恋
「いうんかしなとたっ……確かに使う回数は多いような気がします」
ひらがなを舌足らずの片言のように話す夜爪を前にして、北川は失笑とも微笑ましくとも取れる表情を浮かべながら、目の前の資料に指をさしていった。
「今までにそんなこと、考えたこともなかったですがね。日記というか文章を書いていくとなると、ひらがなの中で使う頻度の高いもの低いものが出てくるんです。個人の統計ではありますが、ネットに載っていたこのひらがな頻度表を使って、積み木を発注する数を決めていこうかと思います。あと、『まる』や『てん』などの句読点なんですが、本来ひらがな積み木には存在しませんから、出来なくはないようですが、特注品となってしまうので、値段もそれなりに。しかも、使用頻度も高く、ヘタするとひらがなより多くなってしまうので、夜爪さんにこだわりがなければ、使わない方向でどうかなと思っているんですが」
「そうですね、無くても良いかな。文章が書ければ、それで」
「小さい『っ』や『ょ』や、『が』などの濁音や『ぱ』などの半濁音は用意できるそうです」
夜爪が北川の自宅で、机に広げてある数枚の資料に、順に目を通していく。
「足を崩してください」
正座する夜爪に最初に声を掛けたのが、この言葉だった。今は北川の言葉通りに横座りをしているので、身体が少し傾いている。その角度は、細っそりと長い彼女の首の左側のラインを滑らかに強調している。そして、その線はホワイトのブラウスの襟の中へと滑り込んでいた。
そして、薄オレンジ色のふわりとしたスカート。シンプルな服には、清々しい透明な美しさがあった。けれど、中身もそれに劣らず、いやそれ以上に。
「北川さん、エアリアルルームにひらがな積み木を使って日記を創るという案なんですが……」
北川は、はっと我に返り、慌てて言った。
「あ、はい、何か?」
「バカみたいなことをと、思っていらっしゃるでしょうね」
夜爪が自嘲とも取れる笑みを浮かべている。
「別に直ぐにも死んでしまうという訳ではないし、こんな無駄なこと、」
そこまで言い掛けて、はっと顔を上げ、リビングの方をちらっと見た。彼女が「死」という単語を使ったことを、アイに聞かれたのではと懸念した様子だった。北川も振り返ったがアイはいない。中からガチャガチャと音がしているのをみると、どうやら倉庫部屋でまた玩具を引っ張り出して遊んでいるようだ。
「そんなことはありませんよ」
遠慮がちに言うと、彼女は目を伏せた。
「この話をしたら、弟が笑っていました。何をやらせてるんだって、半ば呆れて。そうですよね、こんなことを依頼するのは、きっと私が初めてでしょう」
「まあ、そうですけど。でもこれは僕の提案でもありますから、僕も同じくおバカってことになりますね」
次には、そう遠慮なく言った。すると彼女は顔を上げて、あははと声を上げながら、ごめんなさい、と笑った。
その笑いには、純粋に可笑しくてたまらないといったような要素が見られて、北川は嬉しく思った。こんなにも屈託無く笑う彼女の笑顔を見られるとは。以前は見本のような笑顔と思っていたが、今回のそれは何か暖かいものが宿っているように見える。
「そういえば、この前のチョコレートケーキが凄く美味しそうだったので、私も作ってみたんです」
カバンと一緒に置かれていた紙袋をガサガサと音をさせて、中から箱を取り出す。机の上に置くと、夜爪は続けて言った。
「上手に出来ているか分かりませんけど、良かったらアイちゃんと食べてください」
そう言うと同時に、倉庫部屋のドアがガラッと開いて、アイがバタバタと飛び出してきた。
「ケーキっ‼︎」
机の横に滑り込んできて、手を伸ばして箱を引き寄せる。
「こらっ、アイ! お客さまの前で失礼だぞ」
北川の叱責にも動じずに、アイは箱を開けて中を覗き込んだ。
「わあ、おいしそう」
「この前、アイちゃんが作っていたケーキよりは、美味しくないかも」
「そんなことないよ。だって、いいにおいがするもん」
箱の中に顔を埋めて、アイが鼻で息を吸い込む。
「こういうの、初めて作ったの。もし美味しくなくても勘弁してね」
「パパ、食べたい、食べたいよう」
北川はアイと夜爪の顔を順に見たが、そのまま夜爪に釘付けになっている自分を頭の中で諌めながら、アイの頭に手を置いて言った。
「じゃあ、お茶淹れる。夜爪さんも一緒にどうぞ」
立ち上がってキッチンへと向かう。そこで、そう言えば、と思い出したことを口にした。
「そうそう、夜爪さんは誰かのご紹介で、うちに?」
夜爪が、頬づえをついてアイと話していた顔を、北川へと向ける。
「はい、弟から北川さんのことを聞いていました。弟は、滝川と言います」
そこでぶわっと震えが走った。
「あ、じゃあ、あのNNPの」
