指輪
「指輪」
ある日、うちの隣に若い家族が引っ越してきた。定番のタオルを土産に挨拶に来てくれて、喋り出すと止まらないうちの父親と母親が小一時間二人を拘束していたことを覚えている。
そのときに俺も挨拶しろと玄関に呼ばれた。仕方なく顔を出すと、人の良さそうな顔が二つ目に入った。それと同時にムスッとした険しい表情も視界の端に捉える。
もちろん人の良さそうなのが旦那さんと奥さん。険しいのは旦那さんの足下からひょこっと顔を出した小さな女の子だった。
話を聞くとその子は二人の娘さんらしい。気が向いたら遊んであげてほしいと言われたが、然して小さな子供に興味が無く、むしろ苦手としていた俺は、適当に「分かりました」と返事して、リビングにさっさと戻った。
ソファーに腰を下ろし、ケータイでゲームのアプリを起動する。ふと横を見ると、さっきの女の子がこっちをじっと見て立っていた。「何してんの?」と問うても反応はない。まあ近くに小さな女の子が立っていたとしても、ゲームに支障はないので、無視して手元の画面に集中する。
そのつもりだったが、すぐにその子は俺の隣にちょこんと座り、俺の服の袖をくいっと引っ張った。鬱陶しさを隠さずにその子の方を見るが、純粋で透き通った目にはね返される。
遊んでほしいと思っていることは明白だったが、こっちだってプライベートはあるので、右手と脳の半分以上のリソースをゲームに充てながら、適当にちゃちゃっと構ってやった。
なぞなぞに付き合う。オママゴトに付き合う。かくれんぼに付き合う。
愛想なんて欠片もない。正直面倒だったので、はっきりとぞんざいに扱っていた俺だったが、なぜかその子には酷く懐かれてしまって、旦那さんと奥さんに帰るよと言われると、その子は大泣きして嫌がっていた。
そのせいで二人には感謝され、「また遊んであげて」なんて言われてしまった。きっと俺の対応を見ていたらそんな言葉は二人から出てこなかっただろう。曖昧な笑顔を浮かべた俺は、再び適当に「分かりました」と返した。
玄関のドアが閉まるとあの子の泣き声が止む。それでも俺の耳にあの子の泣き声と鈴みたいな笑い声はこびり付いたままだった。
その声を上書きするようにイヤホンをして、爆音で音楽を流す。どうして冷たくて無愛想な俺をあの子は気に入ったのだろう。何を考えているか分からない。
だから小さい子供は嫌いなんだ。
その子が四歳の時、指輪をもらった。お母さんと一緒に公園で取ってきたらしいシロツメクサでできた指輪。茎で輪っかを作ってるだけの簡単な指輪。プレゼントだと言って嬉しそうに手渡してきた。これを自分だと思えということらしい。
植物を身につける趣味はないので、取りあえずもらって、机の上に置いておいた。当然一週間もすれば植物は元気をなくす。しなしなになったシロツメクサを見て、まあいいかと思って躊躇いなくゴミ箱に捨てた。
その子が五歳の時、指輪をもらった。缶詰の蓋とプルタブをそのまま流用しただけの指輪。プルタブをリングにするという発想に驚いた。蓋にはかろうじて読める字で「おにいちゃんだいすき」と熱烈なラブがしたためられていた。
無邪気な笑顔で手渡されたが、端から見たらゴミにしか見えないものを身につける趣味はないので、取りあえず受け取って机の上に置いておいた。しかし蓋から漂う焼き鳥のタレの匂いが嫌すぎたので、次の缶のゴミの日に捨てておいた。
その子が六歳の時、指輪をもらった。おもちゃの指輪。金色の輪っかの上にプラスチックの赤いダイヤモンドが乗っかっていて、安い光を放っている。どうやらその子のお気に入りのようで、俺に渡すか自分で持っておくかで散々迷った挙げ句、渋々といった様子で俺に渡してきた。
