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けものつき  作者: 樹(いつき)
第一章
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02.悪夢の始まり

今年片桐東中学校の一年生である加賀山佳奈恵は、母親の亜美と共に木村総合医院を訪れていた。

学校から帰ってきた佳奈恵の身に何か所もあった青あざをみて、母が慌てて病院へと連れて行ったのだ。


白くて清潔感があり、消毒液の匂いがする待合室で、佳奈恵は母と診察の順番を待っていた。


「加賀山佳奈恵さん、診察室へどうぞ」


名前を呼ばれて、ひとりで立ち上がった佳奈恵を見て、母は心配そうな顔をする。


「大丈夫なの?」

「うん、ひとりで行ける」


佳奈恵はつかつかと歩き、診察室へ向かった。

中では白衣を着た、四十代の男性が座っていた。

髪は整髪料でオールバックに固められており、ヒゲは綺麗に剃ってある。

彼がこの医院の院長をやっている、木村卓志先生だ。


「今日は、どうしたの?」


木村先生が優しく佳奈恵へ聞いた。


「ちょっと、学校の帰りに転んでしまって」


そう言って、佳奈恵が腕の青あざを見せると、木村先生は他にも痛むところはないかと、全身をくまなく触診した。

そして、しばらく何か考えたあと、木村先生は言った。


「本当に転んだ?」

「……はい」

「転んでこういう打ち身の仕方をしたなら、相当な距離を転がったはずだよ。じゃないと、全身に打撲のあとがある説明がつかない。だけど、君はまったく擦り傷を作っていない。君の話が嘘だと言うわけじゃないけど、何かあるなら話してごらん」

「いえ、ありません。転んだんです」


頑なにそう言う佳奈恵に、木村先生は諦めたようで、それ以上追及しなかった。


「わかった、君を信じよう。でも、誰かに言いたくなったら、すぐ言うんだよ。両親や、言いづらかったら僕でもいいからね」


佳奈恵は何も返事をせず、服を着た。

木村先生は、困ったように笑いながら、懐からアメのような包み紙を出した。


「疲れたらこのアメを舐めてみて。これね、元気の出るアメだから」

「はい、ありがとうございます……」


半ば無理矢理手渡されたアメを、佳奈恵はポケットにしまう。


「それじゃ、レントゲンもとるから」


木村先生は看護師に指示を出した。


「はい、では加賀山さん、こちらへどうぞ」


その後、レントゲンをとって骨に異常のないことを調べると、佳奈恵はいくつかの薬を処方されて、帰路についた。


病院にいたうちに日が傾き始め、夕暮れが佳奈恵の母の車を照らしている。

燃えるような景色の中を歩き、佳奈恵は車の助手席へ乗り込んだ。


佳奈恵は腕をさすりながら、考えていた。

本当は、転んだ怪我などではない。


学校でいじめられて、ほうきで殴られた跡だ。

でもそれを母親に話せば心配させてしまう。


だから、佳奈恵は誰にも話せなかった。

いじめられている理由もわからず、それでも、時間が経てば向こうだって飽きてやめるだろうと、ただただ耐えていた。


暴力をふるわれることが、つらくないということはない。

はっきり言って、死ぬほどつらい。

でも、誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷つく方がいい。

それは、耐える強さであったが、人に頼れない弱さでもあった。


(あ、アメもらったんだった……)


