09.起点
朝が来て、佳奈恵はいそいそと学校へ行く準備を始めた。
結局、具体的な作戦は何ひとつ思いついていない。
せめていじめの原因がどこにあるかわかれば、まだ対策もできそうなものだが、それすらも不明のままだ。
教室につくと朝のざわついた教室が一瞬だけ、しん、となった。
佳奈恵が来たことに気がついているものの、誰も佳奈恵とは挨拶をかわさない。
その状況を見て、改めて自分が異常な世界にいることを感じた。
彼らはいじめには加担していないが、味方でもない。
まっすぐに自分の席へ向かい、席についた。
そして、心を落ち着かせるために、軽く目を閉じた。
タイミングとしては、そろそろだろうか。
足音がして、佳奈恵のとなりで止まった。
そして、佳奈恵の机が激しい音を立てながら、壁へ向かって転がっていく。
「おい、なんで昨日休んだんだよ」
顔を少しだけ動かして隣りを見ると、腕を組んで佳奈恵を睨む芝崎礼香と、その後ろに佇む、大里志保美と安川彩菜のふたりがいた。
芝崎は長くウェーブのかかった茶髪を指でかき上げ、苛立たし気に、佳奈恵の座っている椅子を蹴った。
「お前、休むなっつったよな? 何勝手に休んでんの?」
佳奈恵が返す言葉に詰まっていると、始業のチャイムが鳴った。
先生が来る前に、芝崎は佳奈恵の肩を掴んで耳元で言った。
「お前、放課後死刑な」
いつもと同じだ。
佳奈恵が何をしようと、その『死刑』が変わることはない。
しかしながら、慣れとは恐ろしいもので、何か言い返そうと思っていたものの、いざ彼女を前にすると、思考をやめる自分がいた。
いじめられることが生活の一部に組み込まれていることが、たまらなく恐ろしかった。
日中、彼女たちが陰湿なことを仕掛けてくるのは、移送教室や体育など、教室を空ける時だ。
ノートや教科書の落書きも、その間にやられたものだ。
財布や携帯電話だけ身につけて移動しているが、それ以外のものは守りようがなかった。
今日は幸いにも、教室を空けることはないため、放課後の『死刑』だけ気にしていればよかった。
朝一番に、先生から身体の心配をされ、ただの貧血だったと言って、それ以降話題にあがらないよう気をつけた。
同じクラスの人たちも、佳奈恵のことに触れたくないのか、朝のホームルームが終わっても、それを話題にすることはない。
それでいい。
触れられない方が、気が楽だ。
授業はいつもと同じく、静かに進み、時間割り通りに終わった。
放課後になると、皆、教室で雑談することもなく、速やかにそれぞれ移動する。
部活に行く者や帰る者もいるだろうが、おおよその生徒が、これから起こることに巻き込まれたくないのだ。
教室の中に残ったのは、佳奈恵と、芝崎ら三人だけである。
全員がいなくなったところを見て、芝崎はまだ座ったままの佳奈恵のとなりに立った。
「おい、今日はやけに大人しいな」
そう言って、佳奈恵の髪を掴んで、引きずり立たせる。
いつもは苦痛に歪む顔をしている佳奈恵が、今日はただ冷ややかな目をしていることが気に食わなかったのだろう。
眉をひそめて手を離した。
「一日休んだら随分元気そうだな。おい、志保美、水もってこい」
芝崎がそう指示すると、後ろにいた大里が急いでトイレに向かって走って行った。
佳奈恵に向きなおった芝崎は、そのまま平手で佳奈恵の頬を打った。
「おい、何がそんなに気に入らないんだ?」
「別に……」
もう一度、平手打ちが飛ぶ。
「誰が口利いていいって言ったんだよ」
もう一度、平手打ち。
誰もいない教室の中に、乾いた音が響く。
「水、持ってきました!」
「かけろ」
「はい!」
大里は、芝崎の顔色をうかがいながら、バケツに入った水を佳奈恵に向け、思い切りぶちまけた。
