10.陰陽術
翌日、朝から仕事に出かけた母を見送って、佳奈恵は部屋でひとり寝転がって本を読んでいた。
陰陽師に関する本を図書館から借りてきて、その勉強をしていたのだ。
(陰陽師って、中国から伝わったんだ)
頭の中で陰陽師や悪霊のいる中国の様子を想像する。
たしかに、イメージはしやすい。
「わっ!」
突然、白い紙でできたハトが部屋に入って来た。
どこから入ったのかわからないが、それは佳奈恵のとなりに降り立つと厚みを失い、ただの紙に戻った。
おそるおそる開いてみると、それは木村先生からの手紙であった。
「藤ヶ崎神社……?」
陰陽術を教えてくれる人が藤ヶ崎神社にいることと、木村先生は用事があってしばらく会えないという内容であったが、その藤ヶ崎神社がどこにあるのか、佳奈恵は知らなかった。
手紙を何度読み返しても、その場所は書いていない。
(うーん、ひとまず、検索してみよう)
まず、スマートフォンを取り出して、インターネットで検索した。
しかし、片桐市内にある神社のなかにそんな名前のものはない。
佳奈恵はしばらく唸りながら考えていたが、やがて思いついた。
(そうだ! 郷土資料になら載ってるかも)
学校で地域の勉強をするということで、片桐市の情報が一冊にまとめられた郷土資料が配布された。
大して中身を読んでいなかったからよく覚えていないが、この近辺のことならあれになら載っているはずだ。
押入れの段ボールを出して、クリーム色の表紙に片桐市の風景が張りつけられた一冊の本を取り出す。
「よかった! 捨ててなくて」
それを持って椅子に座り、関係ありそうな歴史のページを読み進めていると、それはすぐに見つかった。
片桐市は、近隣の町と村が合併してできた市である。
佳奈恵の住んでいる辺りは、大陀村といい、昔はあまり人の住んでいなかったところだ。
大陀村には、村民を悩ませていた大蛇を退治した勇敢な男がおり、名を正兵衛という。
正兵衛は、火や水などの妖術を自在に操る男であり、大蛇から村を救ったあと、ふらっといなくなってしまった。
村民は彼を神の使いだと崇め、ついには社を建てた。
その社が、藤ヶ崎神社である。
藤ヶ崎という名は、正兵衛の苗字であるとされているが、真偽は不明である。
「……これだけ?」
たったの数行が、ページの隅に書かれているだけである。
他のページも探してみるが、藤ヶ崎神社という名が出てくるのは、ここだけであった。
少し落胆したが、この周辺であることは分かった。
大陀村は片桐市太田と地名を変えているが、その範囲はほぼ同じはずだ。
佳奈恵は地図帳を開いて、この周辺にある神社に、かたっぱしから印をつけた。
詳細な情報がないとなれば、総当たりしてみるしかない。
幸い、太田にある神社はそう多くない。
半日もあれば、回りきれるだろう。
佳奈恵はさっそく着替えて、外へ出た。
最近、季節の変わり目が分かりにくくなっているとはいえ、十月ともなれば、夏はすっかり通り過ぎていて、熱中症を心配するような日差しでもなさそうだ。
佳奈恵は、携帯の地図アプリに登録した神社の場所を目指して、歩き始めた。
片桐市は大きく分けて三つの町から出来ている。
ひとつは、片桐町だった部分、ひとつは、三波村だった部分。
そして最後に、大陀村だった部分である。
おおよそ、片桐町が片桐市全体の半分を占めており、残りの半分を、三波村と大陀村だった部分が、半分ずつ占めている。
以前は田畑だった部分も、十五年ほど前に土地開発が始まって、今ではすっかり大型ショッピングモールやマンションなどの建物でいっぱいになっていた。
周辺の市外には大きな店がないこともあり、土地開発から数年経った今でも、この辺りは人で賑わっている。
稀ではあるが、県外の車が来ていることもあるくらいだ。
名産や名所のあるような派手な市街ではないが、周辺の人間にはありがたい場所なのだ。
昔とは見違えるほどに開発が進んでも、変わらないものがある。
それが、神仏に関するものだ。
だから、地面が舗装され、高いビルができても、その間にぽつんと小さな神社や、道祖神だったのであろう巨石などが残されたままになっている。