俺は別に要らなかったので、自分で持っておけばいいと言ったが、変な意地を張って無理やりその指輪を俺に握らせた。その後すぐに後悔したみたいに目に涙を溜めていた。
その様子が面白くて、おかげで大学受験で張り詰めていた空気が一気に緩んだ気がした。良い気分転換になったとその子に感謝しつつ、指輪は背の低い本棚の上に置いておいた。ただ、受験が終わる頃にはその指輪は本棚の上から消えていた。何かの弾みで本棚の裏にでも転がったのかもしれない。またいつか出てくるだろう。
その子が七歳の時、指輪をもらった。折り紙でできた指輪。細く切った紙をクルッとしただけのリングに、水色の大きなダイヤモンドが乗っかっている。ダイヤモンドのクオリティに嘆息を吐いた俺だったが、聞いてみると学校の先生にちょっとだけ手伝ってもらったらしい。この言い方的に九割方先生の成果だろう。
身につけているとすぐに破れてしまいそうだったので、取りあえず受け取って机の中にしまっておいた。整理が下手くそな俺の机の中は、さながら四次元ポケットのようで、すぐにその指輪は物に紛れてどこかに行ってしまった。
その子が八歳の時、指輪をもらった。またおもちゃの指輪。でも六歳の時にもらったものよりかは幾分かリアルで、一瞬本物と見間違いそうになった。最近のおもちゃは凄い。
この頃から会うときに指輪をしていないと怒るようになった。面倒なことこのうえなかったが、女児を泣かす成人男性というのはあまりにも外聞が悪かったので、仕方なく指輪はいつでも取り出せるように財布にしまっておいた。
その子が九歳の時、指輪をもらった。ファッションで付ける系の指輪。今までの豪華絢爛なやつとは違い、普段使いできそうなやつ。話を聞くと親がこういうのの方が良いと勧めてくれたらしい。
これくらいだったら良いなと思い、受け取って右手の薬指に付けたのだが、左手の薬指に付けろとごねてきた。ついにその場所に指輪をする意味を知ってしまったようだ。さすがにその指だけは避けたかったのだが、その子は許してくれなかったので、仕方なくその子の前でだけは左手薬指に付けることにした。
その子が十歳の時、指輪をもらった。チョコでできた指輪。バレンタインの贈呈品である。
精巧な造りをしていて、どう見てもお店で売っているものだったが、その子は自分で作ったと言い張った。どうしてそんな見栄を張るのかと思っていたが、後々その子のお母さんから話を聞くと、一応自分で作ろうとしたが、大失敗に終わって、こんなものは渡せないということで、お店のものを買ってきたということらしい。
その子的には自作の物を渡したかったのだろう。でもまあ難しいと思う。こんな綺麗な形のものはその子に作れはしない。これは器用さとか技術云々の話ではない。
甘い物好きの俺としては形なんて気にしないので、失敗したやつでも良かったのだが、プライドが許さなかったようだ。まあ来年に期待するとしよう。
その子が十一歳の時、指輪をもらった。リベンジのチョコの指輪。クッキー生地のリングにチョコのダイヤモンドが乗っかっている。リングはなんか楕円だし、ダイヤの形は歪。接着も甘く、俺が手に取ると二つに分裂した。
その子自身も出来に満足していなかったようで、分解した指輪を見て必死に涙を堪えていた。しょうがないので俺は何も言わずにその場でリングとダイヤを囓って咀嚼する。そして「めちゃくちゃうまい」とだけ呟いた。
それを見てその子は一瞬ポカンとした後に、嬉しそうに笑った。子供は機嫌を取るのが簡単で助かる。ちょっとお世辞を言うだけで笑ってくれるのだから。
残りは帰ってから食べた。自分の部屋に俺の無愛想な声が響く。
「うまい」
