No.2 異変
異人島。
聞いたこともない、地図上で見たこともない島の名前に、篠崎は見て判るほどに落胆した。
恐らくここは日本ではないと、薄々感じながらも僅かな希望に賭けていた。
それが見事に打ち砕かれたのだから、篠崎が落胆するのも無理はなかった。
「そこまで落ち込むほどのこと? 認めたくはないけど、君はこの島に選ばれた特別な人間って事になるのに」
後ろにいる人物……アレアは、心底不満そうに言いながらも篠崎の首に当てていた短剣を離す。
それでも鞘には収めず警戒しているのは、先ほどの言葉通り篠崎を認めていないからだろう。
もっとも、篠崎にしてみれば島に選ばれるだとか特別な人間だとか言われても、全く訳が分からないのだが。
それよりも一緒に竜巻に巻き込まれた相田や香川の安否が気になるというのが正直なところだ。
「ま、いいや。仮に君が島に選ばれた人間だとしても、弱ければ死ぬだけだし……実際、弱いだろうし」
そう言いながら、アレアはその辺にあった簡易な椅子へ腰をかける。
そこで初めて、篠崎はアレアの容姿を確認した。エメラルドグリーンの短髪は透き通るように綺麗で、思わず撫でてみたくなるほどにふわふわしている。
篠崎が何よりも驚いたのは、睫毛も緑色っぽかったところだ。つまりアレアの髪は地毛ということになる。
(緑の髪なんて……どんな人種なんだ? 白人、とはちょっと違うだろうし)
肌はそれなりに白いが、どちらかというとアジア系の人種でも色白の方、という感じだった。
名前から日本人ではないだろうと予想しているのだが。
身長は高くもなく低くもなく、つまり平均的だ。大体170㎝くらいだろう。
年齢は15歳くらいで、まだあどけなさの残る顔立ちをしている。
ナトゥスと違って可愛いという言葉が当てはまりそうな顔だ。瞳の色は髪と同じエメラルドグリーン。
服装は首まで覆う厚手の上着に長ズボン、底の厚いブーツといった、夏にする服装とは思えない出で立ちだ。
ナトゥスほど目付きが悪いわけではないが、篠崎に向ける視線はかなりきついものだ。
「そこまで邪険にするなよ。俺もこいつのことは認めないけど、仮にも島が選んだ奴なんだから」
篠崎に対する嫌悪感を隠しもしないアレアに、ナトゥスは咎めるような視線を送った。
ナトゥスのそんな言葉に対し不愉快そうに眉を寄せたアレアは、篠崎を一睨みして顔を背けた。
「はあ……しょうもない奴。そんで、お前はどこから来た? レゼルニア帝国か?」
「は? あ、いや、違うけど」
聞いたことない国名に一瞬間の抜けた声を上げるも、篠崎はすぐに首を横に振って答えた。
篠崎の解答に、ナトゥスは不思議そうに首を傾げる。
「違うのか。髪の色が紫系統だから、レゼルニアかと思ったんだが」
「……紫? 黒じゃなくてか?」
「ああ。お前、まさか鏡を見たことが無いのか?」
珍しいもの、というより、奇怪なものを見るような目で篠崎を見つめるナトゥス。
当然、そんな視線を向けられるのが面白いはずもなく、篠崎は眉を寄せて不満そうに口を開く。
「そんなわけないだろ。俺が以前に自分の顔を見た時は、黒髪黒目だったはずなんだがな」
「いや、薄紫の髪に青紫の目だぞ」
「はあ……?」
こうもはっきりと自分の容姿について指摘されると、篠崎も首を傾げざるをえない。
「ほら、見てみろよ。どう見ても紫だろ?」
そんなことを言いながら、ナトゥスは姿見鏡を篠崎の前に置いた。
鏡には、ナトゥスやアレアに引けを取らないほどの美少年が映し出された。
「はっ?」
間の抜けた声を出しながら、身体を動かしてみる。鏡に写った少年も同じ動きをする。
つまり、この美少年は篠崎本人なのだ。
ナトゥスの言う通り、篠崎の髪は薄紫色の長髪で、頭の高い位置で綺麗にまとめられている。そのパッチリとした瞳はゾイサイトのような青紫だ。背はアレアとほぼ同じで、スラリとしている。前の篠崎より若干若返ったようで、13歳くらいに見える。「可憐」という言葉が似合いそうな、文句なしの美少年だ。
「どういうことだ? 誰だよこれ。ていうか、紫なんて変な髪色だったら、間違いなく校則に引っ掛かって生徒指導だな……」
「コウソク? セイトシドウ? お前なに言ってるんだ?」
ナトゥスは不思議そうに……というか、不審そうに首を傾げていたが、篠崎はそれどころではない。頭をフル回転させ、状況を把握しようと記憶を整理していく。
(まず、竜巻に巻き込まれて海に放り出されたのは間違いない。浜辺に打ち上げられていたんだし。それでこの島に……だけど、少なくとも日本地図は把握しているけど異人島なんて島は日本の付近にはない。つまり外国なんだろうが、ここまで流れ着くまでになぜ死ななかった? 溺死はもちろん、鮫とかに食われてたかもしれないのに。地図上で見たことが無いんだから、元居た場所からはかなり離れているはずだ。運が良かった? それだけでどうにかなるものか?)
