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空間に綴る  作者: 三千
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抱えたままの日記

二ヶ月ほど前にさかのぼる。


ピンポンと自宅兼事務所のチャイムが鳴った時、北川は手が離せずにいた。土曜のこの日はアイの誕生日で、二人で朝からレシピを片手にチョコレートケーキを作っている真っ最中だったからだ。


ちょうどチョコレートケーキを型に流し込み始めた時で、重い耐熱ボウルを片手に抱え込んでいて、とても中断できる格好ではない。北川は横で見ていたアイに玄関に出るように言った。


「ちょ、アイ、玄関出て。インターホンで、ちゃんと確認しろよ」


「わかったあ」


アイがパタパタと駆けていく。その後ろ姿を見て、北川は慌てて声を上げた。


「アイっ! 先ずはインターホンだろっ」


玄関のドアに手を掛けようとしていた動きを止めると、踵を返して引き返し、背伸びをしてインターホンのボタンを押す。


「はい、って言えよっ」


「はいっ」


普段やらせていないことを、いきなり保育園児が出来るはずがない。基本的なことを教えていなかった自分の無精を悔やむ。幼い子どもを前にして、出来て当たり前、と思うこと自体がまず間違っているのだ。出来るか出来ないかで言えば、出来ない方が圧倒的に多いのである。


「…………」


インターホンは何も答えなかった。出るのが遅れて、不在ととって帰ってしまったか。ボウルについた生地をゴムべらで丁寧に落とす。すると、玄関の方でガチャリと音がした。


「おい、アイ! 勝手に開けるな‼︎」


ある程度綺麗にさらえたボウルを乱暴に置くと、手についたチョコレートの生地をエプロンに撫でつけながら、玄関へと向かう。ドアは閉まっている。アイの姿がない。


北川はエプロンから手を離し、慌ててドアを開けた。するとそこに、アイの後頭部があった。

顔を上げると、そこには一人の女性。


「だれ?」


アイが二度目であろう、問いかけをする。それは、北川が彼女の前に出てきた時に、彼女が腰を折って、視線をアイの高さに合わせていたことで分かる。


夜爪よづめと言います」


上げていた顔をアイへと戻し、真顔で名乗る。これも二度目であろうか。

アイが再度「だれ?」と問う。


「夜爪と、」


言い掛けて、言い直す。


「お仕事をお願いしに来ました」


アイがクルっと振り向いて、「パパ、おきゃくさん」と言う。


明日は仕事が休みだから誕生日パーティーねと楽しみにしていたからか、アイのショボくれ顔。


北川は苦笑しながら、「ごめんな、少しだけ」と、アイの頭に手を置いた。アイはその北川の手をすり抜けるようにして、家の中へと入っていった。


北川は、それがアイの拒絶の意のような気がして、そして誕生日を邪魔されたことにアイだけではなく、北川自身も少しだけ不満を覚えた。もしかするとそれが顔に出ていたのかもしれない。アポイントなしの突然の来訪にも、良い印象は持たされなかった。


「今日、お約束がありましたか?」


意地の悪い言い方になってしまったことに言い訳をする気持ちもない。眉間に皺が寄ってしまっていることが、顔の筋肉の様子でよく分かった。こういう時は、いつもの営業スマイルも作れないんだな、と素直に思う。心と顔の表情は、直結している。少なくとも俺はそうだ、北川は頑固にそう思った。


「あ、いえ、すみません」


女性が俯く。頬を滑っていく黒髪の一本一本が、スローモーションのように見えた。


「出直します」


くるりと背中を向けて、スタスタと歩いていく。その思いも寄らぬ潔さを見せられて、北川は自分が狭量だったかと思って心で舌打ちすると、次には焦りの気持ちが途端にぶわりとせり上がってきて、自分でも知らぬうちに声を上げていた。


「すみません、大丈夫ですから」


彼女が顔だけを振り返らせて、北川を見る。身体がそのまま前を向いているところを見ると、自分が完全に彼女を怒らせたか、機嫌を損ねたかが、よく分かった。その時は不思議と、折角のお客様を怒らせて仕事をおじゃんにしたという気持ちはなく、ただただ彼女を怒らせたという事実に、北川は慄いてしまった。


「すみません、ど、どうぞ」


ドアを開けて、相手を家の中へと促す。けれど、彼女は直ぐには動かなかった。アイのムクれた顔を見たからだろうか、自分のぞんざいな態度に腹を立てたからだろうか、北川はそのどちらも思い当たる要因を苦く思った。けれど、そんな表情も相手に見られてしまえば、もうその意味を否定することは出来ないし、言葉も一度口から出てしまうと、二度と口の中へは引き戻せない。


北川はドアをさらに開けた。

もうその時点で、彼は白旗を揚げていた。


「失礼でした、すみません。どうぞ、中へお入りください」


北川の言葉に反応し、彼女は顎を引いてから玄関に入った。北川は次には、彼女に何か不思議な気持ちを感じていた。


✳︎✳︎✳︎


「ちょっと待っててください、これレンジに入れちゃうんで」


北川が慌てて角トレーに丸いケーキ型を乗せて、予熱されたレンジのドアを閉める。温度と焼き時間をセットすると、レンジはブーンという間延びした音を立てた。


「アイ、ピピピッって鳴ったら、この手袋をして、ケーキを出せるか?」


仕事の依頼なら、セットした30分で、話は済まないだろう。そう算段をつけて、アイに声を掛けるが、ふてくされて拗ねているのか、返事がない。ダイニングテーブルに座って、顔を向こうへと向けてしまっている。


「おい、アイっ」


声を荒げてしまった。北川は時々、まるで自分の思うようにならない『子ども』という存在に、手を焼いてしまう時がある。そんな時はもう、怒りをぶつけるか、白旗を揚げるか、懐柔して説得するかのどれかしかないと、普段から感じていた。そして、その時の感情に左右されることは仕方のないことだと思っていた。


(世の親たちは、一体どうやってやり過ごしているんだ?)