その子が十二歳の時、指輪をもらった。三度目の正直。チョコの指輪。
結論からして、今回の指輪はよくできていた。形も整っているし、分解することもない。それなのにその子の顔は浮かない表情をしていた。話を聞くと、今回は一人で作るのを諦めてお母さんに手伝ってもらったのだという。誰かに手伝ってもらってばかりの自分が悔しいとその子は嘆いた。
俺はそのお菓子の指輪を三年前にもらった指輪の上から、左手の薬指にはめながら言う。
「メッシだって他の十人に手伝ってもらってゴール決めてるわけだし、総理大臣だっていろんな大臣に手伝ってもらって国を回してるんだ。何なら俺も会社で上司に手伝ってもらってばっかりだ。手伝ってもらうことは恥じることじゃない」
そして左手をその子の前に差し出しながら言った。
「こんなに綺麗に作りやがって。食べるの勿体なく感じちゃうだろうが」
俺が眉をひそめると、その子は泣いているのか笑っているのか分からない顔をした。
その子が十三歳の時、指輪をもらった。久々の普通の指輪。いかつめの格好いいやつ。四年前のやつは見飽きたからと言って押し付けられた。
俺はこのとき既に、いちいち外すのが面倒くさくなっていて、常に左手薬指に指輪をはめている状態で日常を過ごしていた。おかげで既婚者だと勘違いされることもしばしば。その子に文句を言うと「効果ありだね」と言って笑った。何を言っているのやら。
その子が十四歳の時、指輪をもらった。装飾の少ないシンプルなやつ。これじゃあガチで結婚指輪に間違われそうだと訴えたが、その子は聞く耳を持たなかった。
しばらくして浮かない顔をしたその子が「私って結婚できるのかな」と呟いた。役所に婚姻届を出せば誰でもできると答えると、そういうことじゃないって怒られた。
「だって私、結婚指輪もできない出来損ないだよ?」
下手くそな愛想笑いを浮かべてその子が言った。
「別に場所にこだわる必要ねーんじゃねーの? 指なんていっぱい余ってるだろ」
適当に答えたら、その子は「そうだね」と言ってはにかんだ。
結婚か。この子ももうすぐ義務教育を終える。ちょっと前まで米粒みたいに小さかったのに、今では肘置きにしてはちょっと高いくらいまで大きくなった。
出会ってもう十年経つ。もしかしたら十年後は誰かと結婚しているかもしれない。
他人の結婚を想像する前に自分の結婚だな。婚活を決意した俺だった。
その子が十五歳の時、指輪をもらった。五年前からもらい続けている、バレンタインでのお菓子の指輪。五年目なだけあって、売り物と大差ない出来だった。
しかしなぜか本人の機嫌はすこぶる悪かった。投げつけるように渡される。理由を聞いてみるが話してくれない。結局散々ごねた挙げ句勝手に自分から話し始めた。
拗ねたその子がムスッとした声で「知らない女の人と歩いているところを見た」と言った。それを聞いて、多分この前別れたばかりの女のことだなと思った。マッチングアプリで知り合った彼女。過保護すぎるとかいう意味が分からん理由で振られた。
そのときのイライラを思い出して「お前には関係ないだろ」と素っ気なく答えた。するとその子は「なんで最近冷たいの?」と怒りながら詰め寄ってくる。それを適当にあしらって、お菓子の感謝だけ伝えて、俺は家に帰った。
そろそろ俺への幻想も解ける頃だろう。あの子ももう年頃だ。青春真っ只中。誰かに恋をし、誰かに恋されたりする、甘酸っぱい時間。
そんな貴重な時間をアラサーのおじさんに割かせるわけにはいかない。相手になるなんてもっての外。さっさとあの子には現実を見てもらわなければならない。
そのために俺は今日も、かび臭い自室で大きな溜息を吐く。
その子が十六歳の時、指輪をもらった。今までのものと比べて明らかに高価なもの。
