転生者、ぽかぽかのちばしん
残念ながらその後ロンと若様に急用が入ってしまったので、私は報告を受け取ることが出来なかった。
それで、先に受け取っていた紙の束と格闘することにした。
領内の事件や陳情、とはいっても、きれいに清書された書類ではない。そうする価値を見出されなかった、案件以前のメモだ。
だから字が読みにくかったり、内容が要領を得なかったりして、読み進めるだけでもなかなか骨が折れる。
「相談者…ジェリ…ジェフリー?」
記録係、もう少し字の練習をしろ。
「ジェフリー(仮)が…買わされた魚が腐っていた?」
だめだ、苦労して読んだけどボツ。
これは、後からやっぱりあれが気になる、なんていって読み返そうにも探すだけで日が暮れそうだ…
ぞっとする想像に、私は一手間かける決意を固めた。面倒だけど、この膨大なメモに番号を振って要点だけでもリストにするんだ。本当は、これくらいしてあったら楽なんだけど…事件性なしと切り捨てられたメモたちだから仕方ない。
そんな感じであっという間に時間が過ぎ、紙の山の3分の1を整理して目を上げたときには、すでにお昼を大きく回っていた。3、4時間不休で机にかじり付いていたらしい。
途中で若い娘の失踪話が2件見つかった。町名から見て、ギルが言っていた娘さんたちだろうと思ったけど、ここにあるということは残念ながら事件未満として処理されたんだなと思った。他のメモよりは細かく書かれていたけど、失踪前に色恋の話があったということで、最終的に駆け落ちの線が強いと判断されたらしい。
「うーん…」
立ちあがって伸びをすると、ばきっと若者にあるまじき音が身体から鳴った。窓の外の日差しに、目がちかちかする。もともとインドア派の私も、これにはさすがに運動の必要を感じた。
気分転換と運動をかねて、食堂へ昼食をもらいに行く。
他の使用人さんは休憩室で食べることになっているし、反対の棟の役人さんたちはそちらの食堂で食べるか自前のお弁当を食べるかしているらしいけど、私とロンは若様の意向で一緒に昼食をとっている。今日みたいに若様がいないときもちゃんと準備してくれるのでとてもありがたいけど、申し訳ないなあとも思う。かといって別棟の食堂へ行けるかといえば、ついこの間まで立入を禁じられていた上に、年上のエリート集団が集う場所ということで、考えただけで怖じ気づいてしまう。そのうち向こうの棟にも仕事で出入りできるようになろうとか、そうしたら食堂にもいって、とかいう野望はあるんだけど、今のところ目処はたっていない。
昼食を受け取って執務室に戻る途中、中庭にさんさんと日が差しているのに気付いた。
中庭には、あれから一度だけ出たことがある。といっても近道をする若様にくっついて歩いて通り過ぎただけだ。向こうの棟よりも先に、中庭に慣れる方が現実的かもしれない。
冬だから、花も若草の色もないけど、代わりに人もいない。今日は風一つないし、日なたなら12月とはいえ温かい。中庭で温かい日差しを浴びてご飯を食べるのは、いい考えに思えた。
久々の一人ご飯だし。少しは外の空気を吸った方がいいし。
私は廊下の途中の扉から、そっと庭に出た。
そして、中庭でも東の棟に近いベンチを選んで座った。思った通りそこは太陽の光で温められていた。
薄いクレープのような皮で具材が巻かれている。中身のお肉や野菜はそれぞれしっかり下味がついていて、噛むと口の中でそれが混ざってとっても美味しい。仕事をしながら食べてもいいようにと、料理長はいつもこぼれやすいソースのようなものは使わない。だから、中庭のベンチでも、服にこぼす心配もなく安心して食べられた。
これは、ライナス様の学校が冬休みに入ったら誘ってもいいかもしれない。
美味しい昼ご飯と温かいベンチに満足した私は、のんびり弛緩した思考でそんなことを考えていた。
だから、目の前に影が差したときにすぐには気付かなかった。
「まあ、見苦しいこと」
声をかけられて気付いたときには、目の前にドレス姿のご令嬢が立っていた。
いけない。
急いで立ちあがった。だって、ここに入れるということは少なくともこのご令嬢はお城の関係者の近親者か同等の身分の持ち主で、彼女が身につけているレースたっぷりの光沢あるドレスもそれを裏付けていた。多分、手編みのレースだアレ。
「…お見苦しいところをお見せいたしました」
すでに指摘されてしまったし今さらだけど、深々と頭を下げる。
「私、治安対策補佐官のヘスター・グレンと申します」
