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空間に綴る  作者: 三千
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無意味で無機質

先日の非礼をお互いに詫びると、北川は店員を手を上げて呼び、夜爪に問うた。


「こ、コーヒーで良いですか? それとも、他に何か、」


「では、カフェオレを」


カフェオレとコーヒーを頼むと、カバンから手帳を二冊取り出した。いつもならここでペンのキャップを取って直ぐにも走らせ始め、エアリアルルームの詳細を話したり、要望を聞いたりする手順だったが、北川は今日はなかなか、そういった種類の話を始めることが出来ずにいた。


白いブラウス、淡い桜色のスカート、肩までは届かない内巻きのヘア。黒髪がその艶を保っていて、北川は少しだけ気後れしていた自分に気づく。


「アイちゃんのお誕生日だったんですね。本当に邪魔してしまって」


テーブルに投げ出されて重ねられている手の、何という白さ。薄っすらと浮き出た血管も、その白さを決して邪魔していなかった。


「い、いえ、フリーランスの癖に、何ていうか、すみません」


自分がどんな言葉を使って喋っているのかも分からないくらいの、この体たらく。


北川がおろおろしていると、直ぐにもコーヒーとカフェオレが運ばれてきた。夜爪は店員が丁寧にカップを置いていく様子をじっと観察でもするように見ている。そんな彼女の様子を、北川は盗み見た。


ごゆっくりどうぞと店員に言われ、顔を傾ける。唇は薄っすらと微笑みをたたえていた。

一瞬だけ伏せられた長い睫毛。一重だが切れ長の眼とはとても相性よく、彼女の新鮮さを強調している。


(新鮮、は、おかしいか)


彼女を表す言葉を、理系の大学で培われた狭い語彙力の中を何とかして探る。けれど「新鮮」それが一番的を得ている言葉のように思えた。


(瑞々しいサラダのようだ)


「どうぞ、召し上がってください」


「は?」


夜爪は持ち上げていたカップを置くと、キョトンとした顔を北川へと晒した。


「あ、今、サラダと仰ったので。私に構わず、どうぞ召し上がってください」


声に出してしまっていたことに気がつくと、途端に羞恥の波に襲われた。顔が火照って、その熱がさらに北川の中に混乱を呼んだ。


「あ、や、違うんです」


彼女のことを『サラダ』と形容したことと、彼女が言った『召し上がってください』に別の意味でドキリとした自分が大層、愚かしく思えた。まだ二度しか会っていないのに何なんだこれはと、再度思う。


「よ、夜爪さんはお幾つですか?」


混乱の中で聞いたので、女性に年齢を尋ねるのが失礼なことだという認識が上がってこなかった。けれど、夜爪は難なく、さらりと口にした。


「二十八です」


予想していた範囲内だったので、そうですか、と北川は素直に頷いた。


「アイちゃんは? この前のお誕生日で幾つになったんですか?」


自分が次には問われると思っていたので、用意していた「三十五です」が呑み込まれた。


「えっと、五歳になりました」


「可愛いですね」


「はは、まあ。親バカですけど」

北川が手を頭にやったのを見て、夜爪が笑った。


「そんなことはありません。可愛いです」


仕事の話をしなければ、そう思うが口からなかなか出てこない。沈黙が降り、夜爪が口を開いた。


「何かを残したいなと思って」


北川がビクッとして、顔を上げる。


「自分が生きた証のようなものを」


「……何、言ってるんですか」


「いつ死ぬか、分からないので」


その言葉で一瞬にして、自分の顔が引きつったのが分かった。背中にひやりとしたものが走る。

まだ二度しか会ってなく、やっとさっき年齢を聞いただけの段階。


どうしていいのか、どう応えていいのか、言葉がまるで浮かんでこない。テーブルに投げ出していた自分の指の先が、微かに震え始めるのを感じた。


『余命』という言葉が頭をよぎった。


その言葉の重みは、必ずと言っていいほど、向こうからやってくるのだ。

何も言えずに固まっている北川を見て、夜爪は薄っすらと顔を歪めて笑った。


「驚かせてしまって、すみません。そうじゃないんです」


「え、」


「持病があるんです。今は大丈夫なんですけど、年々進行していくので、それで今回のことを考えるようになりました」


目を伏せて、テーブルの上に視線を遣る。北川の、震える指を見つめている。


「他の病気の発症や合併症の可能性も高いようです。健康な時は考えないでしょうけど、死ぬのが人より早いかも、と。そう思う機会があっただけです」


カバンから大ぶりの分厚いノートを出す。表紙には『DIARY』とある。


「冒頭、読んで頂ければお分かりになると思います。どうぞ」


北川は開いて差し出されたページに、右手を置いた。


「僕なんかが、読んで良いんですか?」


その問いには、笑顔しか返ってこなかった。


今日から日記を書くことにする。持病を抱えてから、丸5年。なぜ日記なのかと言うと、いつかは病気で死んでしまうのかもしれない。それを考えてみたら、やりたいことをやっておこう、それしか思いつかないからだ。やりたいことをリストにすると良いと、テレビでやっていたので、思いついたことをその場で書き留めるようにと、この日記を肌身離さず持ち歩くことにする。

この時点で、与えられた病名は3つ。これから、増えはするが減りはしないとの、主治医の見解。発症の可能性が考えられる病名の中には、発症後直ぐに寝たきりになったり、死んでしまうものもあるようだ。この病気にはたくさんの種類があり、どの病気がいつ出てくるのかは、今の段階では判断できないという。そして、運が良ければこのまま寿命を全うできるかも知れないとのこと。それは誰にも分からない。


ページの終わりまで読んで、北川は目を離した。ページを送っても良いのかどうかが、判断できなかった。


「次も、見て良いですよ」


北川の動揺を見透かしたように、軽く握った手を口元に当てて、クスッと笑う。その笑みが北川の中にするりと入ってきて、他人とはそうやって、人の心に足跡のようなものを付けていくのだなと思った。


そう、北川の中にはすでに、老人の足跡と若社長の足跡とが、まるで偉人の足型のようにそこに残っている。

北川は分厚いノートをそっと閉じた。

その様子を見て、夜爪がおや、という顔をした。


「よく分かりました。この日記のように、エアリアルルームに何かを遺したい、そういうことですね」


「はい、それが無意味であっても。いえ、無意味じゃないといけません。その行為に意味があっては、」


言葉を一瞬、呑んだように見えた。


「意味があっては、死ぬ時に辛くなってしまうから」


北川は、表情をうまく作れずにいた。けれど、これは自分の仕事だ、そう強く思って言った。


「無意味で無機質、けれど生きた証を遺す、それを目指しましょう」


夜爪が浅く頷くのを見て、北川は冷めてしまったコーヒーを勢いよくあおった。

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