第1話 ディスカッション
波留は重厚な木目が浮かぶ扉の前で、胸を大きく上下させながら深呼吸をした。鴨居局長からの呼び出しは珍しいことではない。だが今回は何か違う。そんな予感が彼の胸の内をざわつかせていた。
「失礼します」
緊張した面持ちで執務室に足を踏み入れると、鴨居陽炎局長の姿が目に入った。いつもの和服姿で、長い黒髪を後ろで一本に結んでいる。その表情には、普段の厳しさが影を潜め、どこか懐かしさを感じさせる柔和さが浮かんでいた。
「ようこそ、桐生くん。座りたまえ」
鴨居の声は、いつもの厳しさがなく、どこか懐かしさを感じさせるものだった。波留は促されるまま椅子に腰を下ろした。
「今日は君に、われわれ異世界管理局の歴史について話そうと思う」
鴨居の言葉に、波留は思わず身を乗り出した。これまで断片的にしか聞いたことのない、局の歴史。それを局長自らが語るというのだ。
「異世界管理局の起源は、はるか平安時代にさかのぼる……」
鴨居の語り始めた物語は、波留の想像を遥かに超えるものだった。平安京に設立された「玄界寮」。源氏物語の光源氏が実は異世界の王子だったという驚くべき事実。安倍晴明や源頼光といった歴史上の人物たちが、実は異世界との架け橋だったこと。
(まさか、日本の歴史がここまで異世界と深く関わっていたなんて……)
波留は息を呑み、目を見開いた。これまで知っていた歴史観が、目の前で大きく塗り替えられていく感覚に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。鴨居の語る言葉の一つ一つが、波留の中で新たな世界を広げていった。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代と話は進み、明治維新を経て現代へと至る。その長い歴史の中で、異世界管理局は形を変えながらも、常に日本と異世界の関係を見守り続けてきたのだ。
「そして、現代。我々の役割はますます重要になっている。特に、西暦二〇二五年、日本で『次元共存システム』が導入されたことも大きい。無秩序だった異世界転生や異世界転移の管理体制が強化され、友好的な複数の異世界と様々な交流が始まったからだ」
鴨居の言葉に、波留は息を呑む。局長の目には、未来への強い決意が宿っていた。
「桐生くん。君たち若い世代に、この重責を託さねばならない時が来ている」
波留は背筋をピンと伸ばした。歴史の重みと、未来への期待。それらが一気に彼の肩に乗せられたような気がした。
「了解しました。この重責、必ず全うしてみせます」
その言葉に、鴨居はわずかに微笑んだ。
「よろしい。では、次の話題に移ろう」
鴨井はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見やった。
「神無月良二のことだが……」
波留は息を呑んだ。神無月のこと。異世界の地下迷宮での裏切り、そしてその後の和解。波留の胸に去来する複雑な感情。
「彼の経歴について、本人に直接聞いておくべきだ」
鴨井の言葉に異を唱える。
「ですが……」
波留はたしかに聞いた。神無月の家族が異世界に住んでいると。だがしかし、その件について深く聞こうとは思っていなかった。当然それは、プライバシーの問題で、いくら仲間とはいえ土足で立ち入る話では無い。彼はそう思っていた。
「我々の仕事は、互いを信頼することだ。それ以上でもそれ以下でもない。わだかまりな残らないように、ちゃんと話すんだ」
鴨井の声には、波留の考えを否定する、揺るぎない信念が込められていた。波留は複雑な思い――なぜだ、という気持ちをを抱えながらも、その言葉の重みを感じずにはいられなかった。
*
翌日の午後、波留は無限演習場のトレーニングエリアで神無月と向き合っていた。二人で黙々と筋トレに励む中、波留の胸の内では様々な思いが渦巻いていた。
(どう切り出せばいいんだろう……)
波留が戸惑いを見せていると、神無月が口を開いた。
「君は、僕のことが気になるんだろう?」
