03.悪夢の続き
二羽の白い小鳥が、木々の合間を飛んでいる。
ここ、藤ヶ崎神社の周辺の山に最近住み着き始めた鳥だ。
苔がむし、手入れなど全くされていない落ち葉だらけの境内で、無精ひげを生やして紺色の着物を身にまとった男がその様子を眺めていた。
彼はこの神社に住んでいる神様であり、名をそのまま、藤ヶ崎という。
この片桐市全域を守るため、もう長い間ここに住んでおり、いくつもの時代を経てきた。
とはいえ、ずっと目を離さずに見守っていたわけではない。
今日は三十年ぶりに目を覚まし、前と変わらず荒れ果てた境内の様子を見ていたのだ。
決して、放置されているわけではない。
この土地の管理を担当している人間には、放っておけと言ってあるのだ。
彼は二羽の小鳥を眺めながら、小さく呟いた。
「動物が住みつくのは久しぶりだな」
彼の後ろの誰もいなかった空間に、ひとりの巫女姿の女性が音もなく姿を現した。
「ハクセキレイは、人に馴れた種ですから、我々の気配にも鈍感なのでしょう」
彼女の眼鏡に太陽の光が反射して、鏡のようにきらりと光る。
男は苦笑して彼女に言った。
「詳しいね」
「情報は常に新しいものを、と言ったのは主さまでしょう」
そう言って神楽は藤ヶ崎に手の平サイズの板のような機械を見せた。
そこには彼女の言うハクセキレイの写真が写っている。
「いつの間に、お前はそんな玩具を……」
「玩具ではありません。今の時代、ラジオやテレビはもう古いんですよ」
「やだねえ。おじさんついていけないよ」
藤ヶ崎はそう言って一笑すると、神楽は淡々と言った。
「主さまはなぜお目覚めを? 五十年後に起こしてくれという命令だったと思いますが」
「ん? ああ、お上方がうるさくてね。ここ十数年で、全国的に悪霊の被害が増えているらしい。叩き起こされちまった」
頭をぼりぼりとかきながら、大きなあくびをする。
信仰の強さが能力に直結する神族にとって、現代の信仰心の薄さで長時間起きておくことは、非常に効率が悪い。
眠ることによって、その間に力を蓄えているのだ。
しかし、都の強大な神さまたちは、藤ヶ崎のような末端の神にも同じように手伝えと言う。
力のない神さまにとっては無茶ではないかと思うが、上からの命令には従うしかないのが、神族縦社会の厳しいところである。
「悪霊の増え方に、なにか感じなかったか?」
藤ヶ崎が聞いても、神楽はかぶりを振るばかりである。
「と、いうことは、隠れて憑かれてるやつばかりなんだろうな。探すのに苦労しそうだ。とりあえず、この片桐市の全域に結界を張って、やつらを中に閉じ込めるぞ。出入りを封じて、片っ端から祓って、おれは寝る。全部やっつけちまえば、文句も言われまい」
彼が意気揚々と、神社から正面の道路へ続く長い石段に足をかけた、その時である。
その正面を、二羽のハクセキレイが突然横切った。
「あっ――――」
思わずのけ反ったせいで、石段にかけた足が浮く。
声をあげる暇もなく、あっという間に、彼は長い石段を転がり落ちていった。
神楽はそんな様子を見て、慌てて下で寝転ぶ彼に声をかけた。
「大丈夫ですか!?」
「助けてくれ……。足が、動かない」
彼の右足は腫れあがり、見るからに折れていた。
それを見た神楽は、ため息をついた。
「主さま、あまりにも情けないお姿です……」
藤ヶ崎は神楽に肩をかしてもらって、痛む足を引きずりながら立ち上がった。
結界を張る前にこんなことになってしまうとは。
「木村のところに行こう。医者になっていたろ」
「迷惑になりませんか?」
「怪我をしてるんだぞ。おれは」
そう言って半ば強引に木村総合医院を訪れた。
ここで医者をやっている木村のことは、小さいころからよく知っている。
「藤ヶ崎さん、神族でも足を折ることあるんですね」
木村が感心したように言う。
藤ヶ崎も苦笑していたが、神楽から冷たい視線を向けられていることに気がつき、顔を引き締めた。
「いや、本当に運が良かった。お前のとこで診てもらえるなんてな。藤ヶ崎神社の管理こそできていないが、これだけ立派に医師をやっているなら、それもいい」
「はは、立派かは分かりませんがね。本当なら神社の清掃も外部の業者に委託したいんですけど、親父から怒られますから」
「ああ、おれが言ったからだな。できないならできなくていいんだよ。氏子の負担になるような神さまなんてのは、おれの主義に反する」
「だったらせめて、本業で奉仕させていただきましょう」
一通り骨折の手当てをして、そのあと、藤ヶ崎はふと何かに気がついて、辺りを見回した。
「ん? この辺、悪霊がいるのか?」
悪霊、と聞いて木村の顔が強張る。
「そんなはずない、と、思いますが……」
木村は自信なさそうに答えた。
「今日来たやつの中に、憑かれていそうなやつはいなかったのか?」
この医院の中には今、藤ヶ崎と神楽、それに木村の三人だけしかいない。
