達の叫声が一際高くなったような気がした。

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