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空間に綴る  作者: 三千
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空間コーディネーター



朝、娘のアイがぐっすりと眠っているまだ早いこの時間は、新聞に隅から隅まで目を通しながらコーヒーを堪能する、至福の時間。

けれど、今朝のように体調がすぐれない時には、机の上に置いたマグカップに伸ばす手も何だか重だるくて、いまだ取っ手を握ったままだ。


起きた時に少しだけ頭痛があったので、新聞なんてものは一日くらい読まなくてもどうってことないと、自分に言い聞かせてみたが、一度身についた習慣はそうそう変えることができない。郵便受けから新聞を取ってきてしまうと、やはりどうでも読まなければという気になって、結局、机の上に広げることになった。


北川きたがわは、やれやれと苦笑しながら、目に留まった記事に、顔を少し近づけて読む。


『軽い肺炎のため入院中であった高砂の宮さま、近々退院のご予定』


手に持ったままだったマグカップを、視線を記事から離さずに、口へと運ぶ。頭痛の時には、ブラックにしたコーヒーのカフェインがよく効く。じわっとその苦味とともに、すでに温くなり、舌と同じくらいであろう温度が、口の中に広がっていった。


「凄えなあ、114歳とはな。健康管理が徹底されると、長生きできるもんなんだな」


北川は顔をしかめながら、苦いコーヒーを一口二口飲むと、三年ほど前に仕事で出会った一人の老人を思い出した。けれど、ニュースにあるような114歳という高齢ではない。まだ、それより44も若い68歳の、身体も頭もシャキリとした男性であった。


彼の顔には、嫌味とならない程度に、程よく皺が走り、それは老人の柔和な性格を如実に表していた。

妻、娘夫婦、孫、の家族にも会ったが、まあこの家族の中にいて、能面や夜叉のような顔になろうはずがない、そう思えるほどの平穏さ。それが、最初に持たされた、この老人と家族の印象だった。


そして、突然の余命宣告。二年。


それを受けて、老人は北川の事務所を訪ねてきた。


「そこで余生を静かに過ごしたいんです」


自分も娘がいることから、家族の元で過ごせばいいのでは、と単純に思ったことを口にする。けれど、彼は溜め息を一つだけ吐いて、言った。


「死ぬと分かるとねえ、色々と好きなことをやってみたくなるもんです」


そんな老人の、何とも表現し難い悲哀の顔を思い浮かべると、途端に苦味がじわりと湧き上がってくる。そう、頭痛のある時に飲む、このブラックのコーヒーのような。

北川は苦笑しながら視線を新聞に戻すと、右側のページの隅を指先で摘み、左へと持っていった。


新たな紙面を前にして、頭も新たにする。スポーツ欄。


『五大陸大会の一つを制し優勝、世界ランク3位に』


人々から賞賛される輝かしい成績。


「何か偉業でも成し遂げるのですか?」


北川はその時に、初対面にもかかわらず、そう冗談めかして言ったのを思い出した。次には18歳の若さで起業し、五年ほどの短期間で会社の株式上場を成し遂げた、23歳、新進気鋭の代表取締役を目の前にして、北川は軽い興奮を覚えていたことを思い出す。


経済界の風雲児は、その黒髪を短く整えた好青年。それが第一印象だった。滑らかな生地で仕立てられたスーツを身にまとい、高級そうな腕時計をチラチラと周囲に見せつけている。


このような上質の顧客は久しぶりだと、北川は同時に心の中で手を打った。彼がテレビの討論番組や地方で開かれる講演会などにも引っ張りだこの有名人だということが、更にその興奮に拍車をかける。


「はは、そんなんじゃありませんよ。これ、このメモにある通りに空間をコーディネートして貰えませんか。もちろんメモにある条件を満たしていただければ、あとは北川さんにお任せしますので。ああ、トマツトイの大谷おおや君が北川さんのこと褒めてましたよ。北川さんなら間違いないってね」


