第20話「もしも」
楓さんはドアを開けたままの姿勢で硬直していた。
三カウントくらいで、じわりと潤んだ瞳から一筋の滴が滑り落ちる。
……たぶん、僕が彼女の涙を見たのはそれが初めてのことだった。
「ご、ごめんなさい! ダメだって言われてたのにいきなり押しかけてしまって……あの僕帰りま……いや、でもこのまま置いていくのは人として……」
途端に狼狽し始める黒兎を目の前にして、やっと楓の硬直は解けた。
頬についた涙の跡を袖で拭いながら、階段を一足飛びに駆け降り、門を開ける。
「あの、だいじょう……」
「大変なのっ!」
「っ! 僕のせいですか……?」
「いえ、それはありがとう」
「それってどういう……やっぱり悪いのは僕ってことなんですね!?」
「とにかく早く来て!!」
そう言って、楓は戸惑う黒兎の手を取った。
ときめきを感じる暇もなく、強引に握らされた手の甲に一粒の水滴が落ちる。
今度は涙ではなかった。
「あ、雨……」
それは頭上の黒い雲から落ちてきた雨粒だった。
楓に引っ張られる黒兎を追い立てるように、雨音が近づいてくる。
二人を飲み込んで玄関扉は閉まる。
彼女らの頭上に立ち込める暗雲はいよいよ濃さを増し、当分晴れる気配は見せなかった。
「ど、どどど、どどどうしよう」
家中を探し回って見つけた体温計がけたたましい電子音を鳴らし、文字盤に写った『38.6』の表示を目にした時の黒兎の慌てようは、それは大変なものだった。
「びょういん、病院に……ああでも連れて行ったら……」
見た目からはなかなか分からないけれど、僕らと蓮音の体は根本的に構造が違う。本物の医者に見せればバレてしまう可能性が高い。
自力で対処しようにも、人間の赤ちゃんがかかる病気の知識なんて僕らにはない。
どちらの選択肢も選べない。
「か、楓さん! どうしましょう!?」
……よくよく考えれば、分かったはずだった。
さっきの焦りに満ちた声色と、涙。
彼女もまた途方に暮れているのだということに。
ただ、不幸なことに、黒兎がそれに気づいたのは楓へと振り向いた後のことだった。
彼女は俯いていた。いつもは強い意志を秘める瞳も今は前髪に覆い隠されて見えない。
「無理だったのかな……」
「楓さん?」
「……無理だったんだよ、最初から」
不自然なほどに彼女の声は冷たい。それは断じて、黒兎の知る楓の言葉ではなかった。
「……それは本気で言ってるんですか、楓さん」
「……」
黒兎は混乱していた。蓮音の置かれている状況にも、楓の異変に対しても。
しかし、彼女の口にした“最初”がいつのことを指しているのか、それはすぐにわかった。
自分と楓と蓮音にとっての“最初”。それは僕たちが出会ったあの日をおいて他にない。
「どうして……」
「……」
「どうしてそんなことを言うんですか!!」
「じゃあ、もしもこの子が死んじゃったらどうするのよ!! 私たちのせいで!」
ほとんど叫びのような声だった。
彼女は怒っていた。何の、誰への怒りなのかは彼女にも分らなかったけれど。
「……とにかく、ここで言い争っていても仕方がありません。何かいい方法は」
黒兎は自分に言い聞かせるように呟く。
「……A市なら、人間のお医者さんもいるはずよ」
その瞬間、冷静であろうとした彼の努力は無駄になった。
「何を……言っているんですか……?」
……ありえない。
「そんな簡単に諦めないでくださいよ!!」
「……他にどういう方法があるっていうの」
もしかすると、彼女の言葉は正論なのかもしれなかった。
初めに蓮音を育てようと提案したのは彼女で、時間やお金、あらゆるものを最も多く捧げたのも彼女だろう。
間違いなく、彼女はこの地球上でもっとも蓮音のことを想っている人間の一人なのだから。
……けど、それは僕も同じ。僕も蓮音の父親だ。楓さんの心の奥と気持ちは同じはずだ。
……僕はまだ諦めきれない。
「……方法は僕が探す」
俯いたままの楓の前で、黒兎は立ち上がった。
「また、元気な蓮音と一緒に笑って暮らせる方法を探してくるから」
「探すって、どこへ……」
「見つけたら、また連絡する」
楓が伸ばした手は、むなしく空を切る。
傘立て、玄関扉、門が順番に音を立て、黒兎の姿は風のように雪見邸から消える。
広すぎる一軒家には、伸ばした腕をだらりと降ろした一人の少女と、顔を赤く染めた赤ん坊だけが残された。
◇
雨音だけがやたらと大きく聞こえる部屋の中、みたび楓は端末を握っていた。
発信ボタンをタップすれば、蓮音を治せる医者の元へと連れていける。
……けれど、その代償に蓮音と暮らすことはできなくなる。
たった数分前に自分から提示した選択肢。
いくら機械音痴でも間違えようのない指先一センチが、どうしても縮められない。
「っ、はぁ……」
楓はソファの上に端末を放り投げ、息を吐いた。
『元気な蓮音と一緒に笑って暮らせる方法』
それが一番良いなんてことは言われなくても分かっている。
ただ、今の楓はそれを無邪気に信じることができない。
そんな最善なんて、どこにもないかもしれないのだ。
ただ、存在するのは諦めと敗北の次善策だけ。
楓は自分が嫌になりそうだった。
いや、もしかすると、ずっと前から嫌いだったのかもしれない。どちらも選ぶことができず、ただ何もしないままここにいる自分自身が。
「そうね、もともとこの子を拾った時も——」
◇
黒兎は走っていた。