高校生になったその子は、友だちの親が経営する飲食店でバイト始めたのだと言った。その初めての給料で買ったらしい。「初めてのバイト代なんて自分のために使え」と言うと「自分のために使った」と言った。「じゃあ渡す相手間違ってるぞ」と言うと「間違ってない」と言った。
俺は溜息を吐いて、その子の方を見た。久しぶりにまじまじと見るその子の顔は、想像以上に大人びていて、一瞬別人かと思った。そりゃそうか。もう自分で稼げる年だ。顔つきも一年で相応の顔になる。
俺はまた溜息を吐いて視線を下に落とした。
「もうこういうの止めろ」
「こういうのって?」
「俺に指輪買ってくるのだよ」
「なんで?」
「無駄だから」
「無駄じゃないよ」
「勿体ないから」
「勿体なくない」
その子は食い気味にきっぱりと言い切った。
どうして分かってくれないのか。淀みないその子の視線に苛立ちが募る。
「どうしたの? もしかしてデザイン気に入らなかった?」
気を遣った愛想笑いを浮かべてその子が言った。その引きつった笑みを見た時、ふと口から勝手に言葉が出た。
「迷惑なんだよ」
「……え?」
「この際はっきり言わせてもらうわ。迷惑なんだよ」
「……なんでそんなこと言うの?」
「なんでって、そう思ってるからだよ」
「な、なんで……」
「俺はお前みたいなガキに興味ねーんだ。それなのに毎年要りもしない指輪押し付けられてさ。迷惑に決まってるだろ。ちょっと構ってやっただけで、勘違いして付きまといやがって。お前のせいで俺の人生損ばっかりだよ。大体ちょっと考えれば――」
そこまで言って、俺は反射的に言葉を止めた。
いつからだろう。きっと俺が気付くよりずっと前からだ。
その子は顔をしわくちゃにしながら泣いていた。声を殺しながら泣いていた。
そういえば今まで泣かしたこと無かったななんて思いながら、俺はボーッと立っていた。
その子は何も言わず、俺の横を通って走り去っていく。
一人取り残された俺は乾いた笑い声を漏らした。
これで良かったのだ。確認するように自分の中で唱える。
何も間違ってない。安心させるように自分の中で唱える。
このまま行けば苦労するのはあの子の方なのだ。あの子は俺と違って若い。干支が一周違うおっさんなんか相手にしてたら、絶対にしんどい思いをする。
絶対に迷惑をかけてしまう。
そうなるくらいならああやって嫌われた方が良かった。
大丈夫。あの子は俺と違って純粋で良い子だ。すぐに同世代の良い人が現れて、あの子を支えてくれるだろう。
俺のことなんかすぐに忘れてくれる。
そう思うと同時に、あの子の泣き顔がフラッシュバックした。
「……どっちが子供なんだか……」
そう呟いた後、俺は笑いながら左手薬指にあった指輪を外した。そしてさっきもらった指輪と一緒にポケットに入れる。
あの子がいない今、もう指輪をする必要もない。これでやっと既婚者と間違われることもなくなる。
万事解決。何も問題は残っていない。
ただ残っているのは、久しぶりに自由になった左手薬指の違和感と胸の奥にぽっかり空いた穴だけだった。
その子が十七歳の時、指輪をもらわなかった。おかげで合コンし放題。恋愛大捗りだった。
その子が十八歳の時、指輪をもらわなかった。おかげで婚活もやりやすい。自分磨きに勤しめて最高だった。
その子が十九歳の時、指輪をもらわなかった。おかげで仕事の調子が良い。毎日充実した日々を過ごしていた。
結構な月日が経った。俺も三十代に突入し、本格的におじさんをやっている。体のあちこちにがたが来ていて、心なしか物忘れも増えた。この前も芸能人の名前が出てこなくて、部下に笑われてしまった。