佳奈恵は、そういったものをひとつひとつ辿っていた。
灰色の結界で覆われた空は、未だに言い表せない違和感を与えてくる。
しかし、誰にも見えていないため、この気持ちを共感してもらうことができない。
悪霊に憑りつかれて霊視が開いてからというもの、佳奈恵は今まで自分が住んでいた世界とは、少しだけ異なる世界が見えていた。
一番目立つものは、淡い色の光球だろう。
空中をシャボン玉のようにふわふわと漂っており、壁や地面を通り抜けている。
触ってみると、ほのかに暖かいが、掴むことはできない。
その他にも、小さな草のようなものや、糸くずのようなものが空中に見えるが、それだけであった。
想像していたような、化け物や妖怪はいないようだ。
佳奈恵はそんな不思議な景色を楽しみながら、すでに三時間ほど歩きまわり、いくつかの神社を回ったが、どこも目的の場所ではなかった。
さすがに少しだけ歩き疲れて、木陰にあるベンチに座って、休憩をとった。
ここは公園のすぐ近くで、大きな山が隣接している。
その山の中からは、街中よりも大きな光球が漂っており、佳奈恵は座ったまま、その様子を眺めていた。
(……あれ、何なのかな)
今まで見えていなかったのだから、木村先生の言っていた霊気が関係しているのだろうということはわかるが、あれの正体が何であるかはわからない。
しかし、嫌な気配はしないため、悪いものではないと感じた。
山の中をよく見ると、階段が見えた。
どうやら、上にのぼれるようだ。
ここはメモしていたところだったかどうか、地図アプリを起動して確認したが、地図上ではここには何もないことになっている。
階段の正面に行くと、山の入り口に大きな鳥居があることに気がついた。
なぜ地図に載っていないのか疑問に思いながら、佳奈恵は階段の先を見上げた。
大量の光球が、沸き出るようにして、浮かんでいる。
(何か、いる)
今まで見た神社でも、これほどたくさんの光球が浮かんでいるところはなかった。
佳奈恵は心臓が大きく鼓動をあげるのを感じながら、階段を上がり始めた。
光球が体に触れ、通り抜けて行く。
そのたびに、手の平で触れられたような、暖かさを感じる。
階段に生えている苔で滑らないように気をつけながら、佳奈恵は頂上まで登り切った。
目の前には、下にあったものと同じ大きな鳥居と、ボロボロの社があった。
雑草は生え放題で、石畳もほとんど割れている。
手入れをする人がいないのか、荒れ放題であった。
光球は、社を中心にして、地面から沸き出ていた。
「すごい……」
佳奈恵は、思わずそう呟いた。
「ええ、本当に」
背後から女性の声がして、佳奈恵は慌てて振り返った。
ボロボロの社の影に、赤い袴の巫女姿の女性が立っていた。
彼女は眼鏡を指で上げて、佳奈恵に言った。
「はじめまして。私は藤ヶ崎の式神、神楽です」
「あ、ああ、えっと、加賀山佳奈恵です。はじめまして」
神楽の深い礼に合わせて、佳奈恵も礼を返した。
「私もこの目で見るまで半信半疑でしたが、本当にここが見えるのですね」
「見える……? だってここ……」
佳奈恵が社に触れると、普通の木材とは質感が違うことに気がついた。
温度がなく、硬さもない。
ただ、そこにあることはわかるし、さわれる。
不思議な感覚だった。
「ここは、存在しない場所なんです。あなたは霊視が開いているから、鳥居や階段が見えたのですよ」
普通の人には見えない場所だから、地図にも載っていなかったのだ。
郷土資料本に載っていた話も、話の資料だけが残っていたとすれば、合点がいく。
霊視の開いている人は、何も佳奈恵だけではないはずだからだ。
「あの、私木村先生に言われてここに来たのですが……」
「ええ、聞いています。陰陽術が習いたいのでしょう? 主様はご存知の通り忙しいので、私が代わりに教えることになりました」
「そうだったんですか。よろしくお願いします」
「こちらも不慣れですが、頑張って教えますので」
神楽がそう言いながら、落ち葉を一枚拾った。
