むごタラシい
――妻が、帰ってこない。
はじめは寂しがってぐずるだけだった子ども達も、今や不安と恐怖に駆られ泣くばかりだ。妻の無事を祈って神棚にへばりついている。
私は妻を捜しに行くことにした。長女に飯の支度を、長男に周囲の警戒を言いつけ、必ず妻を連れて帰ってくるからなと約束して。
雪はいつの間にかやんでいた。新雪が私の体重を受け沈みこむ。
妻はどこにいるのだろう、こんな山奥ではとんと見当もつかない。なにせ隣の民家まで5kmもある土地だ、まともな行先などあるわけがない。
妻の無事を願わないわけではなかった。どうにか生きていてくれと、祈っていた。
それでも諦めの気持ちを抱いたのは、苦しまないでほしいと想ったからだった。
私が妻を見つけたのは、朽ち果てた小屋のそばだった。
弾けんばかりの嬉しさと安堵の想いが押し寄せ、それから自嘲した。
何が苦しまないでほしいだ、妻は無事だったじゃないか。
はじめ、妻は小屋の外壁にもたれかかっているのかと思った。
やれやれ、脚を切ったか、それとも何か動物に襲われたか。なんにせよ、こうして見つかって良かった。子ども達が待っているんだ。おうい、帰るぞ。
妻の名を呼びながら近づいていき、私はふと疑問を抱いた。どうして妻は反応しない?さきほどまで雪が降っていたようなこの寒さで、まさか寝ているわけではあるまいに。
見るな、引き返せ、妻のことは諦めろ。何かがそう叫んだ気がした。
自分の生存本能からの忠告か、何者かからの助言か、それはわからなかった。
それでも私は小屋まで歩きつづけた。妻の姿を、確認するために。
身にまとっている着物は元の色を喪って、赤く染まっていた。
丁寧に梳かされ艶めいていた黒髪は血で固まってごっそりと抜け落ち、辺りにばらばらと散らばっている。
顔はべこべことアルミ缶のようにひしゃげていて、中に詰まっていたものが零れていた。
凄惨極まる状態の頭部と、そこから溢れた血と雪が融けた泥に侵された上半身に対し、下半身は生前と変わりなく、白く美しいままだった。着物を乱された形跡もない。
駆け寄って抱きしめれば良かったのだろうか。かつて妻だったその死体にすがりつき、胸に抱けば良かったのだろうか。私にはわからなかった。頭が凍りついていた。
何ひとつ動けず、目をそらすことすらできず、私は妻を見つめ続けた。
視線を移したらおそろしいことになるような、妻を襲った何かが私を狙っているような、そんな気がして。
***
――父が、帰ってこない。一夜明け、日が高く昇ったのにもかかわらず。
気丈な姉は父の言いつけどおりに下のきょうだいに手製の飯を用意して食わせ、全員をなんとか寝かしつけ、それからおれに茶を用意した。
姉もおれも、何も食べないまま夜を明かした。
自分の腹の中に生ぬるい何かを詰め込まれているような、得体の知れない気持ち悪さを抱えている。茶を飲んでも溶けて流れることはなかった。おそらく姉も同じだっただろうが、なんとなく気が引けて、互いに何も言わなかった。
下のきょうだいが起きるのも時間の問題だろう。父母が帰っていないのを知られればどうなってしまうかは、わざわざ想像するまでもなくわかりきっていた。
おれが意志のこもった眼で姉を見やると姉は首を振った。
姉が意志のこもった眼でおれを見やるとおれは首を振った。
互いに、互いを外に出してはいけないと、決めていた。
昼飯の時間を過ぎても下のきょうだいは起きてこなかった。ゆうべ散々な思いをしたから疲れ果てているのだろう。それは姉もおれも同じだったが、だからこそ眠れなかった。
姉がしびれを切らし、口を開いた。とうさんとかあさん、捜しに行こう。
おれが途中でさえぎった。やめよう、待っているしかない。
姉が絞り出すように懇願した。お願い、気が狂いそう、確認するだけだから。
おれが首を振って繰り返した。待っているしかないんだよ。
そんなやり取りを、おれから始めたり姉から始めたり、途中声を荒げては急に声を落として泣いたりし、明らかに感情が不安定になっていて、どうにもできないとわかっているのに歯痒くてたまらなかった。
下のきょうだいの面倒を姉に押しつけ、おれは家の前で薪割りを始めた。異様な空気の満ちている今、いつものように過ごしていないと、落ち着かなかった。
いつもの2倍の時間をかけ、いつもと同じかそれ以下の分量の薪割りを済ませたおれは、汗を拭きながら家へと戻った。下のきょうだいたちが走り寄ってくる。そこには姉の姿が無かった。
嫌な予感がし、次女に目を向けた。次女は今にも倒れそうな青白い顔でおれをまっすぐ見つめ、ただ一度だけ、ゆっくり深くうなずいた。
ねえちゃん、出てった。おしめ換え任されてて、わかんなかった。ごめん。
口から言葉を発するたびにじわりじわりと涙をにじませ、それでも懸命に話す次女を、責める気にはとうていなれなかった。腹を決め、告げるしかなかった。
ねえちゃんととうさんとかあさん、連れて帰ってくる。食べ物はたくさんとってあるから。にいちゃんたちが帰るまで、絶対、どこへも行くなよ。
***
――結論から言うと、これはもののけの仕業などではない。
母も、姉も、兄も、人間に殺された。
どこから話せばいいのか、さっぱりわからない。
父は他に女を作っていた。山のふもとで薬を売るとき引っかけていたらしい。
女は父のなにもかもを求めた。父は飽くまで遊びだと拒絶した。
それで、なにがどうしてこんなことになったんだ。かぞくは丸きりとばっちりだ。
なんとか犯人をつき止められたけど、告発する方法がわからない。
そもそも告発なんてできるわけがない。
このままぜんいん女に殺されるだけなんだから。
助けて、これを読んだら助けておねがい助けて。
やられる前に殺すなんてできっこない殺せない敵うはずがない
がさがさ音するどこからくるかわかんないよこわい助けてほしい
出―――
***
――開いたまま置き去りにされている冊子をあらためて眺めた。乱れた字の上に墨がぶちまけられていて途中から読み取れなくなっている。
冊子の近くに墨壺のようなものが転がっていた。泥にまみれ、雪に降られ、それは朽ちかけていた。
しゃがみこんで冊子を注視していた男は、大儀そうに立ち上がった。
振り返って、ふと近くの木を見上げると、髪の短い人間がいた。日が落ちかけ薄暗い山の雑木林の中で、血走った眼が爛々と輝き見えている。
よくよく見てみると、白髪交じりの中年女である。右手には首が落とされた小鳥が握りしめられていた。左手は太い枝に巻き付けられ、簡単に木から落ちてしまわないようにか、蔦を掴んでいる。
いとしい男を手に入れるがためにその持ち物をすべて破壊し、居座り続けた女、か。
眼を細めて鼻で笑ってやった。女が臨戦態勢に入る。
べつに、男は警察でもなければ正義に燃えるヒーローでもない。捕まえてしょっぴくようなつもりはさらさらなかったし、怪我をさせない程度に牽制して帰ることにした。
またひとつ、男は『面白い噺』を手に入れた。
これを客に聞かせたら、今度はどんな反応をするのかね。男は1人、嘲笑う。
人間とは、どこまでも素敵な動物だ。環境さえ与えれば、いくらだって面白い噺を生み出してくれる。それを集め、客に提供するのが、男の商売というものなのだった。
最後に出てきた男性に深い意味はありません。
だれかを唆したり暗躍したりしていた可能性は否定しません。