三 長屋
「そうしたら、美鈴ちゃん。早速だけど明日はどうだろう?この店の仕事が終わってからでいい。時間は任せる」
美鈴はオヤジの顔を見て問いかけるような顔をした。この子は言葉が少ないぶん、表情が豊かで分かりやすい。
「三時になったら上がっていいぞ」
それを聞いてから、僕の顔を見上げた。
「あの……アトリエは、この近くですか?」
「ああ、歩いて十分くらいだ。場所がわからないだろうから、三時過ぎにここへ迎えにくるよ」
頷く彼女に、そうだ、と言葉を続けた。
「できれば和服を着た絵を描きたいんだ。暑いから浴衣でも構わない。着て来てくれると助かるんだけど……」
そう言うと、少し考えるようにしてから「わかりました」と答えた。
◇
翌日、三時十五分頃に店に着くと、いつもと同じ開襟シャツを着た美鈴が風呂敷包みを持って奥から出て来た。
「あれ……美鈴ちゃん、浴衣は?」
そう言う僕に、彼女は手に持った風呂敷包みを見せた。
「画材屋の仕事で、汚してしまうといけないと思って……アトリエに着いたら着替えますから」
「ああ、そう」
仕事をするのに動きにくいのもあるだろう。それでも、髪はおさげではなく、耳の上辺りで器用に丸められていた。
「じゃあ行こうか」
そう言ったところで、オヤジが慌てて出てきて僕に耳打ちをした。
「蒔田くん、大事な姪っ子なんだから……その……よろしく頼むよ」
その表情で、言いたいことはだいたいわかった。
「オヤジさん、大丈夫だよ。心配しなくても子供に手を出すなんてしないから。指一本触れないって、彼女とも約束したしね」
それを聞いて安堵したような顔で頷くと、オヤジは美鈴に向かって微笑んだ。
「美鈴、綺麗に描いてもらうんだぞ」
肩先を軽く叩いて見送るその姿に、僕は心の中で誓いを立てる。
そう。世話になってるオヤジさんの大事な姪っ子だ。やましいことなんて絶対にしない。そもそもまだ子供じみた美鈴に、そんな変な気を起こすはずはないじゃないか──
外へ出ると、容赦なく照りつける日差しが目に飛び込んで、一瞬目の前が真っ白になった。思わず右の手を眉間に当てて目元に影を作る。
隣を見ると、美鈴もまた同じようにして眩しさに耐えていた。片手で持った風呂敷包みがバランスを崩して落ちそうになる。
「貸して」
そう言って有無を言わさず荷物を持ち上げ、ポカンと口を開ける彼女より少し前を歩き出した。遅れてついてくる美鈴を気に掛けながら、出来るだけ日陰を選んで歩く。
戦前、国鉄の駅を中心に栄えたこの海辺の地方都市は、海軍の火薬厰があったために大規模な空襲に遭い、終戦の直前に焼け野原となってしまった。
しかし、焼け跡には闇市が立ち、バラックが建てられ、人々は生きるための営みを止めることはなかった。そして終戦から数年で、立派な商店街で毎年華やかな夏祭りが催される程の、賑やかな街へと復興を遂げたのである。
綺麗に整備された商店街をぬけると、まだまだ空き地や荒屋が目立つ。そんな道を無言のまま十分ほど歩き、自宅兼アトリエに着いた頃には二人とも汗だくだった。
戦後すぐに建てられた二階建ての四軒長屋は、薄い壁板とトタン屋根で出来た、お世辞にも綺麗とは言えない建物だ。玄関の真上、二階部分には物干し場があり、数軒の家の軒下にはカラカラに乾いた洗濯物がユラとも揺れずにぶら下がっている。今日はほとんど風がないのだ。
西側の端が、僕が借りている部屋だ。曇りガラスが嵌められた引き戸の玄関を開けると、淀んだ熱気がむわりと立ち込めていた。
僕が中へ入っても、美鈴は玄関の前で躊躇うように立ち尽くしている。やはり、男の家で二人きりになるなんて、怖いのだろう。
僕は右手の小指を立てて、美鈴の前に出して見せた。
「約束は守るから」
その言葉にごくりと唾を飲み込んでから、彼女は一歩前へ踏み出した。
三和土から上がってすぐの六畳間から、二階へ上がる階段が延びている。
「二階をアトリエにしているんだ。どうぞ、遠慮なく上がって」
狭くて急な階段を登ると、広々とした八畳の和室が広がっている。二階にはこの一部屋と、狭い物干し場があるだけだ。壁に向かって置いた文机には挿絵を描くための上質紙やペンが乱雑に置かれている。こうして見ると、もう少し片付けて出ればよかったと思うほど雑然として見えた。
自分一人なら気にならないことが、何故か目に付いて仕方がなかった。
物干し場は南向きだが、ここは角部屋なので西側にも腰窓がある。その窓からは、うんざりするほどの西陽が差し込んでいた。慌てて簾を下ろしてから、美鈴に向き直る。
「着替えをするんだよね。僕は下で待っているから、終わったら声を掛けて」
美鈴は持っていたハンカチで汗を拭いながら、はい、と言って僕が手渡した風呂敷包みを受け取った。よほど暑かったのだろう。赤く上気した顔には前髪が張り付き、うなじには汗が流れ続けている。
水しかなくて申し訳ないが、あとで出してやろう。
そう思いながら階段を降りる僕の背後で、シュルシュルという衣擦れの音がし始めるのを、なんだか不思議な感覚で聞いていた。