プロローグ
ゆるゆると
――真の闇は闇の中にあって猶、際立つものだ。
まず、哀れな男たちがいる。
年齢は様々だが、皆一様にひどい身なりをしている。古ぼけた外套の裾はほつれ、裏地から当て布がしてあるほどだ。顔色は悪く、肌は乾き、目には怯えと苦労が見えた。情心を持つ者があれば、きっと彼等に手を貸したくなるはずだ。
しかし先に言っておくと彼等は、今日、この夜の中で死ぬ。
「この道で合ってるよな……?」
「地図では、まもなくだ。進もう……」
自分たちの未来を知らず、彼等はとある夢を見て、この魔法大国『アスラディア王国』の『平民階』の夜を、より暗い方へと進んでいく。彼らの足は一つの小屋にたどり着き、彼らの瞳は『階段』を見つける。その先にあるものが自由ではなく、地獄とも知らずに。
「あったぞ! 地下水道につながる階段だ……」
「行こう……! 仲間が待っている!」
彼らは石造りの階段を転がるように駆け下り、海につながる地下水道へと辿り着く。そこでは作戦通り、彼らの仲間たちが用意した船とともに待っていた。
「よかった! 無事か?」
「あぁ、全員いる。『原石』も手に入れた!」
「よくやった!」
彼らは再会を短く喜ぶと、急いで船に乗り込んだ。
船の先につけたランタンのわずかな光を頼りにオールを漕ぐ。彼らの息遣いのほかには、水が跳ねる音しかない。彼らは汗をぬぐいながら、夜を進む。
「次の角を曲がると、いよいよ、滝だ……」
「行くぞ……!」
彼らは必死に船にしがみつき、地図に描かれていたその難所を耐え抜いた。
「やった……!」
「ここさえ越えれば、海はすぐだ!」
彼らの一人一人にこれまで積み重ねてきたものがあり、この先に望んでいるものがある。祖国に置いてきた家族もいれば、将来を誓った恋人もいるだろう。
「海に出てしまえば、今日は新月。逃げおおせる」
「仲間も俺たちを待っている……早く帰ろう」
彼らの顔には苦労があり、彼らの瞳には涙がある。彼らの心には達成感があり、彼らの前には輝かしい未来しか見えていない。
しかし悲しいことに彼らにはもう明日はない。
何故なら彼は今『魔法石』を作るために必要な『原石』を持ち、魔法大国『アスラディア王国』から逃げ出そうとしているのだから。
「次の角を越えれば、星の光が見えるはずだ」
「家族が、空が、俺たちを待っている……」
――だからまず、船頭の頭が割れた。
「え」
ランタンは水に落ち、全てが闇に包まれる。
「がっ!」
水音の横で誰かの断末魔。
「何がっ……!」
男たちの持っていたオールは投げ出され、醜い水音と化す。先ほどまで輝かしい未来に向かっていた船は、今や墓穴に入ろうとする棺桶と化した。
そして――ここに哀れな男がいる。
(何が……! 何が起きている……!)