「まずは、少し休憩しましょうか。ああ、今日の予定は大丈夫ですか? これから基礎的な話や技術を一通り説明してしまおうと思っているのですが」
「はい、大丈夫です。ここなら、家まで一時間もかかりませんし、夕方くらいまでなら居られます」
そう言うと、神楽は微笑んで、手にした落ち葉を佳奈恵の足元に飛ばした。
すると、そこから木の根が生えて、瞬く間に籐編みの椅子を作り出した。
佳奈恵は驚きと感動で、少し興奮気味に言った。
「わあ、立派な椅子ですね。陰陽術って、こんなこともできるんですか」
神楽は自分の分も椅子を出して座り、佳奈恵にも座るよう手で促した。
「ええ、イメージさえきちんとあれば、霊気の量次第でなんでもできます」
次に神楽が放った落ち葉で、籐編みの机が現れ、そこに水の入ったコップまで現れた。
「これやっぱり、魔法ですよね?」
「陰陽術は、魔法とは少し違います。相性が明確にはっきりしていますし、何より魔法よりずっと攻撃的です。そもそも悪霊と戦うために作られた術ですから、攻撃以外の用途を想定していなかったのでしょう」
そうは言っても、神楽の出した椅子や机、水の入ったコップは、攻撃的ではない。
佳奈恵の表情を見て察したのか、神楽は言った。
「机や椅子を出そうと思えば、数十年は修行が必要ですよ。ガラスのコップは、百年くらいでしょうか」
「が、頑張ります」
「いえいえ、そこまではとても人間の寿命では難しいでしょう。佳奈恵さん、ええと、佳奈恵ちゃん、とどちらで呼びましょうか」
木村先生が『佳奈恵ちゃん』と呼んでいるからだろうか。神楽は困ったように言った。
「『さん』でお願いします」
『ちゃん』付けで呼ばれるのは、なんだか子供扱いされてるようで、少し恥ずかしいからだ。
「はい。では、佳奈恵さんは、陰陽術を使えるようになって、どうしたいのですか?」
「え?」
「具体的に、例えば、悪霊と戦う陰陽師になりたいのか、最低限自分の身を守れるようになりたいのか、日常生活で少し楽をしたいのか、何かあるでしょう?」
目的を決めてから、稽古の計画を立てるつもりなのだろう。
佳奈恵は包み隠さずに、正直に話すことにした。
「私、学校でいじめられていて……。どうしても変わりたくて、陰陽術を習いたいんです」
「じゃあ、実際に陰陽術を使って何かしようという気はない、と?」
「……はい。今のところはありません。悪霊と戦うのだって、母に心配をかけることになりますし」
「佳奈恵さんは優しいのですね。でも、力を持つと人は変わります。もし、攻撃的になりかけたら、その前に、一度深呼吸をして落ち着いてください。力があると、つい、力に頼りがちになってしまいますから」
「肝に銘じておきます」
神楽は陰陽術をいじめの復讐に使う気なのではないか、と心配しているのだろう。
佳奈恵にそのつもりは毛頭ない。
あれだけの暴力を日常的にされていても、芝崎のことを攻撃したいという気持ちが、そもそもないのだ。
いじめられっ子が格闘技を習いたいと言い出したら、まずは仕返すことを考えるだろうか。
精神的な強さを得たい、居場所が欲しい、など、目的は力を行使することに限らないのではないか。
佳奈恵としては、陰陽術を習いたいという気持ちはそういう類のものであった。
「あの、ひとつだけ、先に聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「はい、なんでしょう」
「この、空中を飛んでいる、ふわふわしてるものは、何ですか?」
ずっと気になっていた、奇妙な光球を指さして、佳奈恵は言った。
「ああ、これですか。これは、霊子と言って、霊気の塊です。私のような式神や、悪霊にとっては、空気のようなものですね。生きているものから、自然と沸き出るものなのですよ」
そう言われて、佳奈恵が自分の手の平を見ると、細かい泡のような霊子が指先から出て、雪のように舞っている。
しばらくすると、空中でさらに細かくなって消えた。
「霊視というものは、認識して初めて見ることができます。佳奈恵さんも、霊視が開いた直後は、これほど霊気や霊子は見えなかったでしょう?」