一応、傘は差していたけれど、雨は一層勢いを増し容赦なく傘の布地をすり抜けてくる。
「こんなことなら、昨日みたいにレインコートにするんだったかなぁ」
ボヤキを漏らしつつ、少し傘を後ろに倒して、曇天の空を仰ぐ。
正直、当てはほぼなかった。しかし、彼の足取りに迷いはない。
「っ!」
目の前の歩道を一台の車が横切った。大型駐車場へと入っていく乗用車を横目に、彼もその駐車場を横断するようにして、巨大な建物の方へと向かっていく。
黒兎は可能性の高い当てを持っていなかった。ならば、どうするか。彼の取った行動はシンプルなものだった。
当たる可能性が低いなら、数をこなせばいい。
「……よし、まずはここからだ」
足で稼ぐ。今は動けない相棒の代わりに。
「……待ってろよ、蓮音」
今が、二週間のストーキングの経験を生かす時だ
◇
楓の両親は幼いころから共働きで、家を空けることが多かった。
楓は当時の両親の顔より、ベビーシッターの顔をよく覚えている。両親の誕生日を祝ったこともなかったから、実は、高校生になるまで親が何歳なのかも知らなかった。
けれど、楓が特別不幸せな幼少期を過ごしたかというと、それは違う、と、楓自身は思っていた。
少し日取りが前後することはあっても、お父さんは必ず自分の誕生日を祝ってくれたし、三日以上家を空けた時は必ずお土産を買ってきてくれた。ほとんどはセンスが合わなかったり、子どもには難しいものだったりとどこかズレていたけれど、それでも嬉しく思っていたような気がする。
時が流れ、父が転職して一層忙しくなった後も、楓は父親を嫌っていたわけではなかった。
……少なくとも、あの日までは。
お父さんに新しく家ができた。
父親自身も驚いていたけれど、それが楓にとっても急な話であることには変わりがなかった。
『一緒に住まないか?』
……今思えば、その時の父の言葉も、半分は冗談のようなものだったのかもしれない。
二人が父の新しい家で同居するには、あまりに問題が多すぎた。
父は説得の言葉も口にせず、拒む楓に新しい家を用意すると言った。
『多分すぐに帰ることになると思うよ』
『別に、すぐに帰らなくてもいいよ』
……その時既に父がA市の移住計画とアンドロイド生産工場の一時閉鎖を知っていたという事実を、楓が知ったのは、引っ越しと転校の手続きが全て終わり、彼女が新しい高校に通い始めてからの事だった。
それから、楓の意識は大きく変わった。
今も、雪見邸の開かずの間には、荷ほどきされないままの段ボールが埃をかぶっている。
そして、父親に関するあれこれを、未だ彼にも言えずにいる。
「……これじゃ、蓮音を拾ったこと、当てつけだと思われても仕方ないよね……」
『——誰でも良かったってことじゃない?』
意図したわけではないはずだけれど、昼休みの彼女の台詞は楓の心を衝いていた。
自分の証明に、父への当てつけ。つまりは楓のわがまま。
そのわがままが、蓮音、楓自身、そのうえ黒兎までをも苦しめている。
「(……どうして、私のわがままのために……望月君)」
……私は、ソファ上の端末に手を伸ばす勇気さえ持っていないのに。
◇
『はぁ? そんなの私が知るわけないでしょ。バカなの? お兄ちゃん』
「……そうだよな。お前が知ってるわけなかったよな。ごめんな、いきなり連絡して」
『お兄ちゃんにそういう言い方されるとなんかムカつく。あと連絡するときは、電話じゃなくてメッセージにしてよね』
「それじゃ」
『あっ、ちょっと! まだ、どうしてそんなこと聞いたのか理由を説明してもらってな』
黒兎は一方的に通話を終了し、すぐに次の連絡先を探し始める。
ベビー用品店の店員から始まり、両親、友人たち、妹ととにかく伝手のある人に連絡を取り続けているけれど、一向に有力な情報は掴めない。
雨に濡れた端末の画面を拳で拭う。何の気休めにもならない行為。
「あ、そういえば……」
今更ながらに、黒兎は気づいた。今、端末を支えているのは右手、そして画面を拭いたのは左手。どちらもふさがっている。
「……傘、置いてきちゃった」
おそらく最初に向かったお店に忘れてしまったのだろう。もう服の色がすっかり変わってしまうくらいにずぶ濡れだ。
「……でもこれはこれで走りやすいかも」
しかし、彼は進む方向を変えずに走り続ける。同時に、次の連絡先を呼び出し、端末を耳に当てた。
「もしもし、呉羽先生ですか……」
◇
窓を叩く雨の音と、苦しげな寝息。眠る蓮音のために明かりを消した部屋は、金ヤスリのように楓の精神力を削る。
良くない想像ばかりが神経回路を巡り、次第に悪夢と現の境を溶かしていく。
——もしも。
このまま蓮音が目覚めなかったら。
蓮音が自分の元から離れてしまったら。
——もしも。
望月君がここにいたら。
それとも、望月君が来なかったら。
——もしも。
あの日の私が間違っていたのだとしたら——
その時、電話が鳴った。
楓はとっさに震える端末を手に取った。あんなにも遠かったはずの端末を。
『——楓さん!』
彼女の連絡先を知る者は少ない。聞こえて来たのは予想内の人物の声。
安心する声。
『今から学校まで来てください! 蓮音と一緒に!』
◇◆◇◆◇
「次回予告のコーナー」
……………………………………。
………………………………。
…………………………。
……………………。
………………。
次回、第21話「痛み」
その感情の行く先は、彼女の横顔が知っている。




