12.鯨波
すっかり夜になってしまったころ、礼香は自宅に帰りついた。
歩みが遅くなったのは、さっきの薄気味悪い男のことをずっと考えていたからだ。
医者と言っていたが、そうは思えない。
ヒゲは伸びっぱなしで、何日も家に帰っていないような、風貌をしていた。
なぜあの時、それに気がつかなかったのだろう。
理由はわからないが、礼香は彼を清潔感のある大人だと認識していた。
自宅の扉を見ると、足取りはさらに重くなる。
しかしながら、帰らないわけにもいかない。
憂鬱な気分を押し殺して、礼香は自宅の扉を開けた。
「ただいま」
そう言っても、返る言葉はない。
奥のリビングでは、テレビのにぎやかな音と、母と、男の声が聞こえる。
礼香はキッチンに行って、適当にありもので夕飯を作ってしまうと、誰とも顔を合わせることなく、二階の自室へと向かった。
礼香にとって、それが日常であった。
同じ場所にいても、まるでいないかのように振る舞う。
それは、大変なストレスだった。
自室には、簡素なベッドと、机と椅子、衣装ケースがあるくらいであり、装飾らしいものや、雑誌などはない。
礼香にとって、ここはただ眠るだけの場所だ。
安らげる場所であるという感覚はない。
礼香は、黙って食事を終え、ベッドに寝転がった。
シャワーを浴びたいが、まだ下にあの男がいる。
彼が帰ってからでないと、シャワーは使えない。
そういう暗黙の決まりがあった。
かなり長い時間外にいたせいか、それほど時間もかけずに、礼香はうとうととし始め、やがては部屋の電気も消さないまま、寝息をたて始めた。
眠った自覚はあった。
だから、目を開けて天井を見つめている自分がいることに、違和感があった。
眠りに落ちたことだけは覚えているのに、目を覚ました記憶がない。
「今何時だろ……」
部屋のデジタル時計に目をやると、数字の部分が四角や三角に変形していて、読めない。
「うそ、壊れた?」
これを使って毎朝起きているのに、壊れられると困る。
起き上がって窓の外を見ると、真っ暗で何も見えない。
礼香はぼやけた頭で、その事実に気がついて、後ずさりするようにして、窓から離れた。
外の景色が、まるで暗幕を落としたように、闇に包まれているのだ。
礼香の家の二階からは、家の前の道や向かいの家が見えるはずであり、そこには必ず街灯がある。
それに、空に星や月がないのもおかしい。
「なんだよ、これ……」
そう呟いて、礼香は思い当たった。
「ああ、これは夢だ。だったら、そんなに気にしなくてもいいな」
考えることをやめて、夢なら何か面白いものでもあるかもしれない、と部屋から出た。
腹立たしいことに、別の世界には繋がっておらず、見覚えのある階段と、聞き覚えのあるテレビの音が聞こえる。
「夢の中にまで出てくるなよ……」
階下に行き、リビングの扉がしまっているところを見て、礼香はひとまず安心した。
夢の中でまで、母やあの男の顔を見たくなかったからだ。
扉の前で、少しの間様子を伺っていたが、中からはテレビの音しかしてこない。
いつもなら、耳障りな笑い声が聞こえてくるのに。
礼香は、中に誰かいるのか見てみたくなった。
この家に、自分の他に誰もいないことを確かめたかった。
少しだけ、扉を開けて中を覗く。
隙間から見える紺色のソファには、誰も座っていない。
「なんだ、やっぱり誰もいないじゃん」
一度、思いきりあのソファを使ってみたかった。
礼香はリビングに入って、ソファに近づいた。
正面には、カラーバーを映し続けるテレビがある。
音声だけはどこかで聞いたことのあるバラエティ番組のものが流れ続ける、異様な光景だ。
礼香がソファを回り込もうとすると、足に何か引っかかって、つまづいた。
何を踏んだのかと思い、足元を見る。
「ひっ……」
それは、人の腕だった。
