爆音の後
アタッシュケースにありったけの金を詰め込んで、私はピアノバー『エスティント』を訪れた。ごく普通の会社員であった自分には似合わない高級感あふれるおしゃれなBARだった。カウンターの後ろにはずらりとこれまた高級な洋酒が並べており、店の中心にはグランドピアノが鎮座していた。
そのグランドピアノでドレスを着た東欧美女が優雅にショパンのエチュードを弾いていた。まだ客があまりいないので、肩慣らしに弾いているのだと分かった。
私は周りをきょろきょろと視線を泳がせていた。ここに伝説の殺し屋であり爆弾魔である『dead end』が居るはずだ。
「お客様。当店は初めてですか?」
なかなか席につかない私を見かねたのか、若いバーテンダーが声をかけてきた。にこやかに笑う男性に普段の心理状態の私なら好感を抱いたはずだ。
「ええ。初めてなんだ。だから何をすれば良いのか分からなくて……」
「それでは、カウンターはどうでしょうか? お好みに合わせたカクテルをご提供させていただきますよ」
私はお酒を呑むためにここに来た訳ではないのだけれど、ここにいても不審に思われてしまう。私は了承してカウンターに付いた。
「メニューです。お好きなものをお選びください」
手渡されたメニューには見慣れない名前がたくさんあった。私は顔を赤くしたり青くしたりしながら、見ていると――
『dead end』と書かれた文字を見えた。しかも値段は書いていない。
「こ、この、『dead end』をもらえないか……?」
若いバーテンダーはにこやかに笑って「分かりました。少々お待ちください」と店の奥へ下がっていった。
まさかと思うが、かの有名な殺し屋がおつまみや酒のように注文できるとは思えなかった。しかし、あの『狐』の言うことを素直に聞くならば、行けば分かるらしいが。
「お待たせしました。当店の支配人の尾長と申します」
若いバーテンダーの代わりに出てきたのは老人だった。しかし素人目に見てもよく鍛えられた肉体の持ち主だと分かる。気配が違うのだ。
「もしかして、あなたが……」
「違います。わたくしはただの支配人ですよ」
好々爺といった感じだが、隙がまったくなかった。
「どなたの紹介でこちらへ? まさか『戌』ではありませんね?」
「いえ、『狐』の紹介です」
尾長は「なるほど、そうですか」と一人納得していた。
「それではしばらくお待ちください。『dead end』と話し合えますので」
「ここでですか!? それは困ります……」
私は焦ってしまう。いくらなんでもこの場で話すとなると人目が多すぎる。私の『依頼』は殺し屋に頼むのだから当然――
「ご安心を。この場に居る者全て、『殺し屋』ですから」
にやりと笑う支配人の尾長。それに私がゾッとした瞬間。
「あなたが俺の依頼人ですね。初めまして、里中さん」
名乗った覚えのない私の名を呼ぶ女性の声が後ろからした。振り返るとそこには、先ほどピアノを弾いていた東欧美女が立っていた。いつの間にか、演奏が止んでいたのに気づかなかった。
「俺はジナイーダ・マクシモヴナ。『dead end』と呼ばれている殺し屋です。よろしくね」
これが全てを失った私こと里中と、全てを殺し終わらせる女、『dead end』との出会いだった。
「さっそくだけど、依頼を聞きましょうか」
世間話もせずに用件に入る『dead end』。にこやかに笑っている。私は内ポケットから写真を取り出した。
「この男を殺してほしい。私の妻と息子を殺した男だ……!」
写真の男は軽薄そうで頭を金に染めている。耳にピアスもしていて、いかにもアウトローな人間だと窺える。
いや、アウトローなんかじゃない。こいつは法によって守られている。
「こいつの名は?」
「菅原道樹という」
「ふうん。それじゃあ一応経緯を聞きましょうか」