佳奈恵は少しだけ顔をそむけたが、全身がずぶぬれになっても、芝崎に視線を向けることをやめなかった。
その眼差しは、敵意を向けているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、かける言葉を探していた。
彼女に何と言葉をかければ聞いてくれるだろうか、とそれだけを考えて、必死に頭を働かせていた。
それが彼女には気に食わなかったのか、椅子を持ち上げて、佳奈恵の胴を打った。背もたれの部分がみぞおちに突き刺さり、佳奈恵は腹部を抑えて膝をついた。
「てめえ、ナメてんだろ? またボコってやるから立てよ」
「芝崎さん……」
呼吸ができなくて苦しい中、佳奈恵は絞り出すように言った。
殴られて声をかけるのは、初めてだったこともあり、芝崎の動きが止まった。
「なんで、こんなことするの?」
今思えば、一度も聞いたことがなかった。
いじめが始まった当初から、佳奈恵は嫌だと言ったことはあっても、彼女がなぜそういう行動をとるかについては、関心をもったことがなかったのだ。
「てめえが、むかつくからだろうが!」
芝崎は、苛ついたように、うずくまる佳奈恵の脇腹を蹴った。
ぐう、と痛みを押し殺して、佳奈恵は続けた。
「私が何か、芝崎さんに悪いことを、した?」
「しゃべってんじゃねえよ!」
芝崎は手に持った椅子で、佳奈恵の背を叩いた。
何度も、何度も、佳奈恵が顔をあげるのをやめるまで、その暴力は続いた。
取り巻きのふたりですら、頭に血がのぼった芝崎を抑えることができないらしく、後ろで立ちすくんでいた。
彼女らも被害者なのだろうか。
佳奈恵は少しだけそう考えたが、すぐに思考を切り替える。
今は、芝崎をどうにかする方法を考えなければ。
芝崎が殴り疲れて止まったところで、佳奈恵は机に手をついて、立ち上がった。
ふらふらとするが、それでも、芝崎に向かって、一歩踏み出した。
「ねえ、私の何が、そんなに嫌いなの?」
「なんだよ、なんだよこいつ……」
散々殴ったことで怒りが少し冷め、さすがに様子がおかしいと思ったのか、芝崎は怯んだ。
「私には、理由がわからないの。芝崎さんと会ったのも、今年が初めてだよね? どこで私に不満を持ったの? 教えてよ」
佳奈恵は真剣にその理由が知りたかったし、改善できるところなら改善したいと思っていた。
芝崎が近づいてこようとする佳奈恵を蹴り飛ばすと、簡単に床に転がった。
しかし、また佳奈恵は、ふらつきながらも這いあがる。
「クソ、気持ち悪いんだよ!」
芝崎が手元にあった机を持ち上げて投げつけようとしたところで、佳奈恵は一気に詰め寄って、芝崎の両腕を掴んだ。
「私にできることがあるなら、教えてほしいの。芝崎さんがこういうことをするのだって、理由があるんだよね?」
そう聞くと芝崎は、佳奈恵の両手を振り切って机を放り投げて、教室から出て行った。
取り巻きのふたりも慌ててその後を追う。
佳奈恵は少しぼうっと立っていたが、やがていつものように、荒れた教室の片づけをし始めた。
水をぞうきんで拭きとり、机と椅子を元に戻していく。
(聞き方が、悪かったのかな)
やはり、やったことのないことはそう上手くいかないものだな、と反省した。
しかし、今日の彼女の様子はいつもに比べれば余裕のないものであり、そこが気にかかった。
理由があるのは間違いない。
だが、それを教えてもらうにはどうしたらいいのか、わからない。
佳奈恵は帰路につきながら、ずっとそのことを考えていた。
しっかり考えてから行動しないと、何も変わらない。
(明日も聞いてみようかな……)
はた、と足が止まった。
「……明日は土曜日だ」
学校は休みだ。