一途な想いには
会議室の前の廊下が俄かに騒がしくなり、北川は現実へと引き戻された。長い時間ぼけっとしてたのかと思い、腕時計を見る。案内されてからまだ十五分ほどしか経っていないことに驚く。
(もしかして、寝てたか、俺?)
会議室のドアが開いて、大谷がずかずかと入ってくる。
「悪りい、長引いた」
そして、北川が座っている席に近寄ってくると、手元にあるカップに目を見遣って言った。
「お代わり、いるか?」
そう訊いているにもかかわらず、内線のインターホンの受話器を取って電話する。
「すまんが、会議室にコーヒー持ってきて」
大手メーカーの課長ともなれば、こんな横柄な態度も許されるのか、北川は心で苦笑した。大谷が家に帰れば、カミさんと娘二人にはちっとも頭が上がらないのを、旧知の仲である北川は知っている。
北川と大谷は同じ大学の同期だ。一緒にイベントサークルなどをやってグループを作っていた輩の中では、北川と大谷はウマが合い、それ以来の付き合いだった。それはお互いに、どちらが先に論文を提出するか、どちらが先に就職を決めるか、どちらが先に結婚するかなどとライバル心とともに切磋琢磨する友情だったため、二人の間では常に向学心、向上心が存在し、それが二人を良い方向へと導いた。そのグループの中で大谷は一番の出世頭だった。
中堅のデザイン事務所に所属していた北川が独立に傾き始めた頃、大谷は自分が力になると言って、北川の背中を押した。それと同時に呆気ないほどあっさりと妻を失い、失意のどん底にいた北川を励まし慰めてくれ、立ち上がらせてくれたのも、大谷だった。
会議室にコーヒーが運ばれてくるのと同時に、一通りの挨拶や近況報告などが済み、一息ついてから仕事の話に入ろうとしたところで、大谷が先に進める。
「おい、今の子、なかなかだろ」
「え、あ、まあな」
確かに客にお代わりをと伝えていないにもかかわらず、ちゃんと北川にも新しいコーヒーを持ってくるあたり、気が利くようだと思ったが、北川はそれを控えた。
「美人だし、仕事もきびきびとこなしているし、何より人好きのするあの仕草。男性社員の間でも、人気No.1なんだがな」
「へえ、そう」
興味がないことをアピールする。そうしなければ、大谷からはいつもこういった類の攻撃を受ける羽目になるからだ。
「紹介するぞ~」
やれやれ、北川は二杯目のコーヒーに口をつけてから、大谷を睨んで言った。
「お前もいい加減、諦めろよ。俺は当分、再婚なんてしねえ」
「アイちゃんLOVEのお前に、結婚しろって勧めているわけじゃない。たまにはデートでもすればって言ってんの」
「悪いけど、デートでもすりゃ、いずれそういう話になるだろ。アイが嫌がるんだよ、再婚とか何とかは。だから、今んとこ考えてねえ。それより、仕事の話していいか」
大谷が顔をしかめたのを無視し、北川は鞄から書類を出して、机の上へと軽く投げた。大谷がそれを拾い上げ、目を通す。
そして、二枚目をめくってから、顔を上げて北川に変顔を寄越す。
「なんだあ、こりゃ」
「見りゃ分かるだろ。引き受けてくれそうな下請け、紹介してくれ」
大谷はいい温度に冷めたコーヒーを一気にあおった。
「しかし、お前もよく分からん仕事してんなあ」
「ほっとけよ」
「俺が紹介したNNPの社長の件も、まあ、あれもぶったまげたけど、こりゃあまた。こんなの何に使うんだ?」
「当たり前だが、企業秘密、だ」
北川は、先ほどまで追想していた、あの若社長が築き上げた会社名を聞いて、彼に振り回されて一時期嫌悪までしていたその会社名がするりと自分の中へと滑り込んできて、それに少しも抵抗を感じないことを、不思議に思った。
(時間ってやつが、上手に解決するもんなんだな)
当たりをつけた下請けの工場の名前と連絡先を大谷から手渡されて、北川は重くなっていた腰をようやく上げた。
「お客様がお帰りになられるぞ」
そう内線で連絡する大谷に、辟易しながらも、受付の女性が来る前に会議室のドアを開けて、北川はビルを後にした。
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「秘密を守ってくれて助かりました。さすがは大谷君の紹介だ、やはり彼の見る目は確かだった」
その時はまだ大手玩具メーカー、トマツトイの係長だった大谷の名前が出て、北川は頭に手をやった。
(ってか、そうは言っても、凄げえ気になってはいるんだけどな)
完成した空間は、ピンクやホワイト、水色などのパステルカラーで見事に埋め尽くされて、それはもう女子高生でもこんな部屋は嫌がるのではと思うような、ぶりぶりの可愛らしさだった。
テーブルは丸型でホワイトの塗装。クッションはハートの形のものが二個。入り口から一番奥のかどには、天蓋付きのベッド。そのベッドに似合うフワフワのフリルのついた羽毛ぶとんを探すのに、かなり手間取った経緯が蘇る。
(もしかして、浮気とかじゃなくて、この人の趣味ってことはないだろうな)
