2. 婚約破棄
どうしてこんなことになったのだろう。
いずれこうなるのではないかという予感はあった。
違和感は、最初の出会いからあった。
バイオレットは彼女が学園に入学してきた1年前のことを思いだす。
セシリーは可憐であった。
金糸のように滑らなストレートの髪。
大きく愛らしいまるでルビーのような赤い瞳。
触れれば壊れてしまいそうな華奢な体。
小鹿のようなベイビーフェイスはさぞかし庇護欲をそそるであろう。
貴族というより町娘のような気さくな雰囲気で、男女問わず生徒たちから人気があった。
その容姿、性格、何もかもがバイオレットとは正反対であった。
彼女は魔法の才が秀でており、得意とするシドと気が合ったのだろう。
婚約者である私を差し置いて、彼女と過ごすことを優先した。
そうこうしているうちに、シドの心はどんどん離れていった。
いつからか、毎回連れて行ってもらっていたサロンの誘いも声がかからなくなった。
代わりに連れて行っていたのがセシリーだということに気づくのに時間はかからなかった。
あえて気にしていない風でいた。
婚約している事実こそが揺るぎのない絆であると信じていたからだ。
嫉妬に身を焦がし責めたらよかった?
泣いて縋って捨てないでと懇願すればよかった?
わたくしにはわからない。
思い出に馳せている場合ではない。
今はシドに問わねばなるまい。婚約破棄とはどういうことかを。
「どういうことですの、シド殿下」
「君がセシリーに行った数々の悪逆を僕が知らないとでも思ったのか」
悪逆だと? 思わず目を剥く。
わたくしが一体何をしたというのだ。
ああ、まさかあのことだろうか。
あの程度で?
ささやかな抵抗をした。
釘を刺すつもりで言った。
人の婚約者につきまとうのが随分とお好きなようね。
シド様にどこへ行くにもくっついてくなんて随分と学業に余裕がおありですわね。
お相手のいる殿方に四六時中ちょっかいを出すなんて、羨ましいですわ。その図太い神経。
ちくりちくりと言ってやった。
なぜか。シド様への接近はマナー違反の域に達していた。
当然ではないだろうか。
わたくしは婚約者なのだから。
だが、この程度で悪逆呼ばわりされる筋合いはなくってよ。
わたくしは由緒正しい名家フロックハート公爵家の長女。誰であろうと誇りをもって対峙する。
「あくぎゃ……」悪逆ですって、と言いかけたその時――
「ちょーっと待ったぁー!」
突如、被せぎみに場違いな大声が響き渡る。
「悪逆ねえ。彼女に対するこの仕打ちこそ悪逆と呼ばずして何と呼ぶ!?」
ひゅんと軽やかに、目の前に人が現れる。
奇妙な少女が立っていた。
上着はともかく、そのスカートは膝下から素肌をさらしている。(淑女たるもの、そんな短さはあり得ません)
髪は短く、後ろからだと少年のようにも見える。(女性がこんなに短く髪を切るなんて)
相貌は明らかに異国人であった。
「何だ君は」
突然の登場に面食らうシド。
「きゃあアップのシド様最高――じゃなくって!」
咳払い一つ、仕切り直す少女。
「何って、私はバイオレットちゃんの味方です」
「味方って」
「今からドレスを汚した件で責めるんでしょ?」
「あ、ああ」
「わざとワインを零したと言いたいのですね。その証拠に自分の手袋は汚れていないと。」
「その通りだ」
「それって証拠と言えるほどのことですかねー? そんなの掛け方一つでどうとでもなるし」
「なんだと」
「それに代わりのドレスだって用意したんだよ。それを断ったのはセシリー様本人だよね」
ねっと首をかしげる少女。
「は、はい……その通りです……」
委縮したセシリーは小さく答える。
「わざとやったと思ってるならそれは誤解だよ!」
少女の怯むことのない物言いに、シドは苛立ちを隠せない。
「他にもバイオレットがしてきた悪事はある。例えば――」
「要はバイオレットちゃんが気に食わないんでしょ。かわいい自分の想い人をいじめるなんてーって」
物怖じしない少女にちらりと見られたセシリーはびくりと肩を震わす。
「ていうかー、じゃあこの仕打ちはどうなのよ。
公衆の面前で婚約破棄をつきつけて恥をかかせて、これが一国の王子がすること?」
「しかしセシリーは……」
「シド殿下、私のことなどよいのです。そのお気持ちだけで私は幸せです」
大きな瞳を潤ませシドの腕に寄り掛かるセシリー。
「まあ、こう言ってるわけだしさ、大目に見てあげてよシド様」
その態度に聴衆たちが息をのみ、シドは眉をひそめた。
衛兵たちが少女を取り囲む。彼女は少々高慢すぎた。仮にもシドは王太子なのだから。
「げっ。もしかして捕まえようとしてる?」
流石にまずいと思ったのか、後ずさる少女。
このままだと彼女は拘束され何らかの処罰を受けるだろう。
待って。貴女はわたくしの何なの。何が目的で現れたの。
聞きたいことがたくさんあった。
思わず少女の腕をつかんだ。
振り向いた少女はバイオレットに早口で耳打ちする。
「シド様がどんなに酷いことをしたか思い知らそう」
「どういうこと?」
「泣き喚いて!できるだけ悲劇のヒロインを装って」
「そんなこと……」
そんなみっともないことできるものか。
「私を信じて。早く!」
正体不明の異国人の言うことを信じるですって?
