#003 影にも過去はあり
アスラディア王国は国土が『龍穴の上にある巨塔』という特異な形であるため、徹底的な身分制度が強いられている。
まず『最高階』、皇族と一部の貴族が居住地を構えている。ここは唯一『空』を持っている階だ。天候の影響を受けるが、全身に惜しみなく日を浴びることができるのはここだけだ。
次の階は『貴族階』と呼ばれる。貴族階は六階層に分かれており、それぞれの身分によって住める居住階がことなる。このあたりまでは魔法鉱石の隙間から日差しを浴びることが可能だ。
しかし、その下にある『平民階』ともなると日光はほとんど拝めなくなる。手のひらで何とか拾い上げられるようなわずかな日差しを見つけては、奇跡の光〈ルミナス・タワー〉と崇めている。
そうして最も低い海に近い階層、通称〈アビス〉には犯罪者と断ぜられた者たちが暮らしている。この階層で暮らすものは、短くて三時間、長くて三年で死ぬと言われている。
このような生まれで全てが決まる状況を新王は打破しようとしているのだが、一旦、三十八年前に話を戻そう。
三十八年前、最高階に居住地を構える『かの』フォード大公家にて、我らが主人公ルイ・スタンレー・フォードは誕生した。
うららかな春の日のことで、桃色の花が祝福するように花開いたと記録されている。だが、その赤子の歩んだ道のりは遠目に見たら悲劇であり、近くで見れば地獄であった。その理由は彼の父であり、アスラディア王国で最も歴史ある公爵家当主、ヴァルガード大公にある。
ヴァルガード大公は良くも悪くも真直ぐに、ただ『強さ』を求める男だった。
だから彼は歯も生えてない赤子に肉を与え、細すぎる手に剣を握らせた。常人では到底受け入れられない量の魔力を注ぎ、ありとあらゆる魔法を覚えさせた。必然的にルイは何度も死にかけたが、ヴァルガードは行いを改めることはなかった。それが彼の愛の形だったからだ。
その虐待から奇跡的に生き延びたルイは、物心つく時には大人顔負けの体躯と、魔法石要らずの異常な魔力量を手に入れていた。まさに文字通り『一騎当千』の男となったルイは、次にヴァルガード大公との組手が日常となった。
そんな時に母親はどうしていたのかといえば、クラウディア夫人についてはまた別の闇がある。ここでは割愛しておこう。
そしてルイが十二歳の時に、弟のイザークが産まれる。両親は再び拷問育児を始めようとしたのだが、ルイがそれを食い止めた。その結果、概ねイザークは普通の子どもとして育った。そうしてルイが十八歳、イザークが六歳の時分である。
ヴァルガード大公が失踪したのである。
当主が失踪となれば大公家には様々な悪意が入り込む。この時、せめて妻がまともであれば少しは話が違うのだが、重ね重ねクラウディア夫人には別の闇がある。そのため、大公家は王家の力を借りることを選んだ。そしてその証として子どもを一人、人質として王家に渡すことになった。
本来ならば嫡男のルイが残り、イザークが人質になるべきだ。しかし、イザークは家を離れることを恐ろしがり、そしてイザークの親代わりであったルイは、そんなイザークの思いを汲んだのだ。
それがルイのさらなる地獄の始まりだった。
「……懐かしい」
そうして二十年後の今、ルイは無職となって、弟のイザークが大公として君臨するフォード大公家に戻ることになったのである。
◇
彼が二十年ぶりの生家に戻ったのは、虫さえも眠る丑三つ時のことである。
この時間に彼が戻ることになった理由は『彼は今、国外追放の命令を受けているし、表向きは死んだことになっているし、弟に迷惑をかけないように会うには、この時間に行くしかない』である。つまり『気遣い』である。そのために彼がしたことは、この二十年で身に着けたスキルをフルに活かし、ありとあらゆる防犯対策を施している大公家に、真夜中に忍び込むことだったのは、ひとえに『ルイには常識がないため』であった。
「なァんでこの家、こんなにトラップ多いンよ?」
「ルイ様のお父上という以外すべてがXX(放送禁止用語)である野郎の趣味だ。その箱倒すと毒槍が飛び出すぞ」
「こわァい……イライザはなんで慣れてンの?」