整理するはずが、余計に混乱していく。
自分の容姿に関してもそうだが、目が覚めた時に感じた全身の痛みが今は全くなくなっていることにも気がつく。
黙って篠崎の様子を見ていたナトゥスが、不意に溜息を吐いた。
「……とりあえず、お前の出自に関しては後だな。招かれざる客だ」
その言葉に顔を上げた篠崎はナトゥスの視線を追う。
視線の先は窓。より正確にはさらにその先、外だ。
ナトゥスは長剣の柄を握り、いつでも攻撃に移れる体勢を取っている。
ナトゥスだけでなく、アレアも窓の外を睨み付け、短剣を構え直していた。
「なんだ?」
先ほどとは一変した二人の様子に、篠崎も警戒する。
窓の外はいつの間にか暗くなり、夜であることを示すかのように瞬く星々や、白く輝く満月が見える。
突如、その月明かりを遮るかのように人影が横切った。
そして木でできたドアが激しく吹き飛び、気味の悪い鳴き声が聞こえる。
「ギャギャギャギャギャギャ!」
入ってきたのは幼子ほどの大きさの、緑色の皮膚をした生き物。
尖った耳、落ち窪んでぎらぎらした眼、鉤状の鼻……醜いとしか言えない姿をしたその生き物を、篠崎は知っていた。
「ご、ゴブリン……?」
篠崎はファンタジーの小説やゲームを好んでいた。
その中でもゴブリンというモンスターはよく出てくるモンスターで、基本的に雑魚扱いされている。
だがそれはあくまでも物語の中でのこと。実際に目の当たりにすると夢なのではないかと目を疑う。
「なんだ、ゴブリンか。5匹くらいか?」
「そうだね。……にしても、ゴブリンがここまで来るなんて、あいつらは何やってんだか」
「さあな。無駄口叩いてないでやるぞ」
「はいはい」
呆然とする篠崎を余所に、ナトゥスとアレアはゴブリンをいとも容易く殺していく。
ナトゥスの奮う長剣は胴体を豆腐か何かのように切り裂き、アレアの振り下ろす短剣はまるで銃弾のような速さで頭部を爆散させる。
周囲に飛び散る血飛沫は窓から差し込んだ月明かりを反射し、一種幻想的な光景を生み出していた。
数秒。ゴブリンが建物に入ってきてから、たった数秒でその全てが地に伏せた。
周囲には鉄錆の臭いが漂い、篠崎は思わず眉を寄せた。
「最近ゴブリンが湧きすぎじゃないか? ここ数日で何匹殺したかも忘れたんだが」
「ゴブリンくらいならどうにでもなるけど……正直言って、この頻度で襲撃されるとさすがに面倒くさい」
血の海という非現実的な光景を生み出した本人達は、呑気にこんな会話をしながら武器に付いた血を拭き取っている。
二人がこういう事態に慣れていることの表れでもあった。
一通り片付けを終えると、アレアは篠崎に剣呑と言ってもいい厳しい視線を向ける。
「ゴブリン程度で驚くなんて、よっぽど安心安全な温室で育った高貴な人種なんだな。自分の身を自分で守ることすらできない弱い奴なんか邪魔でしかないんだよ。精々、僕の足を引っ張らないように壁にでもへばり付いて大人しくしててよね」
アレアの可愛らしい顔に似合わない罵詈雑言の羅列に、ナトゥスは同意見だといった顔をしつつも咎めるような視線を向ける。
アレアはアレアで、ナトゥスの視線は綺麗に無視して建物の外へ出る。
篠崎と同じ場所に居るのはごめんだ、とでも言いたげに。
「あいつがあそこまで明確に敵意を向けるなんて珍しいな。まあ、俺も弱い奴は嫌いだ。せめてゴブリン相手に怯まないでくれ」
ナトゥスも篠崎に呆れたような視線を向ける。アレアほどではないにしろ、その目には敵意が宿っていた。
(いや、そんな事言われてもな……安心安全という意味では、日本はかなり治安のいい国だったし。ていうか、信じたくはないけど、これが小説とかによくある異世界転生ってやつなんだろうな……)
ここで篠崎は漸く、自分が前の世界で死に、異世界へ転生したことを理解するのだった。
◇◆◇◆◇
「全く能力を持たない人間、か……」
異人島の中心部にある古ぼけた屋敷。
その屋根の上で、幼い男児は口元に笑みを浮かべた。
「ゴブリンやオーク、リザードマンの異常発生。草木の急激な減少。さらには、ここに来れるはずもない人間を引き寄せるなんてな……また、眠る時が来たのか。異人島よ」