北川は色々な可能性を考えてみた。けれど、この清廉潔白そうな社長を前にすると、不思議なことに、どれもしっくりとこない。
そして、若社長は北川が空間のコーディネートを終えると、何かのプレゼントのような包みを抱えてきては、空間のあちこちに配置していった。それは包装紙の柄から、中身がジュエリーの類であることは間違いないようだった。小ぶりな正方形の中身は、きっと指輪だ。細長い長方形の平たい形は、ネックレスだろう。
やはり、浮気なのか、そんな印象を持たされたまま、北川は受け渡しの手続きに進んだ。
「こちらがその『エアリアルトランスファー』です。使い方は電子マニュアルで確認してください」
北川は、若社長に二十センチ四方の箱を二つ渡すと、書類に受け渡し済みのサインを貰った。
「ありがとうございました。感謝します」
そう言って、若社長は丁寧にお辞儀をすると、箱を二つ抱えて、いそいそと帰っていった。
そしてその数ヶ月後。
ネットのニュースを賑わす大事件が起こった。
『NNP代表取締役社長 女性を誘拐か』
コンビニの駐車場で時間つぶしをしていた北川の、スマホを持つ手が震えた。懸念していた犯罪の類に加担してしまったのかと思い、北川は揺れる頭で一番に娘のアイのことを考えた。
この世でアイを託せる親戚は皆無に等しい。大谷に頼むしかない、そうは思うが、その大谷のせいでこんな目に遭っているのだから、それをまず許すことができるのだろうかと思う。
そんな中、その大谷から電話があった。
『北川っ、ちょ、落ち着け! 誘拐じゃない、絶対に大丈夫だから。その証拠に、警察は来ていないだろう?』
確かに大谷の言う通りだと、北川は思った。警察の捜査が直ぐにも入るはずだろうが、その気配はない。
「本当に大丈夫なんだろうなっ」
『ああ、俺は詳細を聞かされている。大丈夫だから、落ち着け、な?』
宥めすかされその場で聞かされた説明の大筋は、『駆け落ち』というシナリオ。
若社長には小学生の時、仲の良かった幼馴染の女の子がいた。相手側の引越しで、東京と九州の遠距離になってしまったのだが、何とか手紙のやりとりを続けていたものの、一方的に彼女の方が音信不通になってしまった。最後に交わした約束では、大人になってお金ができたら自分が迎えに行くことになっている。彼は彼女をいつか迎えに行くんだということを励みに一生懸命勉強し、そして働いた。
ようやく一財産が出来た頃に探し当てた彼女は、親が作った借金で、貧しい生活を強いられていた。直ぐにも結婚を申し込み、彼女を口説き落とすことに成功した彼だったが、その工作をするのにこの空間ビジネスを利用した、という訳だ。
主に彼女とのデートで利用していたのだろうが、そのことを知らない彼女の両親が彼女が連れ去られたと勘違いをして、今回の騒動につながったらしい。聞いてみれば意外と単純な理由だった。
「何だよ、その絵に描いたドラマのような話はっ! こっちは、心臓が止まるかと思ったっつーの‼︎」
『だから、まあ駆け落ちってわけでもないか。ちゃんとした、普通の恋愛だから何の文句もつけれんぞ。でもまあ、彼女の親の借金と同額の現金を置いて、その足で彼女を連れてっちまうんだからなあ。親が驚いて騒ぐのも無理ないけどな』
「だからって、何でそんな騒ぎ起こすんだよ‼︎」
北川は顔を歪めて思った。『エアリアルトランスファー』を実家に置く予備にするので、もう一つ購入したいと言った時点で、気づくべきだった。いや、それ以前にどうしてあんなにも秘密にするよう、念を押されたのか?
北川の疑問に、大谷が答える。
『ネットのニュース、見てねえの? 速報も流れたんだがなあ。あの人、会社を後任のボンクラ副社長に譲って、さっさと会社を辞めちまったぞ。誘拐どうのより、そっちの方が重大ニュースだっつーの』
何と、日本を代表するカリスマ社長が会社をほっぽり出して一恋愛に走ってしまったというわけだ。
株価の暴落や会社の信頼の失墜、個人所有の株の売却などその他諸々の事情を考えると、秘密にするのも仕方がないことだったのかと、北川は大きな溜息を吐いた。
「なんだよ、会社、辞める必要あったのかよ」
『まあ、あの会社の社長なんかやってちゃ、恋人に構ってる余裕なんてねえだろうから。金より彼女との幸せを選んだってことなんじゃねえ?』
北川は、詳細を聞いて妙に納得してしまった。あのプレゼントの数々は、彼女への心からの贈り物だったということだ。
何という想いの強さだ。その揺るぎない信念は、誰一人として気づかなかったというだけで、最初からあの瞳の中に宿っていたのだ。
「じゃあ、何で、あんなデザインの空間だったんだ?」
若社長と同じ歳なら、もういい大人なはずだが、と北川は首をひねった。
『どんなデザインかは知らねえけど、幼馴染の夢だったらしい』
(自分の夢も叶え、そして彼女の夢をも叶えたってわけか。イケメン過ぎんだろ)
北川は、完全なるヤラレタ感と、少しの羨望の気持ちとをごちゃ混ぜにして、それを抱えたまま数日を過ごしたのだった。