11.接触
家へ帰りつくころには、辺りはもう真っ暗になっていた。
母がまだ帰っていなかったことに安心して、佳奈恵はアパートの鍵を開けた。
「次はもう少し早く帰らないとね……」
独り言をつぶやきながら、佳奈恵は部屋の電気をつけて、机の上にさっき習ったばかりの陰陽術が書かれたノートを取り出した。
五行のことは、なんとなく理解できた。
しかし、霊符の文字については、努力が必要であった。
連なった糸のような文字で、区切りがどこにあるのかもわからない。
佳奈恵は今日習ったこの文字を分解して、ひとつひとつどんな意味があるのか、詳しく調べてみようと決めた。
成り立ちが分かれば、そこから覚えられるはずだと思ったからだ。
明日は母が休みだ。
午前中のうちに、図書館へ連れて行ってもらおう。
そんなことを考えていると、母が帰ってきた。
「あ、おかえりなさい」
「ただいまー」
母はクツを脱ぎながら、佳奈恵に言った。
「佳奈恵、明日ひま?」
「え?」
質問の意図が分からず、佳奈恵は頭をひねった。
「片桐の博物館で、恐竜展やってるんだって。行かない?」
恐竜展とは、また唐突な提案であった。
佳奈恵も母も、恐竜に興味があると言ったことはない。
「なんで恐竜なの?」
「気分転換にいいでしょ」
母はそう言って、爽やかに笑った。
気を遣わせている。
佳奈恵は母の笑顔を見て、そう感じた。
佳奈恵は、素直に嬉しい気持ちと心配をかけてしまったという気持ちとが、複雑に胸中で渦巻いていた。
それを顔に出さないようにして、佳奈恵は明るい笑顔を見せた。
「ねえ、帰りに図書館に寄ってもいい?」
「じゃあ、朝から博物館に行って、お昼ごはんを食べて、それから図書館に行って、帰ろうか」
「うん!」
佳奈恵は、大きく頷いた。
次の日、佳奈恵たちは九時すぎに家を出た。
片道およそ十五分の道のりを行き、博物館の前へついた。
日曜日ではあるが、早い時間であったこともあり、人はまばらだ。
昼過ぎになると子供連れの人も増えるだろう。
いざ、展示場へ向かおうとした、その時だった。
(なんで、ここに?)
少し離れたところに、見覚えのあるウェーブかかった茶髪が見える。
芝崎礼香がなぜこの博物館に来ているのか、と佳奈恵は混乱した。
とはいえ、こんな公共の場で、佳奈恵に何か仕掛けてくることはないだろう。
そう信じて、佳奈恵は気がつかないふりをしようと決めた。
母に早く中へ入ろうと促そうとしたが、場所を移動する前に芝崎が振り返り、こちらを視界にいれた。
一瞬、驚いたように目を開き、すぐに無表情に戻る。
そして、彼女はつかつかと、歩み寄ってきた。
「え、あ」
判断能力が、うまく働かず、意味を持たない言葉が、口からあふれる。
それを聞いて、母はこちらに向かってくる少女が、佳奈恵の知り合いだと察したのだろう。
「こんにちは。佳奈恵のお友達?」
母がそう声をかけると、芝崎は見たことのない笑顔を見せた。
「はい。学校でも仲良くさせてもらっています」
その異常に落ち着いた様子は、そんな表情や声色ができたのかと驚くどころか、この人物が芝崎礼香ではないのではないか、とすら思えた。
「芝崎さん……」
「なに?」
佳奈恵が声をかけると、声色を変えず、彼女は言った。
「恐竜、好きなの?」
「……悪い?」
「ううん、悪くないけど、意外だったから……」
周囲には、いつもの取り巻きのふたりも、母親の姿も見えないところを見るに、彼女はひとりで来ているのだろう。
それほどまでに、興味のあることだったのか。
「じゃあ、もう、行くから。さよなら」
芝崎は軽く礼をして、足早に奥へ進んでいった。
「ひとりで博物館に来てるなんて、すごいね」
母はそう言って、感心していた。
「……うん。私も、びっくりしてる」
どう考えても、博物館にひとりで来るような人ではないはずである。
しかし、その本当の理由をいくら考えても、佳奈恵にはわからなかった。
それにしても、自分でも驚くほど、芝崎について知らなかったことがわかった。
学校以外では、こういう一面もあるのかもしれない。
「佳奈恵? どうしたの?」
「え? なんでもないよ。行こう?」
恐竜展と書かれた大きな看板のそばを通り、ふたりは中へ進んでいった。
大小様々な化石や、シダ植物、白亜紀の解説。
芝崎礼香は、その数々をゆっくり見て回る気分ではなかった。
(なんであいつがここにいるんだ!? しかも、母親を連れて!)