見た目は幼いが男児の纏う雰囲気は大人のもので、妙な貫禄とでもいうべきものがあった。
満月に照らされたその姿は、見るものを魅了するほどに美しい絵画なのだが、残念なことに見ているものは一人として居なかった。
◇◆◇◆◇
「異世界から転生した?」
「ああ。どうもそうらしいんだよ」
ゴブリンの死体を片付けた後、ナトゥスに淹れてもらった紅茶を飲みながら、篠崎は自分の出自について話すことにした。
ナトゥスは信じられないという顔をしつつも、興味はあるのか大人しく聞いている。
「俺の居た世界は、モンスターなんてのはいなくて、武器も禁止されていた。比較的安全な世界だったよ。それ故に人類が発展しすぎるっていう問題はあったけどな」
「発展したら駄目なのか?」
「科学っていう学問と技術が発展して、自然環境とかに悪影響があったんだよ。異常気象とか森林の減少とか、大変なんだ」
「へえ。よくわからねえけど、魔法でどうにか出来るんじゃないか?」
ナトゥスは不思議そうに首を傾げながら、この島にも魔法が使えるヤツは居るし、と付け加える。
だが、篠崎の反応は目を見開いて硬直するという、ナトゥスにしてみれば滑稽で意外なものだった。
「この世界には魔法があるのか?」
「あ、ああ。……お前の世界には無かったのか?」
先程とは一転してきらきらと目を輝かせる篠崎に、若干気圧されたように後退りながらもナトゥスは頷いた。
もしも篠崎の元居た世界に魔法があれば、気象操作の魔法で異常気象を無くしたり、土系統の魔法で森林を取り戻したりも出来たかも知れない。
それ以前に、魔法があったなら科学が発展することも無かったのかも知れない。その分、不便なことも増えるかも知れないが。
魔法が有るか無いか、どちらがいいかは人によるだろうが、篠崎の場合は前者だった。
「魔法か……俺にも使えるかな」
「無理だな。あれは適性にかなり左右されるんだ。エルフとかの亜人ならまだしも、普通の人間で使える奴は千人居ても四、五人程度。お前がその四、五人に入る人間だって言うなら話は別だが」
「手厳しいな……」
山の頂点まで登り詰めていたのに、一気に谷底へ落とされたかのような顔をする篠崎。
その様子を見て呆れたように溜息を吐いたナトゥスだったが、ふと何かに気が付いたようにそう言えば、と呟く。
「ん? どうしたの?」
「言葉は同じなのかと思ってな。通じてるだろ?」
「……」
そう言われて、篠崎は自分が日本語とも英語とも、恐らく元の世界のどの言語とも違う言語を使っていることに気が付いた。
そして試しに日本語で話してみることにする。
『これが日本語。俺の元居た世界の、日本っていう国の言葉だ』
「…………なんて?」
ナトゥスは眉を顰めて聞き返した。
どうやら日本語は聞き取れないらしい。
「いや、ちょっと元の世界の言葉で話してみただけだ。言語とかはこの世界に適応されているみたいだな。言われるまで気が付かなかった」
「なんで全く違う言語なのに今まで気が付かなかったんだよ。ある意味すごいんだが」
ナトゥスの篠崎を見る目に、先程よりも色濃く呆れの色が映っている。
篠崎は苦笑しながら、ティーカップに残った紅茶を飲み干した。
もう冷えてしまっていたが、味は全く落ちていない。ナトゥスは紅茶を淹れるのが得意らしい。
(見た目に似合わず……)
内心でそんな事を思うが、口に出しでもしたら酷い目にあうだろう。
二度も死ぬのは嫌だと、篠崎は口を噤んだ。
篠崎の内心を知ってか知らずか、ナトゥスは溜息を吐いて口を開いた。
「で、お前の元居た世界は、モンスターもいないし武器も禁止されていた平和な場所だった……更に魔法もなかったと」
「ああ。正確には、武器が禁止されていたのは俺の居た日本という国だけだったけど」
篠崎が知らないだけで、他にも武器が禁止された国はあったのかも知れない。
だが、もう既に篠崎がそれを知る術はひとつとしてない。それに、知ったとしても今の篠崎には関係ない事だった。
「まあ、そんな温室みたいな生温い場所で育ったんじゃあ、ゴブリン程度で驚くのも頷けるが……」