その言葉に、波留は驚いて顔を上げた。神無月の表情には、いつもの物憂げさの中に、どこか覚悟のようなものが見えた。
「ああ……そうなんだ」
波留の声は少し震えていた。神無月は深く息を吐き、話し始めた。
「僕の出身世界は『クロノス・レルム』という。そこでは、時間が常に流動的でね。砂時計の砂が、逆流することがあるんだ。一日が数分で過ぎ去ることもあれば、一瞬が数年に感じられることもある。そんな世界で僕は貴族の家系に生まれ、恵まれた生活を送っていたんだ。だが、ある日突然、政変が起きた。幼かった僕は、家族のすすめで、地球へ亡命させられたってわけさ」
神無月の語る異世界の姿は、波留の想像を遥かに超えるものだった。
「家族との再会を諦めきれず、時空を操る力を得ようと必死に努力した。その結果、次元間ポータルを開く能力を身につけたんだ。でも、それでも家族には会えなかった。結局、地球、つまり日本に留まることになってね……」
貴族として生まれ育った彼の生活、突如として起こった政変、そして地球への亡命。そのすべてが、波留の胸に重くのしかかった。
「家族は……今も」
波留の問いかけに、神無月は一瞬目を伏せた。
「無事だ。だが、僕には今、彼らを守る力がない……いまは異世界管理局の次元特殊作戦部隊が身辺警護をしてるみたいだ」
その言葉に込められた無力感と後悔。波留は胸が締め付けられる。
「でも、君には力があるじゃないか。あの能力……」
波留の言葉に、神無月は小さく首を振った。
「異世界の魔法と、この世界の魔術は少し違うんだ。僕の能力も、ここでは制限されている」
そう言って、神無月は異世界の魔法システムについて説明し始めた。魔力の本質、その源、そして異なる世界での違い。波留は目を輝かせながら聞き入った。
「じゃあ、僕に魔力がないのは……」
波留の問いに、神無月は少し考え込むような表情を見せた。
「魔法や魔術、そういったものより、君の『官僚的直感』だよ……あれは、別の意味で特殊な能力かもしれない」
その言葉に、波留は驚きを隠せなかった。自分でも十分に理解していないその能力。それが特別なものだと聞かされて、波留の心は複雑な思いで揺れた。
「よし、実践的に試してみよう」
神無月の提案に、波留は少し戸惑いながらも頷いた。二人は軽い模擬戦を始める。波留は「官僚的直感」を駆使し、神無月の動きを予測しようと試みた。
(複雑な申請書のようだ……でも、この流れなら……)
波留の頭の中で、神無月の動きが整然とした書類のように整理されていく。複雑な申請書の各項目が、自動的に適切な場所に収まっていくかのようだった。そして――。
「すごい! 波留、君の動きが読めてる!」
神無月の驚きの声に、波留自身も驚いていた。確かに、以前よりもずっと的確に対応できているのだ。
訓練を終えた二人は、互いに疲れを見せながらも、満足げな表情を浮かべていた。
「波留、君の能力には大きな可能性がある。一緒に磨いていこう」
神無月の言葉に、波留は感動を覚えた。奥多摩に来て以来、自分の無力さに、一年間悩んだ。でも、ここにいる仲間たちと共に成長していける。そう思えた瞬間だった。
「ありがとう、神無月。僕も頑張るよ」
二人が握手を交わそうとした、その時だった。
「波留くん! 神無月!」
霧島カンナの緊迫した声が、訓練室に響き渡った。彼女の表情には、尋常ならざるものが浮かんでいる。
「どうしたんだ、カンナ?」
波留が尋ねると、カンナは息を切らしながら答えた。
「緊急事態よ。サミットの準備に、予想外の事態が発生したの。これから至急、霞が関へ移動するわ」
その言葉に、波留と神無月は顔を見合わせた。カンナの声に含まれる緊張感が、二人の背筋をピンと伸ばす。再び、彼らの前に大きな試練が立ちはだかろうとしていた。
「わかった。すぐに準備する」
波留の声には、先ほどまでの和やかさは消え、代わりに鋭い緊張感が宿っていた。神無月も無言で頷き、すぐさま行動を開始する。
三人は急いで装備を整え、霞が関へ車で移動することとなった。移動中、異世界情報部長の高千穂鏡子から連絡が入り、詳しく状況を聞くこととなった。