流暢な日本語を操る『dead end』。多分、日本人ではないだろうが、ここまで上手に喋るのは、もしかして日系ハーフなのかもしれない。彼女も金髪で色も白いが、目だけは黒い。だからなんとなくそう思った。
「こいつは私の妻と息子を轢き殺したんだ! だけど、その罪は同乗していた自分の手下に着せて、自分は悠々と暮らしている! それが許せないんだ!」
私は万感の思いでそう伝えると『dead end』は「なるほどねえ」と興味深そうに頷いた。
「自分で復讐を考えなかったの?」
「ああ、考えた。しかし奴の実家は警察関係者で手出しできなかった。それに奴の近くには『護り屋』が居て、外でも手出しできなかった」
『護り屋』という言葉を聞いて、『dead end』は笑みを止めた。
「その『護り屋』の外見を教えなさいよ」
「大男でくすんだ緑のコートを着ている。遠目から見たからそれしか――」
すると『dead end』は獰猛な獣のような笑みを見せた。
「あの不愉快な『グリーンコート』が居るとは、面白いわね」
そして『dead end』は私に「報酬はそのケースの中?」と訊ねた。
「引き受けてくれるんですか?」
「報酬の多寡を見てからね」
私は躊躇しながらもケースを開けた。私の稼いで貯めた金、一千万に亡くなった二人の保険金の二千万。計三千万がケースの中にあった。
「三千万で足らなかったら、また働いて返す。これで引き受けてくれないか?」
『dead end』はにやりと笑って「充分よ」と応じた。
「それでは今から殺しに行きましょう」
「は? い、今からですか?」
「殺しは急げって言わないかしら? まあいいわ。少し待ってて。準備してくるから。車を出して。今、車検でないのよ」
殺し屋でも車検に出すのかと驚きつつ、私はケースを『dead end』に渡して、奥のほうへ向かう彼女を見送ってしまった。
「話は済んだみたいですね」
尾長支配人がこちらにやってきた。私は「あ、ありがとうございます」と頭を下げた。
「構いませんよ、里中さま」
「……どうしてあなたも彼女も私の名前を知っているのですか?」
すると支配人はにっこり笑った。
「ふふふ。『狐』につつまれた顔をしていますね。まあ化かすのは狐だけではなく、人間同士でも行なわれていることですよ」
外で待っていると、『dead end』は赤いロングコートを着て、大きなキャリーバックを持ちながら、私の車に近づいてきた。
「いえ。それほど待っていません」
「あっそう。それじゃあ行きましょう。菅原の家に向かって」
私と『dead end』は車に乗り込んだ。ファミリー向けの大きな車だった。もしも息子が大きくなっても乗せられるようにと買った車だ。
「いきなり敵の家に行くんですか?」
シートベルトを締めながら、馬鹿みたいに分かりきっていることを訊ねる私。『dead end』は助手席に座り、文庫本を取り出した。『ルドルフとイッパイアッテナ』と書かれている。
「不愉快な『グリーンコート』と直接対決ができるのよ? 急ぎましょう」
訳の分からないことを言う『dead end』。私は知らないほうがいいと思って車を発進させた。
「ねえ。この本読んだことある?」
『dead end』がひらひらと本を動かしている。私は「いや、読んだことはない」と答えた。
「日本人のクセに?」
「欧米人の聖書じゃないんだから、読んでなくても当然だろう」
「はっ。そのとおりね。でも俺は猫が登場する本が好きなの。夏目漱石の『我輩は猫である』は至高よ」
生憎読書を好む人間でない私にはピンとこない話だった。
「まあ、そんなことはどうでもいいわね。あなたは生きたくないでしょう? むしろ死にたがっているから」
私は答えることができなかった。
菅原の家に着く。周りにはずらりとボディーガードが並んでいた。どうやって殺す気なんだろう?