ナトゥスはそう言うと口を噤み、暫く何かを考えていたようだが、数秒すると溜息を吐きながら篠崎をきつく睨み付けた。
「転生については何となく理解した。けど、お前が弱いままでいいということにはならない。この世界で新しい生を得たんなら、この世界で生きる術を身につけろ。最低限の助力はしてやるが、弱いままなら棄てていくぞ」
置いていく、ではなく、棄てていく。
その言葉から、目の前にいる男は自分のことを仲間ではなく他人だと認識していることを改めて理解する。
ナトゥスの視線から目を逸らしたくなる衝動を堪えながら、篠崎はなんとか小さく頷いた。
元々目付きが悪いために、ナトゥスに睨まれたりすれば、その視線はどんな者でも一瞬怯んでしまうような気迫がある。
ナトゥス自身もその事を理解しているが故に、篠崎を試す意味も込めての行動だった。
(まあ、俺に睨まれても目を逸らさないくらいには肝が据わっているか。かなり怯んではいたが)
篠崎の反応に少しだけ感心しながらも、それを表情には出さない。
ナトゥスは戦士で、表情から相手に行動を悟られないようにするための訓練をしていた。
いつの間にか表情を崩さないのが癖になってしまい、今では意識して表情を変えない限りどんなときも無表情で無反応だ。
「まずはこの島について教えてやるよ。ここは」
ナトゥスがそこまで言った時、唐突に地面が揺れ動いた。
かなり大きな揺れで、建物が悲鳴を上げるように軋む。二人とも立っては居られず、床に伏せて揺れが収まるのを待つ。
普通の人間なら恐怖から表情が強張ったりパニックになったりするところなのだが、ナトゥスは相変わらず無表情で特に驚いた様子もない。
篠崎も地震の多い日本で暮らしていたためか、はたまたつい最近体験した竜巻の方が恐ろしかったのか、こちらも特に取り乱してはいなかった。
数分して揺れが収まったのを確認し、篠崎はほっとしたように息を吐いた。
「大きな地震だったな……あの揺れでも倒壊しなかったこの建物を褒めるべきか?」
「……ここは、この島はな」
「おい無視か」
篠崎の言葉をスルーして、ナトゥスは続けた。
「災害は起こらない筈なんだがな。どうやら緊急事態らしい」
「え?」
災害は起こらない。その言葉はつい先ほどの出来事と矛盾していた。
だが、ナトゥスは巫山戯ているようにも嘘を言っているようにも見えない。表情は動かずとも、ナトゥスも困惑しているのが何となく判った。
「どういうことだ?」
篠崎の問いかけに対してナトゥスが何かを答える前に、突然後ろから声がかかる。
「ナトゥス! リルがいつもの場所に集まってくれって。その新しい子も連れて」
声のした方を振り返ると、明るい茶髪の青年が二人に向かって手招きをしていた。
ナトゥスのように人目を惹くような美形ではないが、それなりに整った顔立ちをしている。
青年の目は鮮やかな赤。ナトゥスやアレアとは違い、その目に篠崎に対しての敵対的な色はない。
身長は180㎝程度。年齢は10代後半から20代前半くらいだろう。
フードのついた上着にシンプルな五分丈ズボンといった服装をしている。
「メルクか……わかった。すぐに行く」
メルクと呼ばれたその青年は、ナトゥスの言葉に少しだけ微笑み、篠崎に視線を移す。
「えっと、傷の具合は? 全身に重度の打撲や擦過傷があったけど」
「え? 傷……あ、大丈夫、治ってる」
「そっか。よかった」
傷と言われて一瞬何のことかわからなかった篠崎だが、この島に流れ着いた時、全身が酷く痛んでいたのを思い出す。
篠崎が大丈夫だと言うと、青年は嬉しそうに笑った。
顔は全く似ていないが、頼れる兄のような雰囲気がどことなく相田に似ているように思えた。
「俺はメルク。ずっとこの島で育ってきたんだ。
あと、一応医者って事になってる。怪我や体調不良になったら俺に言って。よろしくな」
やけに友好的に(アレアやナトゥスとのギャップが激しくてそう感じるだけかも知れないが)接してくるメルクに、多少戸惑いながら篠崎も自己紹介をする。
篠崎はこの島に来て初めて、安心できたような気がしていた。