「私はこの家に何度か入ったことがある……XX(放送禁止用語)みたいな用件で……」
もちろん彼と同じように常識がない、部下二名もついてきた。
「……」
「ハァイ、静かにしてまァす」
「せめて毒を撒きたい。せめて皆殺しに……」
そんな話をしつつ、彼らはイザーク大公家の寝室になんなく潜り込んだ。
とはいえ、さすがに大公だ。彼は侵入者に手をかけられる前に目を覚ますと、枕元の剣を持ち、威厳をもって闇を睨んだ。
「……無礼者共が。ここが誰の寝室と心得て忍び込んだのか?」
闇の中から、まず右手が現れた。
「そうだな……私の宮を使っているとは思わなかった。父上が使っていたセイラ宮は奥方と子どもたちに譲ったんだな」
「……まさか」
「たしかにあちらの方が広いから子育てには向いているか。私にとっては、あまり入りたくない宮だが……たしかに、英断だ。あの宮があんなに美しくなっているとは思わなかった……二十年も経てば、変わるものは変わるのだな」
ゆっくりと、その右手の主が闇から現れる。
「兄さん……?」
「ウン……久しぶりだな、イザーク」
イザーク大公の手から剣が落ちた(音を立てて転がっていく剣はイライザが蹴り上げて拾い、ラウラはその剣についている魔石を見て『これ、めっちゃ高いやつだァ、もらっとこうぜ』と手話でイライザに伝えた)。
そんな背後の部下の会話は知らぬルイは、イザークの顔を見て、彼としては本当に珍しく微笑んだ。
「大きくなったな、イザーク。結婚した時も、子どもが生まれた時も、直接祝うことができなくてすまなかった」
「あ、の……、……花は、……やはり、兄さんからの……」
イザークの灰色の瞳から大粒の涙が落ちたのを見て、実際にこの大公家に侵入し、事あるごとにイザークの執務室に花を届けていたイライザはものすごく嫌そうに顔を歪めた。
「生きて……生きて、いらしたんですね……」
ルイは眉を下げた。
「泣き顔は昔のままか」
ルイはその大きな右手を持ち上げ、イザークに伸ばす。
「おかえりなさい、兄さん」
兄の手は弟の頬に触れずに下ろされた。
「やっと戻られた、我がフォード家の太陽……これからはずっとここにいてくださるんでしょう? もう、僕を一人にしないよね……? 一緒に、この家を……一緒に……」
ルイはこの家でも、この家を離れてからも血塗られた道を歩いてきた。そうやって彼は彼のできる方法で弟を守ろうとしていた。
しかし、イザークは道は違えど、同じように地獄の道を歩いて、ここまで来たのだ。
(あの時、たった六歳だったんだ、この子は……)
そのことに改めて思い至り、ルイは自分の両手を組んだ。
「……お前を頼るのは筋違いだったな」
「え……?」
「すまない、イザーク。ここに来るべきではなかった。私のことは、これまで通り、死んだものと思っていてくれ」
ルイは胸ポケットに入った書状を出すことなく、踵を返した(部下二名はそれぞれ『ああ、やっぱりなァ、頼ることを知らないお人だよ、本当にさァ』『やはり気高くいらっしゃる』という顔をしていたが、ルイを止めることはない。彼らはどんな判断であれ、ルイに付き従うからだ)。
だから、ルイを止めたのはイザークだった。
「兄さん、待ってくれ。どんな事情があるんだ」
ルイの左手を両手で掴んだイザークは、その左手に額を当てた。
「僕はあの頃の、泣くことしかできない弟ではない。ちゃんと話してくれ。兄さんが、勝手に決めてしまうのは、もう嫌だ……僕は、……僕はこの家の当主だよ? 少しは頼ってくれ。……ここに、もう戻れないのだとしても」
イザークは深く息を吸ってから、顔を上げる。その顔はもう、大公のものだった。
「……イザーク、……」
ルイはゆっくりとイザーク大公のベッドに腰掛けた。
「兄さん、困っているんだろう? 教えてくれ。僕にできることをさせてほしい」
「……ありがとう、イザーク」
こうして兄弟は実に二十年ぶりに手を取り合ったのだ。
そうして満を持して『部下二名の再就職先を紹介してほしい』という内容の書状をルイはイザークに渡したのだが――
「兄さん、……この経歴じゃ紹介状は書けないよ」
――それに対する、大公の言葉は残酷なものだった。