人間っていうのは、必要のない情報は順次記憶から消していくものだ。
そのはずなのに、いつまで経っても、左手薬指の違和感は消えてくれない。
何かから逃げるように、仕事に打ちこみ続けた俺は、ある日夢を見た。夢というか昔の記憶のフラッシュバックみたいなもの。
それはあの子が初めて家に来たときのものだった。何を考えているか分からない生き物を前に、高校の頃の俺が戸惑っている。その様子が懐かしくて俺は笑った。
すると夢の中のあの子がこっちを向いて俺の傍にやって来る。そして俺の服の袖を掴むと、強引にどこかへと引っ張っていった。夢を飛び出し、白くて強い光に包まれる。なんだか危ないような気がして、あの子を守ろうとしたとき。
俺は目を覚ました。
見えたのは知らない天井。すぐにナース服を着た女性が入ってきて、ここが病院だと俺は悟った。
さっきの看護師さんが先生を連れてきてくれて、取りあえず話を聞く。どうやら俺は朝の通勤中に結構な規模の交通事故に巻き込まれたらしい。それで重症を負ってここに運び込まれて、なんとか一命を取り留めたとのこと。
全くそんな記憶は無いし、急すぎて驚くこともできなかったが、言われてみれば体中痛いし、左腕に関しては感覚が無い。先生の言うことを信じる他なかった。
ボーッと事故の状況を詳しく聞きながら、どれくらい入院しないといけないのかとか、どれくらい保険金下りるのかとか、会社に迷惑かけちゃうなあとか、親に心配かけちゃうなあとかいろいろ考える。こういうときにいつもやってしまう癖が俺にはあった。
それは左手の薬指の付け根を触るというもの。いつもそこには輪っかがはまっていた。それをいじっていたのだが、無くなった今でもその癖は直らなかった。
このときも無意識のうちに右手を左手に伸ばす。しかし左手の感覚が無いので上手く左手を掴むことができない。そのせいで無意識じゃなくなり、俺は顔を起こして視線を左手に移した。
そこで俺の思考は固まった。完全に脳がフリーズした。そうなった理由は視界に入ってきた光景に全て詰まっている。
無かったのだ。感覚とかそういう話ではなく。
左腕が無かったのだ。
どうやら俺は交通事故で左腕を失くしたらしい。その事実を時間をかけてゆっくり理解したとき、案外俺は冷静だった。そっか。だからか。
ずっと消えなかった左手薬指の違和感が、綺麗さっぱり無くなっているのは。
そんなことを思いながら、先生の話の続きを聞いた。
ずっと消したいと思っていたあの違和感がこんな形で消えるとは思わなかった。嬉しいのか、ホッとしているのか、悲しんでいるのか、自分がどういう感情でいるのか分からない。
ただ一つ分かることといえば、消えたのは左手の違和感だけで、胸の奥にぽっかり空いた穴は消えていないということだけだった。
入院生活が始まってから俺はとにかく寝た。現実から逃げるように寝た。起きているといろいろ考えてしまって、それが嫌だった。寝ている間は全てを忘れられるので、俺は夢の世界に閉じこもった。
そんなある日、昼に目を覚ますと左足に不自然な重さを感じた。目を向けると茶髪の女性が俺の左足の上で寝ていた。誰か分からず目を凝らす。するとその女性はムクリと顔を上げて、俺の方を見た。
淀みのない真っ直ぐな視線が俺を射貫く。その瞬間彼女が誰なのか悟った。
四年ぶりに目にしたあの子は、見違えるように大人びていた。少しウェーブの掛かったセミロングの髪。スラッとした綺麗な顔立ちにナチュラルめのメイク。耳にはクローバーのピアスが光っている。
どこからどう見ても大人の女性だった。
その子は何事も無かったかのように「体、大丈夫?」と聞いてきた。俺は無視して質問し返す。
「お前、何してるんだ?」
