生きた証を遺すこと
夜、眠れない日々が続いていた。夜爪の件で幾つか案を捻り出していたのだが、仕事の内容を考えるというより、夜爪自身のことを考えると、なかなか目が冴えてしまって眠れない。
(直ぐに死ぬとかじゃないけど、かえってそういう方が、将来の不安を煽るのかも知れないな)
余命宣告された老人の時には、何か吹っ切れたものを感じた。覚悟を決めた、そんな力強さがあった。
けれど、彼女には。
力強さもなければ、弱々しさもない。あるのはあの、見本のような笑顔。何も宿りはしない、空虚とも言える笑顔。
チョコレートケーキを褒められて、嬉しそうにしていたアイでさえ、彼女が帰る際にはもう、北川の背に隠れて出てこなかった。きっと、自分も感じている、夜爪のどこか一歩引いたような感覚が、アイにも伝染したのだろうと思う。
(彼女の希望を叶えることは、なかなか難しそうだ)
頭を悩ませるような、難題。
北川は隣でぐっすりと眠っているアイの額に手を伸ばして、その体温を感じるようにそっと押さえた。他人の体温は、人の眠りを誘う。
夜爪にも、隣で眠る人がいるのだろうか。
北川は、天井を見つめていた眼を瞑り、アイの寝息に耳を傾けた。
✳︎✳︎✳︎
朝、起きると隣にアイが居なかった。
(うわ、アイのベッドで寝ちまったか)
いつもなら、アイが眠った後、残った仕事を片付けてから、和室に布団を敷いて寝るのだが、疲れている時などは、添い寝でそのまま眠ってしまうことも少なくなかった。
(珍しいな、もう起きてるのか?)
いつもは大音量の目覚ましでも起きることなく、いつまでも寝汚く眠りほうけているのに。北川は慌てて、階段を降りていった。
すると、キッチンにもリビングにも見あたらない。
「アイー、どこに居る?」
トイレかと思い、廊下の突き当たりにあるドアへと向かって声を掛けた。
「ここだよ~」
すると、小さな倉庫部屋の中から、くぐもった声が聞こえてくる。
横滑りの扉をガラリと開けると、アイが何やらおもちゃで遊んでいたらしい。残骸に埋もれて、寝そべっている。
「おはよう、今朝は早起きだったね」
「うん、めざましなしで、おきたよ」
「それは凄いけど、珍しいね。何やってたの?」
アイの手元を見ると、ひらがな積み木がバラバラと散らばっている。
これはアイが産まれた時に、妻の小夜子が購入したものだ。小夜子からアイへの贈り物は、結局はこの積み木だけとなってしまったので、大切にはしてきたのだが、かなり色も変色して汚れてしまっている。
表面にはひらがなが、裏面にはそのひらがなから始まる物や動物などのイラストが描かれている。
例えば、表面が『あ』であれば、裏面には『アリ』のイラスト。ひらがなは小学校で習うのだが、最近では保育園や幼稚園の段階で覚えてしまっている子が多いらしい。アイもすでにこの積み木で、まだ書けはしないが、大体のひらがなを覚えていた。
「しりとり」
「ふうん、しりとりねえ」
よく見ると、自分の名前の『あい』から始まり、『いか』、『かめ』、と並べてある。
「ねえ、パパ。『め』のもの、何かない?」
キッチンへ戻り、冷蔵庫から牛乳を取り出しながら、考える。
「『めがね』は?」
「パパあ、『が』のつみきは、ないんだよ。知らないの? 『か』ならあるけど」
「そうか、『か』でも良いんじゃない?」
「そんなの、ズルだよ」
これが誤答を正答へとを擦り寄せることの出来る大人の狡いところだと言われると、立つ瀬がない。
北川は、やれやれと心で肩を竦めながら牛乳をコップに注ぐと、頭の中で『め』のつくワードを探していく。しかし朝、起きたばかりの頭の働きの鈍いことといったら。
北川は、直ぐにも諦めて大欠伸をすると、パン置き場からスティックパンの袋を取り出した。
「アイ、メシ食うぞ」
倉庫部屋から出てきたアイが、引かれていたイスへと飛び込んでくる。
いつも食パンだと飽きるだろうと、昨日コンビニで買っておいたスティックパンの袋に手を入れて一本を引っ張り出すと、口へとくわえてほうばる。その様子を見て思いついた。アイの顔に手を伸ばして、眼の辺りを拭う。
「そうか、『めやに』があったな」
ちょっと汚いワードだなと思いつつ、北川が提案すると、アイがスティックパンを咥えたままイスから飛び降りて、倉庫部屋へと入っていった。