「はい、その節はお世話になったようで」
駆け落ちした若社長を思い出す。途端に、脳に苦味が広がっていく。
「そうでした、か」
北川は、やっとの事でそう言うと、踵を返してキッチンへと向かった。この苦い思いが、彼女の作ったチョコレートケーキで上書きされればいいのにと思いながら、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。
✳︎✳︎✳︎
「そういやあ、姉ちゃんが居るって言ってたなあ」
「言ってたなあ、じゃねえよっ」
久しぶりの休日が合い、珍しく大谷と肩を並べて、カウンターでビールを飲む。北川はこの日の夜、アイを大谷の家族に任せて、大谷の家の近くの居酒屋へと足を運んでいた。
大谷の二人の娘が、アイを大層可愛がってくれているお陰で、北川はたまにこうして大谷と飲みに行く機会を得ていた。中学生の娘は、妹が生意気で可愛くないと言って、アイの世話を焼いてくれるし、まだ小学生の娘は妹が欲しかったと言って、アイをこねくり回している。一人っ子のアイも、大喜びで二人の後をついて回っている。
北川は、突き出しで出された枝豆を、口に放り入れながら酒の勢いもあって、乱暴に言った。
「お前のせいで俺はなあ、」
「俺のせいじゃないだろ。良いじゃん、どんなヤツだろうが、お客はお客だ」
「うるせえ」
そしてまた、いつものパターン。
「美人なのか?」
「ああ、」
「独身?」
「いやあ、分からん」
「確認しろ」
「指輪はしてない」
「ちゃんと確認しろ」
「でもさあ、姉弟で名前が違うんだよ。名前がなあ」
「結婚してるな。いや、分からんぞ、別居ってこともある。確認しろ」
「それしか言えねえのかよ」
北川が枝豆の皮を皿へと放った。それを横目で見ながら大谷が、焼き鳥を口に入れて串を引く。
「親が違う、とかあ?」
大谷が思いの外、軽く言う。
「そんなわけあるか」
それに倣って、北川も軽く答えた。そして、大谷が一呼吸置いてから、聞いた。
「今って、若社長どうしてんの?」
「お前が知らないのに俺が知るわけないだろ」
「俺は仕事上の付き合いしかしてなかったからなあ。姉ちゃんに聞いてみてよ」
「聞けるか、バカ」
軽妙と言えるやりとりを、二時間ほど続けてから、大谷がぽこんと出ている腹をさすりながら言った。
「そのチョコレートケーキはうまかったのか?」
「ああ、うまかった。アイも気に入っていた」
「じゃあ、申し込め。結婚生活、うまくいってねえかも知れねえじゃん」
「うおいっ、お前のその寒みい感覚、どうにかしろよっ」
彼女の持病などの個人情報は、幾ら仲の良い大谷にも話せない。夜爪のことを色々と話して大谷にでも相談したいのに、それが叶わないことに、北川は重い荷物を背負わされたような気持ちになって、気分が一層暗くなった。家まで送ってくれた大谷の細君に恐縮しながらお礼を言い、眠ってしまったアイとそんな暗い気持ちも一緒に抱きかかえて、家へと入った。
✳︎✳︎✳︎
「北川さんは、サンタさんか何かですか?」
若輩者の自分が言うのも何だが、この人懐っこい童顔が功を奏して売り上げが伸びているんだな、そう北川は頭の中で思うと、受け取った伝票にサインをする。二度目に紹介してもらった下請けの玩具工場の社長が、ニコニコと問うてくる。
「あはは、僕がサンタなら娘も大喜びですけどね。さすがにプレゼント全部がひらがな積み木だと、怒られますよ」
大量注文と今後の追加注文の可能性を取引材料にした上で、大幅な値下げに成功して、北川はこの取引に心底満足していた。けれど北川がそう思う以上に、相手側も満足している様子が、端々に見て取れる。
規模は大きくないが、誠心誠意を地でやっているような工場だと、大谷が賞賛していた。かたわらに立つ工場長が、社長の隣で微笑んでいるのを見て、その意味を知る。
「大谷さんの紹介だったので、これはクセのある方がいらっしゃるぞと思って構えていましたから、意外でした」
「大谷のヤツがご迷惑をお掛けしているでしょう」
「いえ、そんなことは。あ、いや、たまに無理をおっしゃることもありますけど」
「同意見です」
社長と工場長は一通り笑ってから、「では、商品は宅配業者に任せましたので、届きましたら内容を確認していただけますか? 間違いがあってもいけないので」と、北川を送り出す。
「確認しましたら、またご連絡します。ありがとうございました」
頭を軽く下げ、車に乗り込む。携帯を取り出して、夜爪の名前を検索したところで、指を止めた。
(……商品がうちに届いてから連絡すれば良いかな)
思い直し、待ち受け画面に戻して、ポケットに突っ込んだ。
アイが驚くぞ、そんな量の積み木が届く。
(夜爪さんも、喜ぶかな)
そう思ってから、これは仕事と、頭を切り替えると、家へと帰った。