あちらが名乗ってくれないと、こっちから聞くわけにはいかない…と思ったものの、そっと見た彼女の顔は記憶にあった。扇に隠されていても、美しい、気の強そうなこの顔は。
あの人だ。
この前、若様と踊った。
そうだ、エリザベス・ダドリー嬢。
あの髭男…もといダドリー伯の娘だから、この中庭に彼女がいることも納得だ。
問題は彼女が私なんかになんの用か、ということだけど。
「…」
彼女の目は、汚いものを見るように私を上から下まで見回していた。
この前はまるで眼中にないという態度だったのに、どういう風の吹き回しだろう。用だけ聞いてさっさとさようならしてしまいたいけど、身分が上の相手にこっちからべらべらと話しかけるのは不敬にあたる。だから、私は黙って彼女の視線にさらされていた。
視線、苦手なんだけどな。
それにこの目は、明らかに悪意の目だし。ほら、よく街中で娘さんたちから受けるやつと同じ。
そこまで考えて、ようやく私は彼女の意図に気がついた。
ああそうか、彼女も若様が好きなわけだ。だから、若様の側にいる私が気にくわない、と。
当たり前の帰結だけど、すぐに分からなかったのは、こんなきれいなお嬢様が私なんかを相手にするわけがないと思い込んでいたからだ。この前のパーティのときみたいに、目にも入らない、という態度こそが彼女にはふさわしくて、感じは悪いけどそれが当然だとどこかで思っていた。
こんなふうに私に嫉妬したり、目障りだとばかりに顔をゆがめたり…きれいで、身分もお育ちもいいお嬢様なのに、不思議。
そのとき、ぴくりと彼女の眉が動いた。
「なによ…その態度」
「はい…?」
私はびっくりしてしまった。だって、手を揃えて立っていただけだし。
「お気に障る振る舞いがありましたならば、お詫びいたします。改めますので、おっしゃって下さい」
「っあなたみたいな卑賎な人間が、あの方のおそばで息をしていることからして不敬だというのよ!」
それは、言われると思ってた。でも、身分ばっかりはどうしようもない。
だからなんとも答えようがなくて、エリザベス嬢を見返したんだけど、それがまた気に入らなかったらしい。
「たかが文官の身でふてぶてしい…!私をそんな目で見ていいと思っているの?!」
そんな目って。見つめ返したのがふてぶてしいってことになったのか。私が怯えもせずにぼんやりしていたのが、気に入らなかったってことか。
びっくりして、怖いのを忘れていただけなのに。怯えなくてごめんなさいというのも変だし、どう謝ろう、なんて言えばいいんだろうなんてまごまごしていたのがいけなかった。
あっと思ったときには、白っぽい扇子が目の前に迫っていた。
ばしん、という音がした。
同時に、目の前に一瞬白い星が飛んだ。
あ、これあたったんだ。
よけられるかな、と思ったけど、失敗したみたいだ。自分の運動神経のなさにびっくりした。
ようやく視界が戻ってくると、目の前のエリザベス嬢もびっくりした顔をしているのが見えた。
「…な、によ、避けないのが悪いのよ!」
それを聞いて、当たるとは思わなかったのかもしれないな、と思った。
なにか声をかけよう、と思ったけど、混乱した頭ではうまい言葉が浮かばなかった。そうこうするうち、彼女が動いた。
「あなたがいけないのよ!そうよ!全部、あなたがいけないんだから!」
そう叫ぶように言い捨てて、彼女は去っていった。
ちりちり違和感を感じて耳に触れると、たらりと赤いものが指についた。かすかに血の鉄臭いにおいが鼻をかすめる。
彼女の扇子の飾りがぶつかったのかもしれない。見れば足下に、白いレースの扇子が落ちていた。忘れて行ってしまうほど焦るだなんて、やっぱり思わずやってしまってあの人も相当動揺したんだ。お嬢様だし、最初は私に近づいたもののどう話しかけたものかもわからないような感じだった。なんでか意思の疎通が上手くいかなくて逆上させちゃったけど、暴力になれているようでもなかったし。そう思うと、不思議と怒りは湧いてこない。
私は、やけに冷静にそんなことを考えた。
実際、もう大した痛みはない。顔だったから一瞬驚いたけど、前に足をかけられて転んだときの方がよっぽど痛かったくらいだ。
ただ、場所が悪かった。
ため息がもれた。
これは、隠せないよなあ、と。
両親や姉たちが心配そうに眉を下げるのが目に浮かぶ。
そして、もっと問題なのは、今朝の一件もごまかしたままの若様とロンだ。あの二人がどういう顔をするのかと考えて、私はもう一度はあとため息をついた。
でも、このときの私は、これが原因でこの先にどういうことが起きるのか、なんにも分かっていなかったんだ。