奥歯を強く噛み、礼香はずんずんと歩いて行く。
さっさと出て、一刻も早くここから離れたいのだ。
あんな不愉快なものと、同じ空間にいたくない。
この博物館には、二週間に一回ほどの頻度で訪れている。
考古学に興味があるわけでも、歴史に興味があるわけでもない。
非日常的な空間と、学校の同級生に会う可能性が低い場所がよかったのだ。
それを、加賀山佳奈恵に台無しにされた。
礼香はこれまでになく、佳奈恵のことを憎く感じていた。
唯一の楽園を壊されて、はらわたが煮えくり返っていた。
外へ出ると、太陽の光が顔を照らして、礼香は眩しさに目を細めた。
他に、どこかひとりになれるところはあっただろうか。
博物館の近くには図書館もあるが、読書の趣味もないのに図書館へ行っても、時間を持て余すだけだ。
片桐市の三波の方なら、人の来ない大きな公園がある。
しかし、歩いて行くには距離がありすぎる。
家へ帰るのだけは、絶対に嫌だった。
母が男を連れ込んでいて、居場所がないからだ。
父は、礼香が小さかったころにふたりを捨てて、どこかへ行ってしまった。
それからというもの、母も礼香を邪魔者のように扱っていた。
自分のやりたいことをやるには、子供が邪魔なのだ。
最初の数年間は大人しかった母も、今では毎日のように、家に男を連れ込んでいる。
そして、その間は帰って来るなと言って、少しのお金だけを渡して、家から礼香を追い出すのだ。
礼香もそんな家にはいたくなかった。
何度も家出することを考えたが、ひとりで生きていける自信がない。
まるで海の底に沈められたかのように、呼吸のできない、苦しい生活だった。
人と会えば、必ずそのことを思い出す。
だから、礼香は誰にも会いたくなかった。
全てを忘れられるには、誰もいない場所に行くしかない。
知っている人に、会わなくてすむ場所に。
礼香は先程思いついた、三波の公園を目指して歩き始めた。
まだ午前中であり、この時間から外を歩いている中学生など、部活に向かう生徒くらいのものだろう。
誰かに鉢合わせする心配はない。
思惑通り誰にも会わず、太陽が真上に上がるころ、礼香は三波の公園についていた。
大きな湖を囲うようにして、整備された道が広がり、空へ向かって手を伸ばすケヤキが何本も植えられている。
鳥の鳴き声しか聞こえない、とても静かな場所だった。
もう少し日が傾けば、虫の音も聞こえてくるだろう。
礼香は何も考えず、湖のふちにあるベンチに座って、景色を眺めた。
しばらくしてから、コンビニで買った昼ごはんを取り出し、静かに食べ始めた。
考えごとですら、したくなかった。
解決しないことを思い悩むことで、心は疲弊していく。
食べ物がおいしい。
景色がきれい。
礼香の頭の中で思い浮かべることは、それくらいだ。
それ以上、深くものを考えないように、普段から習慣づけていた。
そうすることで、次第に時間の流れすら感じなくなる。
長い間じっとしていることが、苦ではなくなってくるのだ。
しかしながら外から見ると、派手な髪の色をした少女が、携帯も持たずに一時間や二時間もじっとしていると異様だろう。
そういう理由もあってか、外から歩いてきた年のころ四十くらいの男性が、礼香に話しかけてきた。
「やあ、となり、いいかな?」
礼香はあからさまに嫌そうな顔を作り、彼を見た。
短い髪をワックスで固め、どこか清潔感のある男性だ。手にはコンビニの袋をさげている。
「……どうぞ」
礼香はできるだけ端に詰めて、彼のために場所をあけた。
あと二回話しかけて来たら場所を移動しよう、と心に決めた。
「ありがとう」
彼は座るとコンビニのおにぎりを取り出して食べ始め、礼香の予想通り、ひとつ食べ終わったところで話しかけてきた。
「ここ、いいところだよね。よく来るのかい?」
「……いえ、初めて来ました」
「そうなんだ。ここに来る中学生なんて珍しいから、つい話しかけちゃったけど、迷惑だったかな」
「はい」
「はは、正直だね」
彼は笑って、お茶を一口飲んだ。
「僕はさ、医者をやっている者でね。今とっても悩んでることがあるんだ」
礼香は聞いてもないのに話し始めた彼の方を見ないようにして、耳だけを傾けた。
「今までずっと、人間の命を助けることに、従事してきた。でも、僕の力だけじゃ、どうしても助けられない命があった。それは、今でも変わらない。この現実世界で、彼らを救う方法はないのかもしれない。でも、逃がすことはできる。辛い世界で生き続けること、甘い世界で生き続けること。そのふたつのどちらかなら、君はどちらを選ぶ?」
彼は抽象的なことをつらつらと並べると、一呼吸おいて、礼香に言った。
「君は、死にたいと思ったことがあるかい?」
何を、聞いているのだろうか。
礼香は無視してそっぽを向いていた。
「この世界に居場所がないと感じたことは? 他人が怖いと思ったことは? 心に隙間を感じたことは?」
この人、普通じゃない。
気味が悪くなった礼香は、離れるようにして立ち上がった。
彼はただ、不気味に微笑んでいた。
そして、手の平を広げてみせた。
「何が見える?」
「何って……」
何もない。
何もないはずだった。
銀色の、ビー玉のようなものが、いつの間にかそこに現れていた。
不可思議な現象に、礼香がわずかに目を見開いたところを見て、彼は言った。
「見えたんだね」
次の瞬間、その玉が跳ねあがり、礼香の口に飛びこんできた。
急いで吐き出そうとするも、それは煙のように、姿を消してしまった。
「て、てめえ!」
声を荒げて正面を見ても、すでにそこに彼はいなかった。
それどころか、時間がまるで消し飛んだように、夕暮れへと変わっていた。
カラスが空を渡っていく。
礼香はただひとり、しばらく茫然と立ち尽くしていた。