「里中さん。しばらく車の中で居てね。すぐに終わらせるから」
そう言って彼女はキャリーバックから小さいペットボトル程度の筒状の何かをたくさん取り出して、自分のコートの中に仕込んでいる。
「……一体何をする気なんだ?」
「見てて。今からあなたのために俺があいつを殺してやるから」
魅力的な笑みを浮かべて、車から離れる『dead end』。そしてまるで散歩するようにボディーガードだらけの菅原の家に向かって――
筒状の物体を投げつけた。
どおおんと轟音が鳴り響く。思わず顔を伏せてしまう。私は恐る恐る顔をあげた。
その場に人間は居なかった。人間の破片らしきものが散らばっていた。
私は思わず、ドアを開けて地面に吐き出してしまう。
「うええええ!」
手段を選ばない殺し屋だって聞いていたけど、まさかそこまでやるなんて!
私は鳴り響く爆音を聞きながら、とんでもないことをしてしまったと後悔していた。
しかしどうしても菅原を殺したいんだ!!
「ふっざけんな! なんなんだあの女は!!」
罵声をあげて出てきた人間。私は依頼人だと悟られないようにこっそりと窺った。
しかし、私は、その男を見てしまった。
「今は逃げましょう。あいつには常識が聞かない」
先導するのは緑のコートの男。続いて数人の人間が続く。
いやそんなことはどうでもいい。
あいつは、あの男は。
「ちくしょう! 誰だあんな女雇ったのは! ぶっ殺してやる!!」
私の妻と息子を殺した張本人。
――菅原だった。
「うおおおおおおおおおお!! すがわらああああああああああああああああああ!!」
私は殺意に支配された。車を動かし、菅原を轢き殺そうとする。
今しかない。このタイミングを逃したら。
アクセルをベタ踏みして菅原に向かう。
驚愕する菅原。
私は満面の笑顔を見せる。
「――依頼人には手を出させない」
車は急に止まれないはずなのに、まるで勢いのなくなったように急停車する。
信じられない光景が目に入った。
緑のコートの男が車を両手で受け止めている。
尻餅をついた菅原は怪我一つしていない。
ば、化物だ……!!
「流石護り屋だねえ。俺も流石に関心しちゃうわね」
『dead end』の声がしたと思ったら。
車と菅原の間に、筒状の物体、爆弾が投げ落とされた。
そして閃光と轟音が鳴り響き。
辺り一面は破壊された。
それは私の車と私自身も例外ではなく。
最期に思ったことは。
妻と息子の笑顔だった。
「はあ。また依頼人殺しちゃった。まあいいか」
『dead end』は笑顔のまま呟く。
「貴様はやりすぎだ。いつもこうなる」
特殊な材質でできており、完璧な防御力を発揮するコートを身に纏っている『グリーンコート』は愚痴りながらも、自分の依頼人が粉微塵になってしまったのを確認した。
「あら? あんたも生きてたか。死ねばいいのに」
「自分の命も護れない人間が護り屋などできるか」
「それで? あんたどうする? 復讐する?」
『dead end』は愉快そうに『グリーンコート』に訊ねた。
「殺し屋に殺し合いしろって? それこそふざけるなだ。そんな危ないことはできん」
「あっそ。つまらないわ。俺も依頼以外の殺しはしないしね」
『dead end』はその場を去ろうとする。その背中に『グリーンコート』は言葉を投げかける。
「依頼人をわざと殺すのはやめろよ。知っていたはずだ。復讐者が目の前に標的を見つけたらどういう行動を取るのか」
「俺は知らないわよ。人の心なんて」
そして『dead end』は振り向き、妖艶と残酷を混ぜ込んだ笑みで『グリーンコート』に言う。
「俺は貴様を殺す。何が起きても、俺の目前を誰が妨害しようとしても……俺は貴様を殺す」
「…………」
「もしもあなたを殺すように頼まれたら、遠慮なく殺すわよ」
こうして全てを終わらす殺し屋、『dead end』は去っていった。
爆音の後に残されたモノ、それは静寂だった。