青白い腕が、ソファの下から生えている。
礼香はゆっくりと、その腕の主を見た。
血の気のない、母の彼氏が、そこに倒れていた。
腕をつついても、体温はない。
冷たく、そして、濡れている。
その死体は、水の中から引き上げられたかのように、ずぶ濡れであった。
最初は恐ろしかった礼香も、死体の主が彼であることがわかると、段々と心地よく感じてきた。
「ざ、ざまあみろ。お前なんか、死んじまえ!」
礼香は、動かない彼の脇腹を、蹴った。
何度も蹴った。
息が切れて、立てなくなるまで、今までの鬱憤を晴らすようにして、蹴り続けた。
「あは、あははははっ……」
笑う体力もなく、礼香はソファに寝転がった。
こんな触り心地だったのか、このソファは。
ふかふかとしていて、まるで高級なマットレスのようだ。
「次は、あいつだ」
礼香は立ち上がって家の外に出た。
ここが夢なら、想像次第で何でもできるはずだ。
家の外は、いつもの見慣れた道ではなく、海の上だった。
空は黒い雲に覆われており、雨と嵐が吹き荒れ、波は右へ左へと暴れまわっている。
そんな地獄のような海に、一匹の大きなクジラのような生き物がいた。
体表は赤黒く、目が無数についており、海溝のような巨大な口がある。
そのクジラは海原を泳ぎ、礼香の目の前についた。
「乗れって?」
礼香はクジラの背に飛び乗った。
立ち上がっていても、風や振動の影響は感じない。
「お前、名前は?」
礼香が聞くと、クジラは雷のようにとどろく唸り声をあげた。
「ゲイハ? 何それ? まあいいや、あいつ、どこにいるかわかる?」
ゲイハはゆっくりと海の上を進み始めた。
家が遠く、小さくなるころになって、小船が見え始めた。
嵐の中で、今にも転覆しそうな、小さな木の船だ。
「助けて! 礼香!」
その中には母親がいた。
散々、娘を除け者にして、自分だけ人生を楽しんで。
礼香の顔には、冷たい微笑が浮かんでいた。
何度、こうしたかったか分からない。
でも、ここは夢だ。
なんだって、していいんだ。
礼香が手を母に向けると、海が波打ち、彼女を舟ごと跳ね飛ばした。
空中に投げ出された母は、もがきながら、海へ落ちる。
残酷なことをすればするほど、礼香の体はゲイハと同じ赤黒い色へと変わっていった。
礼香自身はまったくそれに気がつくことなく、快楽のために母をいたぶっていた。
「あー、楽しかった」
弱りきり、助けを呼ぶ声すらあげなくなった母に、礼香がとどめをさそうとした、その時だ。
荒れ狂う海の上に誰かが立ち、おぼれかけている母を庇っている。
その姿は、何度も見たことのある、礼香が一番嫌いなあいつだった。
「加賀山……!」
名前を呼ぶと、その輪郭がはっきりした。
どれだけ暴力をふるっても、まったくこたえる様子を見せなかった、加賀山佳奈恵の気丈な姿が、海の上に輝いて見えた。
どれほど波をぶつけても、どれほど言葉を浴びせても、加賀山は何も言わず、ただ首を横に振った。
まるで、こんなことをやってはいけないとでも言うように。
「こんなところでまで、良い子ぶりやがって!」
どれだけ怒りをぶつけても、加賀山に届くころには、その力を失って弱々しくなる。
「なんで、なんでだよ! 本当は、お前が一番、ここから消したいのに!」
感情が、溢れ出す。
礼香の体から黒い霊子が生まれ、ゲイハの体に吸収されていく。
ゲイハの皮膚がひび割れ、めきめきと音を立てながら、大きな口が開いた。
そして、鼓膜が破けるのではないかと思えるほど大きな声が響き、海の上から加賀山の幻想を吹き飛ばした。
母の姿も消え、海の荒れ模様は、嘘のように収まった。
礼香はその海のようにとても穏やかな気持ちになった。
溜めこんでいた感情を、ゲイハが食べてくれたかのようだ。
「ありがとう、ゲイハ」
礼香がそう言うと、ゲイハは甘えるような声で小さく鳴いた。