「さっきまでお兄ちゃんと一緒に寝てただけだけど?」
「そうじゃない。なんでこんなところにいるんだって聞いてるんだ」
威圧的にそう尋ね返したが、その子は怯む様子も無く、堂々とした態度で答えた。
「見返しに来たの」
そう言ってその子は俺の傍まで近付いてきた。
「ガキに興味無いってお兄ちゃん言ったでしょ? だからガキを卒業してきたの。今日が何の日か分かる?」
そう聞かれた瞬間に、すぐ答えが頭に浮かんでしまった。
「お前の誕生日……」
思わず呟いてしまう。それを聞いてその子は満足そうに笑った。
「覚えててくれたんだ。そう。今日で私は二十歳。もうガキなんて言わせないんだから」
そう言ってその子は子供っぽくニシシと笑った。俺はどう反応して良いのか分からず、下手くそな愛想笑いを浮かべる。
「俺は嫌われたんじゃなかったのか?」
「私、嫌いになったなんて言った?」
「あの日、お前のこと泣かせただろ」
「確かにあの一瞬はちょっと嫌いになったけど」
「お前のこと傷つけただろうが」
俺は苛立ちを滲ませながらそう言って歯を食いしばった。それでもその子は穏やかに答える。
「何年好きだと思ってるの? そんなに簡単に嫌いになれるわけないじゃん」
苦笑いを浮かべるその子を見て俺はハッとした。初めてその気持ちを言葉にされ、驚いてしまった。おかげで制御できずに、言葉が口から溢れ出す。
「止めといた方が良い。今ならまだ引き返せる」
「止めないよ」
「俺みたいなおっさんより良い人なんていっぱいいただろ」
「いないよ、そんな人」
「見ろよ、この姿。碌に一人で服も着られなくなったんだぞ」
「服くらい手伝ってあげるよ」
「俺なんかの何がそんなに良いんだ――」
「お兄ちゃんだけだったの!」
その子の涙混じりの叫び声が病室に響いた。ほとんど無意識で喋っていた俺は、その声を聞いて我に返る。その子は目に涙を溜めて、微笑みながら言った。
「お兄ちゃんだけだった。左腕が無い私を見ても、表情一つ変えずに、普通に接してくれたの」
その子はそう言って、左腕があるはずの部分をさすろうとした。そこには不自然な空白があり、その子の右手は左腕ではなく、結ばれた服の袖を掴む。
その子には左腕が無かった。俺が初めて彼女に会ったときからずっと。
「嬉しかった。気持ち悪がったり、怖がったりせずに、ただの女の子として接してくれたのが」
俺はその震える声を聞いて乾いた笑い声を上げる。
「勘違いするな。あれは単純に、お前に一切興味なかっただけだ」
子供は苦手だった。だから脳のリソースを割かずに適当に構ってやっていただけ。その結果その子にはそんな風に映っただけのこと。
お前が見ていたのは幻想だ。そう言い返そうとしたが、その子の笑い声が遮った。
「知ってるよ、私。あのとき、お兄ちゃん、右手でケータイ触ってて、そっちに集中するフリしてたけど、全く右手動いてなかったもん」
でたらめなこと言うな。そう口にするつもりが、言葉がうまく出てこなかった。
「他にも、私がこの体のことで悩んだり、落ち込んだりしてたときは、何も考えてないフリして、いつも励ましてくれたり、大丈夫だって言って寄り添ってくれた」
適当にそれっぽいことを言っていただけだ。その言葉も喉元に詰まってしまう。
これ以上その子に喋らせてはいけない。そう思っているのに俺の唇は震えるだけで、仕事をしなかった。
「そういうお兄ちゃんのさりげない優しさに、私は支えられて生きてきたの」
その子は目に浮かんだ涙を拭い、晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
「だから止めないよ。お兄ちゃんを好きでいること」
