15.降雨のなかで
式神を自在に動かす練習をし始めて、数日が経った。
その日の朝、空は鉛色の雲に覆われていた。
雲と結界のふたつに包まれた空からは、まるで全ての色が失われたかのように見える。
ヒトガタを探すことになった佳奈恵だったが、学校で探す前に、どうしても先に調べておきたい人がいた。
芝崎礼香が学校に来なくなってひと月半も経過している。
不登校の生徒は、出席日数の関係上、図書室や保健室などの他の生徒が来ないようなところで勉強をすることもある。
しかし、芝崎がこっそり登校してきている様子は今のところない。
昼過ぎになって、雨が降り始めた。
今日は夜まで雨が降ると天気予報で言っていたが、どうやらその通りになりそうだ。
授業が終わり、放課後になると、みんなクモの子を散らすように足早に帰って行く。
玄関口で迎えを待っている人もいる。
雨は景色を遮る銀の幕となって降りそそぐ。
風がほとんどないため、滝のように上から真っ直ぐに落ちてきている。
佳奈恵は紺色の傘をさして、玄関口を出た。
泥が跳ねて、足にまとわりつく。
これから芝崎礼香の家へ向かう。
そのための準備は、すべて終えている。
歩きながら佳奈恵は何度も祈った。
どうか、悪霊が憑りついていますように、と。
それは決して、悪い意味ではない。
悪霊が原因で学校に来られないのならば、祓えばいいだけだからだ。
芝崎の家に到着して、佳奈恵は絶望した。
「これ、ダメだ……」
ひと目でわかった。
芝崎の家全体から、まるで煤煙のように、黒い霊子が溢れている。
調べるまでもなく、この家には悪霊がいる。
「カガシ、芝崎さんが家の中にいるか探して」
佳奈恵のカバンから飛び出したカガシは、その薄い体を活かして、扉の隙間からするっと中へ入っていった。
カガシの見ているものや、聞いている音は佳奈恵にはわからない。
言葉が通じるわけでもない。
だけど、合図の感覚だけは感知できた。
数分も経たないうちに、カガシから霊子を伝わる合図がきた。
やっぱり、この中に芝崎がいる。
佳奈恵はいてもたってもいられず、雨の中を走った。
藤ヶ崎神社へは少し距離がある。
走っても、一時間はかかるだろう。
わかっていても、走らずにはいられなかった。
どうしても、助けたかった。
まだ一度も面と向かって話せていない、あの子のことを。
学校の同級生たちは、佳奈恵が頻繁に芝崎を気にかけているところを見て、首をかしげていた。
あれだけのことをやった人のことをどうしてそんなに心配するのか、と。
佳奈恵もその感覚を他の人に説明できるほど、しっかりとはつかめていない。
ただ、彼女が暴力を振るっていたのは、快楽や暇つぶしが理由ではないと考えていた。
勘でしかないその感覚を、佳奈恵は信じていた。
それが真実でなくてもいい。
助けにきたことを怒られて、二度と会えなくなってもいい。
純粋に彼女を助けたい。
そのあとのことなんて、知らない。
だけど、原因を解決する手伝いができるなら、手を貸したい。
その気持ちが何なのか、佳奈恵にもわからない。
だから走るのだ。
一歩踏み出すたびに、水しぶきが跳ねる。
雨はまだやむ様子を見せない。
「神楽さん!」
藤ヶ崎神社の石段を勢いよくあがって、佳奈恵は雨音に負けないよう、大きな声を出した。
神楽は驚いた様子でこちらを振り返った。
彼女の周囲には透明な膜でもあるかのように雨が避けている。
「どうしたのですか? 傘もささないで」
「見つけたんです! ヒトガタを!」
この間話をしたばかりなのに、もう見つけてきたのか、と神楽は目を丸くした。
「藤ヶ崎さんは、どこですか?」
悪霊を祓うというのに、彼の姿はどこにもない。
「主さまは主さまの仕事をしています。佳奈恵さんが見つけてきてくれた悪霊は、私が祓うことになっていますから、安心してください」
神楽が指を横にすっと動かすと、佳奈恵の周囲にも雨を避ける術がかけられた。