衛兵が少女を掴もうとあと一歩のところまで来ている。
やるしかない。
すうーと息を吸い込みありったけの声で叫んだ。
「こ……こ……婚約破棄なんてあんまりですわー!」
わっと両手で顔を覆い、おいおいと泣いて見せた。
厳密には泣き真似なのだけれど。
公の場で泣き喚くなんて淑女としてあるまじき行動ではあるが、やるしかないのだ。
やるならやるで、名演技を見せてやる。
「ずっとお慕いしておりましたのに。
プロポーズを受けた10歳の頃からこの身はシド殿下に捧げるものだと信じて厳しい王妃教育も受けて来ましたのにー!」
悔しさ余ってとばかりにと拳を床に叩きつけて見せる。
周りの人々からの哀れみのざわめきが聞こえてくる。
「王家を支えるべく相応しい人間になるために政治経済の勉強は当然のこと、社交界でも通用するよう常日頃から人脈を築く努力を惜しみませんでしたのにー!」
ちょっと説明口調になってしまった。
「流石にかわいそうだ」
「ずっと一途に支えてきた恋人を一方的にふるなんて酷すぎる」
「それに何もこんな場で言わなくてもいいのでは」
王太子の手前大きな声では言えないが、非難する者もちらほら。
「シド殿下。私もこの行いには疑問です」
1人の娘が意を決したように前に出る。
「婚約とは、家同士で結ばれる契約でもあります。それを一方的に破られるとなれば、それ相応の謝罪と賠償が必要なのではありませんか」
それに――と、付け加える。
「私も第2王子と婚約をしている身。こんな仕打ちは一人の女として看過できませんわ」
その一言に、同意する人々。
今や完全にバイオレットの味方をする空気である。
シドはしどろもどろだ。
「わ、私はただ、セシリーが悲しんでいるのが許せなかっただけで……」
もはや口を開けば開くほど醜態を晒すことになっていた。
周囲の反応は冷めきっている。
「まだ言うか」
「謝罪が先だろう」
「こんな人物が王子だなんて」
側近であろう同世代の青年がそっとシドに囁く。
「シド殿下。この場でこれ以上続けるのは止しましょう」
「しかし」
「王子、この件御父上の耳に入るとなればどう評価が下るのか、ご想像ください」
「うっ……」
この騒動の説明をしろとばかりに、群衆が集まりだす。
側近の青年が慌てて制止する。
「皆様、今回の件、謝罪も含め改めて説明する機会をお待ちください」
わっと周囲が騒がしくなる。
バイオレットの周りにいた人々はシドを取り囲んだ。
少女を捕えようとした衛兵ももはやどうすれば良いかわからず立ちすくんでいる。
先手を打つように兵と少女の前に割り込んだ。
「この方はわたくしの大切な客人なのです。手出しは無用ですわ」
そう言って少女に向き直り頷いて見せた。
二人は夜闇に紛れるようそっと会場から抜け出し、フロックハート家の馬車へ急ぎ入る。
「ふう、危うく捕まるとこだった。助かったー」
少女はぺろりと舌を出し愉快そうに笑う。
「ええそうね。わたくしが庇ってなきゃ監獄行だったでしょうね」
じっと少女を見つめれば、目をぱちくりさせ、へへと頭を掻いた。
小さくため息をつき、改めて聞く。
「貴女一体何者なの」
「あ、えーっとはじめましてバイオレットちゃん。私は鈴木莉緒。リオでいいよ」
不思議な異国の少女は、にこりと笑った。