その笑顔を見た時、今まで見てきたその子のいろんな表情が、俺の頭の中に流れ込んできた。喜んだ顔、怒った顔、拗ねた顔。構ってほしい時の顔、眠たいときの顔、自慢するときの顔。いつのどんな表情もすぐに思い出せてしまう。
人見知りで負けず嫌いで、素直で心配性で、笑った顔がよく似合う、近所の小さな女の子。
いつからだろう。そこに「大切な」が加わってしまったのは。
彼女は明確にハンデを抱えて生きている。彼女の傍にいる人間は、そのハンデを一緒に支えてやらなきゃならない。その点、俺は彼女と年が離れすぎている。今はなんとか支えられたとしても、後々俺は彼女の余計な重荷になって、負担を大きくして迷惑をかけてしまうのは目に見えていた。
俺は彼女の傍にいる人間としては相応しくない。だから俺は彼女を遠ざけた。彼女にはもっと頼りがいのある人を見つけてほしかった。
それなのに、その子は俺の目の前にいる。無様な姿をした俺の目の前にいる。
俺はどうすれば良いのか分からなくなってしまった。きっと今の俺では、支えるどころかすぐに彼女の負担になってしまうだろう。このまま受け入れて良いわけがない。
このまま感情に身を任せて良いわけがない。
分かっているのに、もうその子を拒む言葉は口から出せなくなってしまった。
「もうお前から指輪もらっても、付けるところ無くなっちまった」
代わりに自嘲気味に笑いながら、そんなことを呟いた。左手を掴もうとした右手は空を切る。かつていろんな彼女からの指輪を通した薬指は、もうそこにはない。
それが今になってとんでもなく寂しく感じた。
視線の先には力なく垂れ下がった入院服の袖がある。ボーッと眺めているとその袖にその子の小さな手が触れた。
「もしかして結婚できなくなったとか思ってる?」
視界に彼女の悪戯っぽい笑顔が入ってきた。
「仕方ないから教えてあげるよ。結婚って左手の薬指がなくても、役所に婚姻届出せば誰でもできるんだよ?」
小さい頃と変わらない、子供っぽい笑みを浮かべて言葉を続ける。
「それに指輪も、付ける場所にこだわる必要なんてないんだよ。指なんていっぱい余ってるんだし、その人たちの中で思いを共有できていれば、それで大丈夫」
そう言ってその子は急に、傍に置いてあった鞄へと手を伸ばした。右手だけで器用に鞄を開けて、中から濃紺の小さな箱を取り出す。
その箱を目にした瞬間に、こいつは本当にバカなんだなと思った。
「だから私からの指輪を付けるところが無くなったなんてことはないんだよ」
そう言って彼女は箱をゆっくりと開ける。
中に入っていたのは、小さなダイヤモンドらしき宝石を冠した立派な指輪だった。
「ごめんね? 久しぶりに渡すから、もっと良いものにしたかったんだけど、大学生だとこれくらいが限界で」
その子は後頭部を撫でつけてはにかみながらそう言った。
何をやってるんだお前は。今日はお前の、人生で一回しかない二十歳の誕生日だろ。こんなことのために、一生懸命働いて稼いだお金使ってんじゃねーよ。もっと使い道あっただろ。
他にやることあっただろ。友だちと遊ぶとか、家族と過ごすとか。こんなおっさんに指輪なんて贈ってる場合じゃないだろ。
もっと自分のこと考えて、自分を大切にしろよ。
いい加減に説教しなければいけない。そう思っているはずなのに、怒りの感情が俺の心に入り込む余地がなかった。鋭い視線を送りたいのに、情けなく表情は歪んだ。
「渡す相手間違ってるぞ」
「間違ってないよ」
「こういうの止めろって言っただろ」
「止めないよ」
「俺なんか選んだら、いっぱい苦労するぞ」
涙が混じった情けない声で尋ねた。その子は目尻を下げて優しく笑いながら答える。