今までに何度となく思った気持ちを抱えたまま、北川はもう一度、強く態度に出そうとした。


「子どもに熱いものを持たせるのは、危なくないですか?」


振り返ると、和室の机に両腕をついて、腰を半分だけ浮かしている夜爪の姿が眼に飛び込んできた。


「私は構いませんので、やってあげてください」


北川は溜息を吐いて、次に試そうとしていたアイを懐柔することをも諦めると、冷蔵庫から麦茶を出してコップへと注いだ。コップを机へと運ぶと、夜爪は顔を少しだけ傾げて、眼を伏せた。


何という長い睫毛だ。それは一本一本に艶があり、まるで流れ星でも通った後の軌跡のように真っ直ぐに描かれている。それらが伏せられると、さらにその存在感が増すような気がして、北川は眼を逸らした。


「お休みだったんですね。確認せずにいきなり来て、すみませんでした」


深々と頭を下げる様子を見て、さっきは自分の態度に怒って帰ろうとしたのではなかったのかと思った。


「お嬢さんにも、申し訳ないことをしました」


再度、頭を下げる。その言葉が、アイの耳に入ったかどうかは、背中を向けている北川には判断が出来なかった。机の上に置いた、自分愛用の二冊の手帳を見る。使い込まれて、角がボロボロになっていることに今気づくか、と自分を心で笑いながら、新しいページを開いた。


「いえ、こちらこそ、すみません。それで、今日は?」


既に仕事モードに切り替わっているもう一人の自分を操縦しながら、北川はメモを進めていった。


夜爪よづめ まりと申します。エアリアルルームを一つ購入したいと思っています」


「はい」


「そこで、日記を書きたいんです」


メモを取っていたペン先が、そのペンを握りしめた指の圧で、少しだけ沈む。


「はい」


「日記を書き始めたのは、二年前の冬です。毎日ではありません。何か特別なことがあった日に書いています」


何だ、普通の依頼だな、そう思った。出逢いに一悶着あったから、もしかしたら何かケチの一つでもつくかもしれない、そんな気持ちもあった。

言葉が途切れたのを見計らって、北川が問い掛けた。


「では、日記を書く部屋を作ればいい、ということですね」


「……はい」


ここで遠く、あの薄幸の老人を思い出した。それは薄っすらとではあるが、けれどしっかりとした存在感を放って、北川の中に花のように咲いて現れる。

あの老人のように、好きな本に囲まれて、好きな本を読みながら、穏やかに過ごしたいということだろうか。その日に起こった事柄を日記にでも書いて、心を落ち着かせるのだろうか。


それとも。


「では先ず、エアリアルルームの場所ですが、」


北川が言い終える前に、夜爪が答えた。


「場所はどこでも」


それとも、あの若社長のように、誰にも言えないようなある種の『秘め事』でも、記すのだろうか。


「では、部屋のコーディネートでご希望はありませんか?」


ここで初めて、彼女が言葉に詰まった。


「……希望はあるんです。でも、どう言っていいか」


彼女の様子は本当に、何と言っていいのか分からないようだった。思案し、それでも言いあぐねている。


そこで、レンジがピピピッと鳴った。少しだけ振り返ると、目の端で何かがさっと動いたような気がした。それが、アイだと分かるのに、時間が掛かった。アイが、北川が言ったことを忠実に守ったことを、理解するのにも。


「あ、アイちゃん、待って」


夜爪が立ち上がって、北川の横を通り過ぎた。それに気づいて、北川も腰を上げた。


「待って、やってあげる」


アイに彼女が近付いていき、北川がキッチンに入る頃には、既にアイからミトンを受け取っていた。隣の和室にいて気がつかなかったが、もうこの時点でリビングはチョコレートケーキの甘い香りが漂っていた。拗ねている、そう思っていたアイのこのウキウキした笑顔。機嫌は直ったようだ、それだけでもう胸を撫で下ろす、そんなほっとした気持ちになった。


レンジから湯気の燻るチョコレートケーキを出す。ステンレスの台に乗せると、彼女はミトンをアイへと手渡した。


「良い香り、上手に出来てる。お店で売ってるようなケーキだね。凄く、美味しそう」


夜爪が笑って言った。


アイはチョコレートケーキを褒められて、とても嬉しそうな顔をした。満足の出来、そんな笑顔だ。


「パパが作ったの。おいしそう、早く食べたいっ」


「そうだね、じゃあ、もうお仕事は終わり」


彼女はくるりと回って、北川を見た。


「部屋で日記を書くのではなく、部屋自体を私の日記にしたいんです。また今度、近いうちに伺います」


夜爪はそう言うと、リビングのソファに置いてあったショルダーバックを肩にかけると、「お休みのところ、すみませんでした。次は電話します」と言って、帰っていった。


(部屋を、日記にする?)


彼女は北川の中へと何らかの余韻を残して帰っていった。

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