第1話 守護者
奥多摩駅のホームに、初夏のさっと風が吹き抜けていった。桐生波留は深呼吸をして、胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込む。都心とは違う。緑の香りがほのかに漂う。
今日は休日。せっかくの機会だから、いつもは通り過ぎるだけの奥多摩駅周辺を散策することにした。
「実家のある八王子と比べると、この地の空気は格段に違うな」
波留は呟きながら、ホームを歩き始めた。駅を出ると、目の前に広がるのは閑散とした道。正面にバス会社。少し先に昔ながらの小売り商店。しかし、何かがおかしい。波留は眉をひそめた。
(あれ? 記者が一人もいない……)
先日、深山コンプレックスで大々的に記者会見を行ったばかりだ。当然、多くの記者が奥多摩に押し寄せてくるはずだった。しかし、目の前に広がる光景は、いつもと変わらない平和な田舎町の風景そのものだった。
波留は違和感を抱きながらも、ぶらぶらと歩き始めた。古びた看板、軒先に吊るされた風鈴、日差しを遮る赤い日よけ。どこか懐かしさを感じさせる風景が、波留の目に飛び込んでくる。
ふと、一軒の小売り商店が目に入った。「みどり屋雑貨店」と書かれた古めかしい看板が、かすかに風に揺れている。波留は何気なく店内に足を踏み入れた。
チリンチリンと、ドアに取り付けられた鈴が鳴る。
「いらっしゃい」
奥から、か細いが芯の通った声が聞こえてきた。野暮ったい格子柄の前掛けをした小柄なおばあさんが、ゆっくりとカウンターから顔を覗かせる。
「あら、あんた……」
おばあさんの目が、急に大きく見開かれた。波留は思わず身構えてしまう。
「テレビで見たわよ。異世界管理局の記者会見で……」
「え、ええと……」
波留は慌てて周囲を見回した。他に客はいない。おばあさんは、にこりと柔和な笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。ここじゃ、あんたのこと、みんな知ってるんだからさ」
波留は安堵のため息をつく。しかし、次の瞬間、おばあさんの表情が一変した。
「それにしても、余計なことしてくれたねえ」
「え?」
波留は、おばあさんの言葉の意味が理解できずに首を傾げた。おばあさんは、ため息まじりに続けた。
「記者会見なんてさ。おかげで、大変なことになっちまったよ」
「大変なこと、ですか?」
波留の頭の中で「官僚的直感」が働き始める。何かがおかしい。店に違和感。範囲を広げていくと、この町全体が、何かを隠しているような気がする。これまで町に対して「官僚的直感」を使ったことはない。
「ほら、記者たちが押し寄せてくるでしょ。でも、あんたたち、ちゃんと考えたの? この町のことを」
おばあさんの言葉に、波留は息を呑んだ。確かに、異世界管理局の存在を公表すれば、多くの記者が奥多摩に押し寄せてくるはずだ。しかし、実際には一人の記者も見かけていない。
「でも、記者の方々は来てないようですけど……」
おばあさんは、くすくすと笑った。
「そりゃあ、来てるさ。でもね、この町の人間が総出で追い返してるのさ」
「え!? そんなこと、できるんですか?」
波留の驚きの声に、おばあさんは静かに頷いた。
「できるとも。だってね、この町の人間のほとんどが、昔っから深山コンプレックスを守ってる守護者なんだから」
波留の目が見開かれた。守護者。その言葉が、彼の頭の中でゆっくりと意味を持ち始める。
「守護者って……どういうことですか?」
おばあさんは、カウンターの奥から古ぼけた写真立てを取り出した。そこには、江戸時代の装いをした人々の集合写真が収められている。
「ほら、これ見てみな。うちのご先祖様たちさ。深山コンプレックスが生まれたのは江戸時代。そんときは深山藩だった。それからずっと、この町の人間が守ってきたんだよ」
波留は息を呑んだ。江戸時代から? 深山コンプレックスにそんな長い歴史があったなんて、彼は知らなかった。
「じゃあ、この町の人たちは皆……」
「そうさ。みんな守護者の子孫なんだよ。代々、深山コンプレックスの秘密を守り続けてきたんだ」
おばあさんの声には、誇りと懐かしさが混じっている。波留は、自分たちが知らなかった奥多摩の歴史に、圧倒されていた。
「すごい……そんな歴史があったなんて」
波留の声は、感嘆に満ちていた。おばあさんは、優しく微笑んだ。
「そうさ。だから、あんたたちが勝手に公表しちまったもんだから、みんな必死になって守ってるのさ。記者たちを追い返すのも、深山コンプレックスを守るためなんだよ」
波留は複雑な思いに駆られた。異世界管理局の存在を公表したことは正しかったのか。この町の人々の思いを踏みにじってしまったのではないか。
「すみません。僕たち、こんな事情も知らずに……」
おばあさんは、優しく手を振った。
「いいんだよ。時代は変わるもんさ。ただ、急激な変化は良くないってことだけは覚えておきな」
波留は深く頷いた。この町の人々の思い、長い歴史。それらを胸に刻みながら、彼は店を後にした。
外に出ると、初夏の陽射しが波留の頬を優しく照らす。彼は深呼吸をして、奥多摩の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(守護者か……)
その言葉が、彼の心に深く刻まれていった。
ばあちゃんきっと波留くんをおどかしてるんですよ!