「そんなのお互い様だよ。私だっていっぱい苦労掛けるだろうし、今まで散々掛けてきたじゃん。その分返してくれれば良いよ」
そう言ってその子は俺の右手を掴んで自分の胸の前まで持っていった。そこで手を放し箱から取り出した指輪を手に取った。
もう俺に手を引っ込めることはできなかった。
「だからさ。……いい加減に諦めて、私のこと幸せにしてよ」
指輪が俺の右手の薬指を通す。
その子は今まで一番幸せそうに笑ったのだった。
その子が二十歳の時、指輪をもらった。小さいけど、綺麗なダイヤモンドをあしらった美しい指輪。久しぶりなはずなのに、俺の右手の薬指にピッタリはまった。
きっとダイヤモンドは、見とれるような輝きを放っているのだろう。
きっと彼女は、その輝きに負けないくらい、美しく笑っているのだろう。
どちらも溢れてくる涙のせいで、そのときはちゃんと見ることができなかった。
ある日、彼女を食事に誘った。別に高級フレンチとか予約が取れない寿司屋とかそんなんじゃない。本当はそういうオシャレな店に誘いたいのだが、彼女はいつも落ち着かないと言って、安い店に行きたがる。まあこちらとしては財布の負担が少なくて済むのでありがたいだけなのだが。
というわけで今日も安い焼き肉チェーン店を提案したら、焼き肉は久しぶりだと言って喜んで付いてきてくれた。
二人で焼いた肉を美味い美味いと言って頬張る。相変わらずおしゃべりな彼女との食事は賑やかに進む。会社の上司に対する愚痴とか、最近流行っているドラマの話とか、近くにオープンしたパン屋が美味いらしいとか、そんな他愛ない話をする。昔からそうだが、ほとんど彼女が喋っていて、俺は聞き役に徹していた。
腹をパンパンにした俺たちは、他愛ない話を続けながら車で家に帰る。途中で近くにある公園に寄った。彼女は小さい頃によく来ていたと言ってはしゃいでいた。滑り台にの近くにクローバーを見つけて、徐に四つ葉を探し出す。その奔放さを見て俺は笑った。
しばらくベンチに座りながら彼女のことを見ていた俺は、唐突に彼女の名前を呼んだ。振り向くこともなく「なにー?」と呑気な返事をする彼女。俺はゆっくりと彼女の元へと歩いて行った。
俺が向かってきていることに気付いた彼女は、ふと顔を上げて俺の方を見る。俺はズボンのポケットからあるものを取り出した。
まだ使い慣れない義手でそれを掴み、座っている彼女に視線を合わせるようにしゃがみ込む。そしてそれを彼女の前に差し出した。
驚かしたかったので、本当は何も悟らせるつもりはなかったのだが、俺の義手の扱いが下手なせいで、それを開けるまでに結構な時間を要してしまい、彼女には勘づかせてしまった。ただ、ちゃんと驚いてはくれたようで、彼女は手で口元を押さえて、目を見開いていた。
これだから年をとるとダメなんだ。こんなときくらい格好つけさせてくれよ。あと五歳若ければ、もうちょっとマシだっただろうに。
まあ今更文句を言ったってしょうがない。そんなことを言う暇があったら、今にも泣き崩れそうな彼女のことを支えてやらないと。
俺は二十年前に見たのとほとんど変わらない、彼女の泣き顔を見て笑いながら、それから輪っかを取り出した。
その子が二十四歳の時、俺は指輪を渡した。小さくカットされたエメラルドが、四つ葉のクローバーのように配置された婚約指輪。
やっぱり初めて渡す指輪はこれしかないだろう。
俺はその指輪を彼女の右手の薬指に通しながら言う。
「結婚してください」
その子はくしゃくしゃになった笑みを浮かべて、なんとか首を縦に振ってくれる。
夜の静かで穏やかな公園。その中で月明かりに照らされたダイヤモンドとエメラルド、そして彼女の涙と笑顔は、それはもう、言葉にできないほど綺麗だった。