マニュアル
「おお、佐藤君。首相就任おめでとう」
「ありがとうございます」
「四十歳で一国のトップだもんなあ、やはり凄いね君は」
「全て先生のお陰ですよ」
「はは、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
内閣総理大臣に就任した日の夜、私は山奥の料亭に呼び出された。
「ではこの国の未来に、乾杯」
「乾杯」
私を呼んだのは山田前総理。私は彼を「先生」と呼んでいるが、彼のことを本気で尊敬していたのは彼が総理に就任する一年前までの話で、はっきり言って彼の首相時代の功績は無に等しかった。いやそれどころか自国に不利益となる政策ばかりを推進し、世間からは売国奴の烙印を押されていた。
首相に就任してから、彼は人が変わった。昔の彼はこの腐敗した国を変えようとする意欲に満ち溢れた大変稀有な存在であり、一世代ほど年が離れている私に様々なことを指南してくれたものだった。私にとって父親のような存在でもあり、熱く夢を語り合う友人のような存在でもあった。それだけにこの一年、官房長官として彼の側に立っているのはとても辛かった。何度も政策に異議を申し立てたが、彼はまるで聞く耳を持たなかった。
「今日はな、話があって君を呼んだんだ」
「話……ですか?」
「とは言っても、私から話すわけではないがな」
「え?」
「では彼と交代するとしよう」
「いや、ちょっと……」
制止する間もなく、彼はそそくさと部屋を出ていった。入れ替わるように入ってきたのは黒のスーツを身に纏った長身の若い男性。顔立ちからして同じ人種ではなさそうだった。
「どうも、佐藤さん」
「誰ですかあなたは?」
「うーん、世界の支配者です」
「……は?」
「いや、やはり自分で言うと恥ずかしいですね、ハハ」
彼は恥ずかしそうに笑みを溢した。
「でもやっぱこれ以外に良い自己紹介が思い浮かばないですね、はい。私は世界の支配者です」
不敵な笑みを浮かべながら、彼は小さく会釈した。
「いや……訳がわかりません。山田さんのお知り合いですか?」
「まあ……知り合いっちゃ知り合いですね。そうだ、早速本題に入りましょうか」
彼は席に座るなり、鞄から数枚の紙を取り出してこちらに渡した。
「何ですかこれ?」
「マニュアルです」
「は?」
「これからあなたが首相としてやるべきことを細かく記したマニュアルです」
訝しげに目を通してみると、それは山田前総理が行ってきた政策と瓜二つであり、国を破滅に導きかねないような余りにも酷すぎる内容だった。
「いやいや……こんなの到底受け入れられるはずがないでしょう!というかなぜ私があなたの言うことを大人しく聞く必要があるんですか!」
「嫌ですか?」
「嫌に決まってるでしょうが!俺には政治家になった時からずっとやろうとしてきた政策があるんだ!この国を再び素晴らしい国にするために練りに練ってきた政策が!」
「まあそう仰ると思ってました」
彼は胸ポケットから二枚の写真を取り出し、机に並べた。
「……!」
そこには家の近所の公園で遊ぶ妻子と、一緒に散歩する私の両親が写っていた。
「もしあなたがこれに従わないなら……お分かりですよね?」
にやりと笑いながら、彼はゆっくりと写真を人差し指で撫でた。
「……クズが」
「どうです?従ってくれますか?」
白い歯を剥き出しにしてケタケタと笑う彼は今まで見てきたどんな人間よりも悪魔そのものに見えた。それだけに、こんな悪魔に魂を売るのは何が何でも御免だという敵愾心が胸の奥底から湧いて出た。
「断固拒否する」
「そうですか……」
彼はつまらなさそうな顔をして胸元からピストルを取り出し、銃口をこちらに向けた。
「な……」
「じゃあ自分の命は?惜しくはないですか?」
嫌な汗が全身から滲み出る。だが目の前に突きつけられた死の恐怖を超越するほどに、私の怒りは既に最高潮に達していた。
「撃てるものなら撃ってみろよ。首相が就任直後に消えたとあっては世間は騒然とするだろう。そうなればお前の存在はすぐではないにせよそう遠くない未来に明るみに出るだろうよ」
「ふふ。では紹介しましょう。『佐藤総理』、入って来て下さい」
その瞬間、自分の目を疑った。入ってきた男は私にそっくりの、いや、私その人だった。
「驚いたでしょう。まあ人間のクローンは長生き出来ないんですけど、大して問題はないでしょう。この国の首相はすぐに変わる」
「……」
「しかしあなたは政治家の鑑ですね。まるで前総理のようだ。だからこそこの手で殺すのはとても惜しいですが……止むを得ません。来世でも良い政治家になって下さいね」
「新しい総理、マジで無能だよな」
「期待してただけに本当残念だよ。まあトップが変わったとしてもこんな国の政治なんて何も変わらねえってこった」