木村先生にもらったアメを取り出して、包み紙を空ける。

灰色の、見たことのないアメだった。

口に入れると、ほんのり甘いが、美味しいとは言いづらく、佳奈恵はもやもやとした気持ちのまま、窓の外をぼうっと眺めていた。


車は道路を進んでいく。

タイヤがごうごうと音を立てる。

心地よい振動に揺られ、いつの間にか、佳奈恵は眠っていた。


目を開くと、まだ車に乗っていた。

景色は暗闇に変わり、どこともしれないところを走っている。

帰り道にこんな場所はないと、佳奈恵はすぐに気がついた。


「ここどこ?」


佳奈恵が窓の外を見ながら聞くと、となりで運転している母が言った。


「どこ、どこ、こかかかかか」


母はまるで壊れた機械のように、声を吐き出した。

その声も、どこかおかしく、記憶の中にある母の声ではないように感じる。


「……お母さん?」


母の顔を見ると、両目がなく、歯や舌のない口がぽっかりと空いていた。

顔に空いた三つの穴は、表情もなく、ただ前を向いている。

佳奈恵は一瞬、何が起きているのかわからず、頭が真っ白になり、固まった。


となりにいる母親の状態がおかしいことを認識すると、耐え難い恐怖が、腹の底から沸き出て来た。


「なに、なにこれ!? お母さん!」


慌てて掴んだ母の腕はまるで金属のように冷たく、佳奈恵は驚いて手を離した。

さらには、母の目や口の穴から、無数の小さな針のようなものが、ちらちらと見えている。


これはお母さんじゃない。

そう判断しても、狭い車内の中では、逃げる場所もない。


車は暗闇の中をどんどん進んでいく。

そして、不意に、ぱっと明るくなった。


どうやら長いトンネルをくぐっていたらしい。

トンネルを抜けた先にあったのは、無数の針が生えた森のような場所であった。

闇の中でも、まるで月があるかのように、無機質に光っている。


その森に、車の通れそうな道はないにも関わらず、どんどんスピードを上げていく。

母だったものは、ケタケタと不気味に笑いながら、佳奈恵の方を見ている。


「ぶつかる!!」


目をぎゅっとつぶった佳奈恵の体に大きな衝撃が走り、ハッと目を覚ました。


「どうしたの? うなされていたけど、大丈夫?」


となりには、佳奈恵のよく知っている母の姿があった。

現実に戻ってきたのだと分かり、激しい動悸をさせる心臓を抑えるように、手を胸元にもってきた。


ひどい汗をかいており、まだ頭がくらくらとする。

なんと恐ろしい夢だったのだろう。


でも、たかが夢だ。

佳奈恵も家に帰りつくころには、夢のことなど忘れていた。


片桐市の住宅街にあるアパートの一室に住む加賀山家に、灯りはない。

佳奈恵は母とふたり暮らしであった。

父は佳奈恵が物心つく前に火事で命を落としてしまったため、母は女手一つで佳奈恵をここまで育てあげた。


佳奈恵も働きながら子育てをした母を尊敬しており、だからこそ、これ以上負担をかけられない、と思っていた。


学校の制服を脱ぎ、ハンガーにかけて、佳奈恵は部屋着に着替えた。

母は晩御飯の準備に取り掛かっている。

その間に宿題を済ませておくのが日課である。

手伝いは休日だけにするというのが、この家での決まりであった。


佳奈恵は寝室にある勉強机に向かう前に、台所にいる母の姿を見て、こちらを見ていないことを確認したあと、教科書とノートを取り出した。


その表面には、油性ペンで落書きがされている。

『死ね』や『バカ』などの罵詈雑言が、表にも裏にもびっしりと書かれている。

こんなものを母に見られるわけにはいかない。


ひとまず開いていれば母からは見えなくなるので、安心して宿題ができるのだ。

しばらくすると、美味しそうな匂いが佳奈恵のところへも漂ってくる。

今日は煮魚だと言っていたから、たしかに醤油とみりんの甘辛い匂いがする。

それと、味噌汁の匂いも。


この時間は、佳奈恵にとって一日で一番好きな時間であった。

早く宿題を終わらせて、寝るまで母とゆっくり過ごしたい、という気持ちを思い起こさせる。


晩御飯ができるまでに、集中して宿題を終わらせた。

できれば、母がこちらに来る前に片づけてしまいたいからだ。

急いで教科書とノートをカバンにしまい、明日の学校の準備をする。


本棚に並べられた教科書は、少しでも指をかければ黒い油性ペンの跡が見えてしまうため、佳奈恵は気をつけて慎重に手早く、カバンに詰めていく。


「佳奈恵、ご飯できたよ」

「う、うん、こっちも終わった」


声をかけられて心臓が跳ねあがったが、こちらを見ていない母の姿を確認して、用意を終わらせた。


メインの煮魚と、冷蔵庫に常備してあるほうれん草のおひたしやひじきの煮物が食卓に並べられている。

佳奈恵の母は料理上手で、どんなに忙しくても一汁三菜を欠かしたことがない。

佳奈恵はそれを当たり前とは思わずに、毎日すごく感謝していた。


そして、それに見合える娘になろうと、必死に勉強をしていた。

母の頑張りに応えられる手段が、勉強の成績しかないのだ。

いじめなどに構っている暇はない。


晩御飯を終え、ふたりで仲良くテレビを見て、それから九時には床についた。

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