言われてみれば、今日になって急に見え始めたような気がした。
今までもあったはずなのに見えなかったのは、上手く認識できていなかったからだろう。
「さて、時間もあまりありませんし、まずは霊符の勉強からしましょうか」
神楽の取り出した札には、達筆で書かれたいくつかの文字と、星の印が入っている。
札によっては朱色の文字で書かれたものもある。
「これは、霊気のこもった札で、霊符と言います。面に書かれているのは、霊気に与える命令のようなもので、術の補助を行います」
そう説明を受けたものの、さっき神楽が葉っぱで術を使っていたことを思い出す。
「あれ、でもさっき……」
「これはあくまで補助ですから。何百年か特訓すれば、あれくらいできるようになりますよ」
気の遠くなるような時を過ごしてきた彼女の技量は、どうやら指標にはできないようだ。
佳奈恵は大人しく基本的なことを習うことにして、神楽の持っている霊符をよく見た。
「これ、日本語、ですよね」
「ええ、読めないでしょう? 昔の文字ですからね。まずはこの辺りから覚えていきましょう。技術的なことは、それからです」
神楽は、霊符に書かれている文字を、ひとつひとつ丁寧に、佳奈恵に教えた。
佳奈恵も持ってきていたノートに、間違えないよう書き写した。
そこまで終えて、日は傾きかけているが、まだ夕暮れにはなっていない。
神楽は空を見て、ではもうひとつ、と授業を続けた。
「五行についても教えておきましょう。今時の子にはこっちの方が簡単かもしれません」
神楽は佳奈恵のノートを借りて、そこに大きく星を書き、その先端に、木、火、土、金、水の文字を書いて、それぞれ外周を囲うようにして、線でつないだ。
「外側を繋いでいるのが相生で、星で繋いでいるのが相克です。相生というのは、木から火が生まれ、火から土が生まれ、という捉え方で構いません。悪霊と戦う時に重要なのは相克の方です。木は金で打ち消し、金は火で打ち消せる。これは不可逆なので、悪霊の性質を素早く判断して、相性のいい霊符を使うことが、陰陽師には求められます。しかしながら、人には得手不得手がありますから、相克には頼らず、影響し合わない術を使ったほうが効果のある時もあります」
「ええと、それは、例えば、相手が木だったら、土以外だったら、何でも大丈夫ということですか?」
「はい、その通りです。流石、飲み込みが早いですね。ああ、ちなみに、この五行を単体で呼ぶときには、火気や水気といったように、後ろに『気』をつけます」
佳奈恵は質問をしながら、一字一句もらさないように、ノートに書いていく。
まとめるのはあとからでもできるが、家に帰ってからでは質問もできないからだ。
五行の話を一通り聞いたところで、辺りが夕暮れに包まれ始めた。
佳奈恵はノートを閉じて、カバンに入れた。
「今日はありがとうございました」
「次は、いつ来られますか?」
「来週の土曜日です。日曜日は母が家にいるので、内緒で出かけるのは少し難しいです」
「分かりました。では、また土曜日に会いましょう。ああ、そうだ」
神楽は懐からスマートフォンを取り出した。
「番号、交換しておきましょう。連絡はこれでできますから」
「え、あの、携帯持ってるんですか?」
「ええ。これでも、現代を生きているんですよ。今の時代、これがないと不便ですから」
戸惑いながらも佳奈恵は神楽と連絡先を交換した。
驚いたことに、アプリまで使っているのだ。
「藤ヶ崎さんも、持っているんですか?」
「いえ、主さまは最近まで眠っていたので、こうした便利なものができていることを、知りません。教えても、使わないでしょうね」
藤ヶ崎の連絡先も知っておきたかったが、佳奈恵は諦めて携帯をしまった。
「あの、次は朝から来てもいいですか?」
「ええ、気にしなくていいですよ。私は式神ですから。何時だろうと、ずっとここにいます」
「ありがとうございます。私、頑張って陰陽術覚えます」
「期待していますよ」
神楽は微笑みながら手を振って、足早に去って行く佳奈恵を、階段の上から見送っていた。