「こらっ、行儀が悪いぞ。先に食べろっ」
「め、や、に。……に、に、に、」
こういう時は、心底やれやれという気持ちになる。そう思いながらも北川は、『に』のつくワードを探していった。
すると、今度は直ぐに思い浮かぶ。その言葉は、それが不思議というような感覚を伴って、北川の脳から口をついて出ていった。
「『にっき』」
そのワードで再度、夜爪のことを思い出した。彼女の、見本のような笑顔。
「『にっき』は、ダメ。小さい『つ』がないもん。パパ、ちゃんとかんがえてよう」
大きい『つ』でいいんじゃないか、などとは二度と言わない。
北川は口の中に残っていたスティックパンを牛乳で流し込むと、アイの服を洗濯物の山の中から引っ張り出した。
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「どうでしょうか。どの提案も、あまり自信がないと言えばないのですけど」
いつものカフェで夜爪を前にして、北川は数枚の提案書を広げていた。その一枚一枚に、丁寧に目を通していた夜爪が、顔を上げて言った。
「ふふ、どれも個性的で面白いです。発想が違いますね、さすがです」
少し顔色が悪いように見えるのは、久しぶりに降った雨がようやく上がって間もない、この時間帯だからだろうか。外は薄暗く、どんよりと曇っている。雨の匂いを掻き分けながら、待ち合わせのカフェまで急ぎ足で来た。
カフェに入ると、店内の一番奥の席で、彼女は姿勢をピンと正し、深々と頭を下げた。
北川は、胸が鳴るのを感じた。
提案書を出す前に、不動産屋が寄越してきた契約書を出して、サインを貰う。これでエアリアルルーム自体の契約は滞りなく済んで、ほっと胸を撫で下ろす。夜爪には希望という希望はなかったが、念のため位置情報を確認して貰い、事前に一度、そのエアリアルルームに足を運んで貰っていた。その部屋が気に入って貰えないと、また一から探さなければならないからだ。
「……ここが、私の部屋」
感慨深げに、部屋の中を見て回る。壁を触ったり床を足でトントンと叩いてみたり、決して羽目を外したりはしゃいだりはしないが、それなりに嬉しそうにしている姿を見て、北川も素直に嬉しく思った。
北川はそんな夜爪の様子を思い出しながら、目の前に置いてある提案書に手を伸ばした。実はこの提案書の中で、自分でもピンとくる案がなかったのも事実だ。
それは、本当に難しい依頼だった。
希望があまりにも抽象的過ぎて、それを具現化できなかった。
「あまり良い案が無いようであれば、もう一度検討し直してみます」
北川は、これといった提案ができなかったことに、少しの羞恥を覚えて、提案書に手を伸ばした。
けれど、その瞬間、自分の手の中へ彼女の手が滑り込んできたことに驚いて、はっと手を上げる。触れた部分が、ひやりとしたような気がして、慌てて手を引っ込めてしまった。
「す、すみません、」
「いえ、あの、これが良いなって思って」
数枚の書類の中から一枚の提案書を取り上げて、北川の方へと向けた。
それはアイと、あのひらがな積み木でしりとりをした時に思いついたものだ。こんな子どもの遊びの延長のような提案、見せるのも恥ずかしいなと思いつつ、迷いに迷って最後の最後に差し込んだ案だった。
「こんなんで、良いんですか?」
すると、夜爪は笑顔で、「はい、とても気に入りました」と言う。
「でも、もっと他に……これなんか、まあ銅像といっても、そんな大層なものではないんですけど。あなたがデザインしたものを、」
そう続けようとしたところで、「気にいるデザインにすると、愛着が湧いてしまいそう」と口を挟んだ。
「それに銅像や記念のものだと、日記というのがあまり関係のないものになってしまいます」
「では、これは? やはり、日記を書く部屋で。居心地がいい空間、何か、カフェのような落ち着ける場所にして。ドリンクバーなど持ち込んでも良いし。あ、古い家電なんかも、何とか用意はできると思います」
「それなら、自分の家ででもできますから」
北川は沈黙した。夜爪がこれ、と指をさす、提案書を見る。
「無意味で無機質、そんな日記が作れそうです」
彼女が指をさしたまま、そこで二度、トントンと指をテーブルに打ちつけた。控え目に、けれど強固な意志を持って、それは鳴らされた。