そこまで追想したところで、二階から階段を下りてくるバタバタと騒々しい足音を聞く。


北川は新聞を伏せた。色々と思いを馳せていたお陰で、今日は新聞をじっくりと読めなかったな、そう小さく苦笑いしてから、その足音の方へと振り返る。


「パパ、おはよう」


鳥の巣のような髪型をさせたアイが、眠たそうに近づいてくる。右手に持っていたクマのぬいぐるみをソファの上に放り投げると、アイは北川の両腕の中へと潜り込んできた。


「アイ、おはよう。おまえ、起きるのにはまだ早くないか?」


フラフラと頭を揺らしながら、アイが縋りつく。


「うん、まだ眠い」


北川は今年5歳になる娘を軽々と抱き上げると、和室へと向かった。


「パパの布団でもう少し、寝ておいで」


敷きっぱなしにしてあった布団の上へとアイを転がし、上から毛布をかける。おでこにキスをするために顔を近づけると、ふわりとシャンプーの香りがして、頭痛が少しだけ治った気になった。昨晩、髪を洗いっぱなしでドライヤーをかけるのを忘れていたなと、その鳥の巣の髪を直すようにして、北川は愛しそうに何度も撫ぜた。


✳︎✳︎✳︎


北川の仕事場であるこの事務所は、自宅と兼用となっている。出社と言っても、自宅のリビングでパソコンを開くだけ。自宅に隣接する倉庫には仕事の荷物が山積みになっているので、その倉庫には日に何度も足を運んでは、納品のチェックなどをしている。


顧客に渡す名刺には

『空間コーディネーター 北川 たつみ

とある。その名の通り、空間をコーディネートするこの仕事を、北川はやりがいとは別に、便利に思っていた。


まだ保育園児のアイを、男手一つで育てながらできる仕事で、一日、一週間、一ヶ月後のスケジュールを全て自分で決められるところが、まだ幼いアイの世話をするのに好都合であったりした。


「アイ、もう起きる時間だよ。朝ごはん、食べな」


まだ寝足りなさそうなアイを布団から引っ張り上げて、リビングのテーブルに座らせる。朝食は手抜きではあるとは思うが、食パンと牛乳。目玉焼きの一つでも作れば良いのかと、毎朝、軽く葛藤。


そして、夕食だけはどれだけ忙しくても手作りするよう心掛けているので、朝、新聞をじっくりと読む時間はあっても、そうそう朝っぱらから朝食に手はかけられない、そう考えて開き直る。


それに朝は、まるで戦場のようにバタバタとして、目が回る忙しさだ。

北川は黙々と食パンを食べ進めるアイの髪を、霧吹きとブラシでいい加減に直してから、ゴムで一つにまとめると、アイの服を乾いた洗濯物の山から引っ張り出し、ソファに放り投げた。靴下が、一つ見つからない。洗濯物を掘り返していく。


「ほら、早く食べないと遅刻だぞ」


「ん、」


家中のゴミを一つにまとめながら、アイの支度が順調には進んでくれないのを不満に思いつつ、車のキーをフックから取る。バタバタと玄関を出て、まだ半分しか履けていない靴にアイの足をぐいっと突っ込むと、そのままアイを抱えて車に押し込んだ。


北川は片手に持っていたゴミを車のトランクへと放り込むと、「はい、出発っ」エンジンをガガガッと鳴らし、駐車場を出た。


✳︎✳︎✳︎


保育園に着いて、園庭に入っていくと、そこで必ず園長が出迎えてくれる。この園長先生は、職員の中でも率先して、毎朝ごみ拾いや掃除をしている。

掃除や家事が大変なことは、身にしみて分かっており、同じ男として北川はこの園長先生には、少なからず親近感を感じていた。


「おはようございます」

「北川さん、おはようございます。おはよう、アイちゃん」

「ん、おはよう」

「こら、アイ。先生におはよう、はないだろう」

「はは、いいんです。アイちゃんはいつも元気ですねえ」


相変わらずの笑顔で、アイの頭に手をのせる。


この園の、子供の人数の多さと出入りの激しさにも関わらず、それぞれの名前も全員を覚えている。この園長のいる園なら、大事な娘を預けられる、そう思って北川は信頼を寄せていた。

けれど、もうすぐ定年だということを、園長本人の口から聞いている。北川はその話題になると毎回、こんなにも適材適所な人はいないのにと思って、退職を惜しむのだった。


そんな園長と話を交わしたからだろうか、送迎帰りの車の中で、今朝新聞を読みながら思い出していた余命宣告の老人のことを再度、思い出す。


彼は、余生を静かに過ごす空間が欲しいと言った。


「趣味の部屋にしたいなあ、と」


それに対し北川は、空間コーディネーターとして、まずは彼が気に入る空間を用意することにした。


「出来たら、日本海側が良いです。でも、冬は寒いんでしょうか?」


「はい、やはり天候や気温は関係ありますね。太平洋側、もしくは沖縄近海だと、気温も暖かいですけれど。まあ、電気は通っていませんから、時代遅れの古い家電は使えませんが、自家発電機能のついた家電なら、幾らでも持ち込みはオッケーなので、暖房器具を入れてもらっても構いませんよ。そうなれば、ご希望の日本海側にしても良いのかなって、僕は思います」