右を見ればだれかの最後の吐息、左を見ればだれかの身体からこぼれた血が頬に触れる。
船の上で伏せていた男は幸か不幸か、この棺桶の中の最後の生存者となっていた。彼はまだそのことには気が付かず、必死に船底に手を伸ばし、革でできた小さな袋を抱え込んだ。
(これさえ守れば……)
――明かりがついた。
「あァ、まだ生きてんのかァ?」
突如現れた青白い炎に照らされた男が見たものは『闇』だった。
「あ、ァ……あ……」
男は覚悟をしていたはずだった。今日死ぬ覚悟をしていたはずだった。しかし、その覚悟は絶望を目の前にしたときに何の役に立たないものだ。男の目から涙が流れた時、その青白い炎を指に灯した『闇』が笑った。
「まァんまと逃げられると思ったァ? ……アッハッ、だっせえなあ、泣いてんのかよ?」
それは青年の声だった。
『闇』にしか見えなかったものは、闇に溶けるような色の装束を身にまとった大柄な青年だったのだ。
「お前らみたいなのが盗めるんだったらさァ、他の奴らも盗めたろォ? なんで、今まで誰もできなかったことをさァ、自分ならできるって思うわけェ? そもそもさァ、誰にも見つからずに外に出られる地下水道ォへの道なぁんて、それ自体が怪しいって、思わねェ?」
青年は男に絶望を突きつけて、笑う。
「ご愁傷さまでしたァん。この地図は俺のお手製ェ……ぜェんぶ、俺の計算通りってわけよ」
あざける青年の頭をゴツン、と誰かが殴った。
「不必要に囀るな。小物に見えるぞ」
男はそこで初めてもう一人、『闇』がいたことに気がつく。
青年と同じように闇色の装束を身にまとったその者の声は、男のもののようにも女のもののようにも聞こえた。青年よりは小柄だが長身であるその『闇』に、青年は「ぶー」と不服そうに声を上げる。
「よりにもよってそれをチビが言うゥ?」
「何だと……?」
小競り合いを始める闇二人に、男は期待をする。
(この隙に……)
男は生唾を飲み、船の縁に手をかける。そのことに気が付いた小柄な方の闇が「おい、お前っ……!」と男に手を伸ばす。しかし一歩早く、男は革袋から取り出した原石を飲み込み、船から飛び降りた。
(この石さえ外に持ち出せば……! 俺が死んでも、仲間がきっと見つけてくれる……!)
だが、決死の覚悟で飛び降りたはずの男が、水に落ちることはなかった。
「あ、れ……?」
男が目を開けて見たものは、自分の胸から突き出す何者かの右腕だった。
「あ……」
男はその右腕が自分が飲み込んだ原石をつかんでいることを見てから、息絶えた。闇のしじまの中、船は波に乗り、流されていく。
「リーダー、いっつも、いいところを持っていくんだからァ……。外の担当でしょォ? ここにいていいのォ?」
最初に声を上げたのは、大柄な青年だった。
「お前が気を抜いたせいだろう……! 申し訳ありません、リーダー、お手数をおかけいたしました」
それに苦言を呈したのは、先ほどの青年を殴った小柄な闇だ。
「……」
そんな彼らに対して何も答えず、静かに、男の死体から自身の右腕を引き抜いたのは、青年よりはるかに大きい『男』だった。
その男が身にまとっている装束は、他二人と同じもののはずだ。しかし男は彼らよりもずっと闇に馴染んでいた。むしろその男こそが闇であるかのようにさえ思える。ぽっかりと空間に穴があいたかのように、男のシルエットは黒に染まっていた。
男は原石を懐に仕舞うと、血濡れた右手を自身の口元に引き寄せた。人差し指を口元によせ、ゆっくりと小首を傾げる。かわいらしい仕草だが、そこには『これ以上話すなら殺す』といった圧があった。
ようやく闇たちが黙ったところで、船はついに海にたどり着いた。
雲が厚い新月の夜だ。海は真っ暗で、空と海の境すら見えない。ただ、穏やかな波の音が聞こえる。しかし、本来ならするはずの潮の香りはない。
辺り一帯を漂うのは、濃厚な血の匂いのみ。
「戻るぞ」
ただ一言。
しかしそれで充分だった。それだけで充分に、この海の上に生存者がいないことは確実だった。
「さっすがリーダー! 仕事がはやぁい、飲みに行きましょー!」
「馬鹿が! 戻ると仰っただろうが! 飲むとしても本宅で、だ!」
「……二日後には即位式だ。余計なものは摂取しない。戻るぞ」
こうして闇はいつものように逃亡者を排除したのだ。
アスラディアが有するものは魔法や魔法石だけではない、それらを守る絶対の門番にして、容赦なき工作員。アスラディアの公然の秘密である『闇の魔』、彼らがいる限り、誰もこの魔法大国に手を出すことはできないのだ。
だがしかし、――ここで、この物語のタイトルを確認しよう。
『そして、スパイは無職になった』
つまりこの三日後――
「わたくし、アリアン・パロ・アスラディアは本日、新国王に即位するとともに、この君主制の廃止を宣言する」
――『闇の魔』はリストラされることになったのである。