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炎陽  作者: うみの ねこ
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四 夏の記憶

「あの……終わりました」

 

 二階から声が降ってきて、僕は湯呑みに入れた水を持って階段を上がった。



 美鈴が部屋の中央に所在なげに立っている。その身には、紺地に白い染め抜きで大小の紅葉が描かれた、綿コーマの浴衣を纏っていた。ところどころ赤や青の暈しが入っているが、全体的に落ち着いた柄行である。

 ずいぶん大人っぽい柄だ。この年頃の少女なら、もう少し可愛げのある柄を選びそうなものだが。しかし、反して着付けは七五三の如く、きっちりと衣紋を締めて一分の隙もない。

 そのアンバランスさが、かえって目を引いた。

 

「座って」

 そう言って美鈴の背後に椅子を置いてやる。ぎこちなく浅めに腰掛けた美鈴は、膝の上でハンカチを握り締め、身を固くしていた。

「暑かったろう。水しかないけど、よかったら」

 湯呑みを差し出すと、握った手を解いて両手で受け取り一気に飲み干した。

 

「──ありがとうございます」

 

 空になった湯呑みをこちらに突き返しながら、息を詰めて僕を見上げる彼女に思わず苦笑した。

 

「よっぽど警戒されてるね。まあ当然だけど」

 

 返された湯呑みを文机に置くと、美鈴の正面にイーゼルを設置してスケッチブックを乗せた。そこに正対するように椅子を置いて座ると、真っ直ぐに彼女を見据える。

 その視線にビクッと肩を揺らし、緊張した様子の美鈴に声をかけた。

「今日は軽くスケッチをして、構図を考えたら終わりにするから」

 

 黙って頷く彼女を、まずは上から下までじっくりと観察した。白い紙に鉛筆でアタリをつけながら、全体のバランスをとって輪郭を描いていく。

 僕の視線は何度も美鈴とスケッチブックとを往復し、鉛筆が紙の上で立てる摩擦音が切れ間なく聞こえていた。

 

 見られているのが落ち着かないのか、美鈴は目線をあちこちに彷徨わせたり、手をもじもじしてみたりと忙しない。

「浴衣、ずいぶん大人っぽい柄だね。自分で選んだの?」

 緊張をほぐそうと声を掛けた。すると、一度こちらに向けた眼差しを畳の上に落として、頬を赤らめた彼女が小さな声で答える。

「母のを借りてきました。自分のは、子供っぽいのしか持ってないから」

「そうなんだ。でも、似合ってるよ」

 

 もう少し隙のある着方をした方がいいと思うけど──

 

 そこは言葉にはせずに飲み込んだ。それでも、似合うと言われた美鈴は、恥ずかしそうにはにかみながら僅かに微笑んだ。

 

 ああ、この顔

 

 こんな表情は画材屋で色鉛筆を見ていた時以来だ。そう思うと、見ておかなくてはもったいないという一心で思わず凝視してしまう。

 それに気付いたのか、慌てて微笑みを引っ込め顔を背けられてしまった。怒ったのか、恥ずかしいのかいまいちわからないが、眉間に皺を寄せて困ったような顔をしている。

 

 女の子の扱いは難しい──

 

 そんなことを考えていると、何処からともなく、金魚売りの掛け声が聞こえてくきた。その独特の節回しに、美鈴の目元がふっと緩む。

 また違う表情が垣間見えた気がして、鉛筆を動かしながら問いかけた。

 

「金魚、好きなの?」

「小さい頃、父に買ってもらったのを覚えているんです。まだ戦争が始まる前に」

 そう言って、懐かしがるような、寂しそうな目をして宙を見つめた。

 

「お父さん、戦争で亡くなったんだっけ」

「はい。小さかったから、よく分からなかったけど、終戦間近に南方のどこかの島で死んだと母から教えられました」

 

 戦局が悪化し、激戦地となった南方に送られた人々は皆、劣悪な環境の中で無謀とも言える戦いを強いられ、玉砕へと突き進まざるを得なかったと聞いたことがある。

 そんな酷い戦いで父親を奪われた少女が、自身の身にも傷を負って生きていかなくてはならないなんて。

 あの戦争は、いったい何のために、誰のためにあったのだったのだろう──

 

「あの金魚売り、この辺をよく通るんだ。今度来たら、買っておこうか?」


 そう聞くと、薄く涙を溜めた目を細めて小さく首を振った。

「命は、いつか死んじゃうから。そうなったら、悲しいから……」


 その言葉に、僕は何も言えなかった。この娘は、自分の目の前で命が消えることの辛さを知っている。あの戦争を生き延びた人間は、多かれ少なかれ、そういう経験をしてきているのだ。


 再び鉛筆の音しかしなくなったアトリエに、開け放った窓から近所の風鈴の音が聞こえてきた。ガラス製のよくある江戸風鈴ではなく、南部鉄の高く澄んだ高音が、チリーンと一回。そして短くもう一回──

 

 その音に、美鈴がハッとして窓を見た刹那、僅かに潮の香りを含んだ風が吹き込んで、簾を持ち上げた。

 

 西の窓から差し込む黄金色の光を受けて、彼女の白い頬が輝きを纒う。

 まるで陶器のような、それでいて瑞々しさを湛えた質感から、僕は目が離せなくなった。

 

 この娘を、描きたい

 今この瞬間にしかない輝きを

 ありのままに写し取りたい

 

 画家としての僕の本能が、確かにそう言っているような気がした。


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