「好きなんですよ、あの海が。若い頃、よく見に行きました」


「日本海って、荒々しいイメージですよね」


「ええ、あの岸壁に打ちつける波しぶきが、何ともカッコいいというか」


「一応、確認ですが、」


「あ、知ってます知ってます。窓はないので、外は見えないんですよね。分かってますよ、大丈夫」


老人は顎を何度も打って、穏やかな笑顔を北川へと向けた。


「海岸に近い方が良いとか、他に何かご要望はありませんか? 一応、不動産側に出来るだけの要望を伝えますけど。でないと、遠洋の真上、ということにもなりかねませんので」


「良いです良いです、海の上ならどこでも。移動にかかる時間にそんなに差はないんでしょ。高くても低くても、遠くても近くても、どうせ景色は見えませんし」


「そうですか、ではその条件で探して貰います」


北川が手帳を閉じる。そして、表紙の色の違うもう一つの手帳を手前に引き寄せ、番号のついた付箋を指で辿ると、そこを開けた。ペンを持ち、ペン先をつける。


「では、空間の内容についてですが……まずは最低限、置きたい家具や家電を教えてください」


北川は自分の本来の仕事である、空間コーディネートの詳細へと入っていった。


✳︎✳︎✳︎


近年、色々な分野での技術が進み過ぎるくらい進むと、人は地球の陸地だけでなく、その陸地の上に存在する『空間』をも、有効活用できるようになった。今までは平面で生活し、その平面の上に存在する空間には、例えば飛行機で横切ったり、高層ビルなどで地続きに使われてはいたが、有効活用とは言い難い、微々たる範囲の利用に過ぎなかった。


けれど空中に、ある種のボックス空間を固定できる技術が生まれると、まるで一つの部屋をその空間に創り出すような、そんな感覚でたちまちに人々の居住空間と化した。


元々、少子化へと向かって流れていた時代も、医療の発達で老人の平均寿命は軽く100歳を超えるようになったし、生殖医療の解禁で夫婦はその希望に沿って、子供を何人でも持つことが出来るようになり、ある時点から急激に地球の人口は右肩上がりに増えていった。


ここ日本も例外にもれず、未だに人口を増やし続けている。その溢れ返る人々の住まう場所にと充てがわれたのが、空中においての『空間』だった。


基本は航空機などの飛行を邪魔しない、またやはり地上の建築物が最優先なので、なるべくその営みを邪魔しない、そういった細かい規制と許可の中で、人々は空間を着々と自分の不動産としている。


そんな中、比較的規制が緩いのが、海上の空間であった。海の上なら、それほど大きな建造物は無いので、手に入れやすい。今まで使われていなかった海上の空間は膨大な広さがあり、よって売り出し価格も安めに設定されているので、爆発的に人気が出たのだ。


そして、その空間への移動を可能にする、装置の開発。発明者は直ぐにも、今となっては過去の遺物の筆頭と成り果ててしまったが、いまだにひっそりと続けられている『ノーベル賞』の『物理学賞』を受賞し、脚光を浴びた。


空間から空間への移動。


地図に一点の印をつけ、離れた部分にもう一点の印をつける。地図などの平面で見れば、この二点の地点には一定の距離がある。けれど、例えば地図を立体的に丸めたり折ったりすることで、その地図上の離れた二点の地点をぴったりと近づけることが出来る。


そうやって、空間を捻じ曲げて対象の二地点を重ね合わせることを可能にした、『空間移動装置 エアリアルトランスファー』によって、空間は不動産化され、その個人所有の数字を押し上げたのだった。


「どうせ定年になったら、エアリアルルームを一つ買おうって思ってたんで、良いきっかけになりましたよ」


余命は二年。平均寿命が100歳を超えるというこの時代に、この目の前で微笑みをたたえる老人は、その余命宣告が正しければ、70歳で死ぬことになる。


こんな科学や医療が発展した時代でも、人間の英知では何とも太刀打ちできない『死』というものの存在。


「全力でやらせていただきます」


北川は恭しく言った。

老人は力強く頷いた。


それを見て北川は、自分はいつまで生きられるのだろう、保育園で園庭を駆け回るアイを思い出しながら、そう遠く思った。


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