藤ヶ崎が感じた気配は、昼間のうちに訪れた誰かのものだろうと推測できた。
「いえ、今日はみんな普通の患者ばかりです。あれに憑かれているような人はいませんでした」
「だったら、まだ手を出していない、憑いたばかりのやつなんだろう。明日からよく注意しておいてくれ。何かあれば、連絡を頼む。まだ術は使えるか?」
そう言われて、木村は机の上にあるメモ用紙を手に取り、星の形を書いた。
それを顔の前に持ってきて、息をふっと吹きかけると、その紙が独りでに動き出した。
「これくらいですけどね」
「大丈夫だな。じゃあ、あとは任せたぞ」
松葉づえをつきながら、藤ヶ崎は颯爽と木村医院から出て行った。
これから土地を全て覆うための結界を張りにいくのだ。
悪霊は結界を張られると中と外の行き来ができなくなる。
全滅させると決めたからには、やっておかなくてはならない。
「足が折れているのに、大丈夫なんですか?」
「まあ、神さまだし、死なないから」
「死ななければよいというものでもないでしょうに」
「そう言うな。神楽は西と南を頼む。おれは東と北に結界を張って来るから」
神楽は呆れたようにため息をついて、姿を消した。
それを見送った藤ヶ崎は、足の痛みと戦いながらも、ゆっくりと結界を張る場所へ向かって歩き始めた。
満天の夜空と満月が、進む道を明るく照らしていた。
佳奈恵は、嫌な空気を頬に感じて目を覚ました。
「ここって……」
先程まで布団の中で眠っていたはずなのに、車の助手席に座っていた。
運転席には誰もおらず、車は停まっている。
車の前には、佳奈恵の背丈よりも大きく、細い針が地面から生えて、森のようになっている空間が広がっている。
空に星は出ていないのに、なぜか周囲はやたらと明るい。
佳奈恵は恐る恐る車から降りて、周囲を見渡した。
車の後ろは闇に覆われて、地面も見えなくなっているが、針の森の先にはぼんやりと、大きな洋風の屋敷が見える。
「行くなら、こっち、だよね」
ここでじっとしていても仕方がない。
所詮は夢の中だ。危なくても怪我をすることはないだろう。
佳奈恵は、針の隙間に足を踏み入れ、体をねじこむようにして、先に進んでいく。
まるでアトラクションのようなその森は、どうにか人間ひとりが通れるだけの隙間が空いている。
上手く進んでいけば、それほど時間をかけずに抜けられそうであった。
屋敷に近づいていくにつれて、その二階の窓に灯りがあることに気がついた。
誰かいるのだろうか。
そう考えると、窓に人影がちらりと見えた。
佳奈恵の心は、徐々に恐怖よりも好奇心が勝っていった。
あの屋敷の中はどうなっているのか、誰が住んでいるのか、そればかりが気にかかり、足は次第に速まっていく。
針の森を抜けると、屋敷の玄関までの間には、石畳が敷き詰められていた。
その道の端には銀色に鈍く光る金属でできたバラが咲いている。
佳奈恵が不思議がって触ってみても、精巧にできたバラであることしかわからなかった。
「誰がこんなことをしているんだろう」
針の森や金属のバラが、自然と生えているはずはない。
作った誰かがいるはずだ、と佳奈恵は考えた。
すでに、ここが夢の中だということは忘れていた。
それほどまでに、現実的な質感や空気の流れがここにはあった。
屋敷の前に来ると、ふと、扉を触ろうとした手が止まった。
「なにこの嫌な感じ……」
扉の前に立ったまま、冷や汗と動悸が止まらなくなった。
入りたい気持ちと、入ってはいけないという気持ちとが、自分の中で渦巻いている。
どうしよう。
中を見たい。
でも、見てはいけない気がする。
佳奈恵は扉の前で立ちすくんでしまった。
後ろを見ても、針の森が続くばかりで他に道はない。
屋敷の後ろには回り込めないように、有刺鉄線で生垣が作ってある。
「大丈夫、大丈夫」
心を落ち着かせて、扉のノブに手をかけた、その時である。
手の平に、ちくりと痛みが走った。
慌てて手を見ると、小さな傷ができていて、そこから血が流れ出している。
しかし、ドアノブに針のようなものはついていない。
そして、佳奈恵は周囲を見渡した時に気がついてしまった。
金属のバラが、少しずつ動いて、佳奈恵の背後を完全に取り囲んでしまっていることに。
「そんな、さっきまであそこにあったのに!」
来た道を戻ろうと、バラに手をかけても、佳奈恵の力では曲げることもできない。
それどころか、まだ少しずつ佳奈恵に向かって成長していっている。
「おかしいよ! なんで動くの!?」
逃げようとした佳奈恵の足にバラが絡みついている。茎のトゲが足に食いこみ、鈍い痛みを伝える。
「やだ! 助けて!」
バラはまるでヘビが獲物を飲み込むように、徐々に佳奈恵の体を包んでいく。
もがけばもがくほど、佳奈恵の体にバラのトゲが食いこむ。
全身を冷たい金属に覆われ、絞めつけられていく。
息ができないほど強い絞めつけで、声をあげることもできずに、全身がきしむ音を聞いた。