「ひとまず、落ち着いて。社の中へ入って、服を乾かしましょう」
「そんなことしている時間は……」
神楽は人さし指を口にそえて、佳奈恵の言葉を遮った。
「体力が落ちれば、霊力も弱まります。これから悪霊を祓いにいくのですから、準備は万全でないといけません。わかりますね?」
そう言われて、佳奈恵は深呼吸を一度して、頷いた。
たしかに、焦りすぎていた。
目的が手の届くところに見えた途端、我慢ができなくなった自分を恥じた。
「すみません。少し慌て過ぎました」
「いえいえ、熱が入りやすいのは、若さの特権ですから。主さまをみてください。もう枯れ果てて、何が起きても眉ひとつ動かさないでしょう」
そう言って口を尖らせる神楽に、佳奈恵は乾いた笑いで返した。
社の軒下に座る佳奈恵の周囲に、神楽はいくつも小さな火を起こした。
術で起こした火だからか、雨にぬれても消えることはなく、暖かさが伝わってくる。
「ヒトガタは、学校の方ですか?」
「……はい。ずっと、そうなんじゃないかなって思ってる人がいて、今日見に行ったら、黒い霊子がたくさん漂っていて……」
「それは、その子から?」
「いえ、その子の家から……」
それを聞いて、神楽は難しい顔をした。
「佳奈恵さんが慌てた理由がわかりました。それはたしかに異常な事態です。ヒトガタの様子はどうでしたか?」
「まだ、会っていません」
しかし、芝崎があの家の中で元気にしているとは到底思えない。
昏睡状態に陥っている可能性は高い。
「もし、眠っていても、助けられますよね?」
佳奈恵は神楽にすがるような気持ちで言った。
芝崎を助けられるのは、彼女だけだ。
神楽は力強く頷いた。
「はい、絶対に助けます。任せてください」
神楽の頼もしい言葉に、佳奈恵は胸の前で手をぎゅっと握った。
雨でぬれた体はもうすっかり乾いていた。
屋根にぶつかる雨の音が部屋の中に響く。
久しぶりの雨だ。
礼香は部屋の隅で膝を抱えて座っていた。
外界を遮るように、頭から毛布を被って、じっと空中を見つめている。
部屋にノックの音がして、礼香はキッとそちらを睨んだ。
せっかくの静寂を壊されることに、激しい怒りを感じていた。
「れ、礼香さん……」
扉の向こうから母の声が聞こえる。
礼香は何も言わず、ただ扉を見ていた。
「き、今日の、食事です。ここに、置いておきます……」
弱々しい声で、母はそう言った。
ごと、と物を置く音がして、母はさらに続けた。
「……礼香、今日も、ここから出てこないの?」
そう言われると同時に、礼香の周囲から水の柱が飛び出し、扉をばらばらに壊した。
家が震えるほど大きな音がしたが、今はもうそんなことどうだっていい。
その向こうにいる母の首には、水でできた輪がつけられている。
礼香が指を向けると、その水の輪が、ゆっくりと絞まっていく。
首が絞まっていく母は、必死に水の輪をかくが、掴むことができない。
「うる……さい……」
擦れた声で、礼香は言った。
水輪の絞めつけをやめると、母はせき込みながら、逃げ出すようにして階下へ行った。
この一か月、こうして暮らしていた。
礼香はヒトガタになっていても、昏睡することはなかった。
この家で眠っていては生きていけないことを、本能的に感じているのだ。
だから、母を脅して、食事を持ってこさせている。
その気になればいつでも殺せると思った途端、言い様のない安心感に包まれていた。
母とあの男は、今や自分の奴隷だ。
体を生きながらえさせつつ、霊気を吸収する。
礼香とゲイハは、宿主と寄生生物という関係ではなく、共生の関係を築いていた。
母の持ってきた食事は、冷凍食品を温めただけのものだ。
礼香はそれを部屋に引き入れると、素手で貪るように食べた。
ケモノように振る舞うことに、もはや抵抗はない。
人間は、もう辞めた。
食事を終えると、礼香は泥のように眠った。




