転生者のかくしん
布巾にソースを垂らしたのは自分。
でも、そんなつもりは全くなかった。
それに、ほんの一滴だったはずなのに、どんどん広がっていくのはひどい、といつも思う。
たった一滴だったはずのそれは、気付けば取り返しのつかないほどの大きな染みを作ってしまう。
数日後、私宛に手紙が来た。見るからに上等な封筒は水仕事で荒れた指先にも滑らかで、差出人を見なくても誰からかはすぐにわかった。
こんな紙を使える身分の知り合いは一人しかいない。
だから、私は読まずにそれを食卓に放置した。どうせ朝来たものを、忙しさにかまけて夜のこの時間まで放っておいたのだ。明日まで置いておいても、大して変わらない。
しかしこの行動は姉に見とがめられた。
「駄目よ、ヘスター!私が情感込めて音読してもいいの?」
ミラ姉なら、やりかねない。
しかも無駄にドラマチックにアドリブを織り交ぜて読むことだろう。
私は急いで彼女の手から手紙をひったくった。
「やめてよ、もう。分かったから」
部屋に戻って読むのも、意味深な目を向けてくる姉の的外れな期待を肯定するようで嫌だったので、その場で封を切った。もう寝るからと絞っていた照明の明かりを一段階大きくして、堂々と読むことにする。
実際、あの若様からの手紙だ、こそこそしなければならない話など何もない。
しかし、無表情を保とうと決めていた私の顔は多分、途中からひどいことになっていたのだと思う。
「ヘスター…大丈夫?」
姉の心配そうな声で我に返った私は、慌てて口を閉じた。
「大丈夫…じゃ、ないかも」
若様からのその手紙には、あのあとの事の顛末が書かれていた。
若様相手に投資詐欺を働こうとしていた男はその日の午後、待ち合わせの場所でそのまま捉えられ、もくろみを白状したという。やはり、若様が転生者の知識を地域経済の振興に役立てたいと願っていることを聞きつけて詐欺をはたらこうとしたらしい。
その男は自分はそそのかされただけだと主張して罪を軽くしようとしているらしいが、問題はそこではなかった。
私を凍り付かせたのは、その後だ。
話を聞きつけた若様のご両親が、私と話をしたいと言いだしたとは、どういうことだ。
「どうしたっていうのよ?」
呆然と立ちつくした私の手から、気の短いミラ姉が手紙を奪っていった。
「あら。あんたったら罪人捕縛に協力したの?」
「あら、ヘスターが?」
通りかかったモナ姉も手紙をのぞき込む。
「え、うそ。若様のご両親がお礼を伝えたいって…若様のご両親って、領主様ご夫妻のことよね?!」
ミラ姉の間抜けな言葉に突っ込む気力もわかない。
「まあ、すごいじゃない。領主様のお城に招待されたのね」
「身支度はこちらで調えるだって。気が利いているわ」
「あら、じゃあ何も心配いらないわねえ」
何も、心配いらない?
身支度を向こうが準備するから?
問題はそこじゃないでしょ、と私は胸の中で叫んだ。
言いたいことは山ほどあったけど、身体はまだ麻痺したように動かなくて、口から言葉が出て行くことはなかった。
「普通に生きていたら、庶民には一生ないようなチャンスよね」
「そうねえ。一生に一度のことだと思って、…ヘスター?」
姉たちは、そこでようやく私のことを思い出したようだった。
頭が痛い。
泣きたい。
なんだって、人助けをしたのにこんな面倒な思いをしなくてはいけないのだ。
あんな奴、助けるのじゃなかった。
別に知り合いというほどの知り合いでもないし、放っておけばよかった。
ああ、領主一家の大損は税金の無駄遣いだなんて、気付かなければ良かった。
ひどい。
どうしよう。
もう、わけがわからない。
「ヘスター?泣いているの?」
「まあ…どうしたの、ヘスター」
姉たちの心配そうな声を背中に、私は睡眠へと現実逃避するため寝室へ向かった。
手紙には二つの日付が書いてあった。
一つは、領主様ご夫妻が面会を望んでいる日。もう一つは、そのための身支度を調えにいくための日。
なにが気が利く、だ。
なんの気遣いだ。
本当に気を利かせるのなら、面会を中止にしてくれればいい。
若様だって私が人見知りなことはすでに知っているはずだ。面会がなくなれば、身支度も必要なくなって、私も心穏やかだ。
もしかして、二回目の視察で頑張って人並みに振る舞っていたから、人見知りも引きこもりも気のせいだと思われたのだろうか?だとしたら、せっかくの努力が逆効果だったということで、それもまた悲しい。
若様以上に偉い人との面会、しかもお城でだなんて、私にとっては拷問だ。絶対真っ赤になって固まるだけで、話などできないのが分かっているのに、何をしに行くのだ。
もう一つの方だって、家族でもない男の人とドレスだの靴だのを買いにいくなんて、苦痛以外の何物でもない。この地味で平凡な容姿でドレスを着るなんて、恥ずかしいだけだ。それも若様と一緒にとなれば、一体見る人にどんな憶測をされるか、考えただけでも恐ろしい。
『まあ、見てあの美男子。エセル家の若様よ…あら嫌だ、何かしらあの地味な娘』『嘘でしょう、ドレスを買いに行くわよ。どういうこと?身の程知らずな娘が、何か言いがかりをつけて若様に買わせようとしているのかしら』『どこの誰なのかしら?』
想像だけで背筋が冷える。
賭けてもいい。
万が一そんなことになれば、私は今まで以上に表を歩けない人間になるだろう。
今でさえ月に一、二度しか家を出ないのに。
「…まずすぎるでしょ」
きゅっと蛇口を閉じて皿洗いの手を止めると、常連さんと話しているらしいモナ姉の声が聞こえてくる。
我が家の看板娘であるモナ姉は適齢期がくるやいなや、見事に隣町の食堂の次男坊を籠絡した。やがては彼を婿養子に迎え、モナ姉が我が家を継ぐ予定だ。つまり私も、いずれはこの家を出なければいけない。
だから、嫌でも少しずつ引きこもりを卒業して、誰か結婚相手を見つけるか、手に職をつけるかしよう。
そんなことは、漠然と考えていたのだ。
それなのに、あんな目立つ人と出かけたら、ますます外を歩きたくなくなる。それでは結婚も就職も遠くなる。
待てよ、と私は思った。
すでに私は二回若様に街中を連れ回されている。これはあくまで視察のアドバイザーとしての同行だったが、傍目に分かるのは、私が珍しく着飾って歩いていたことだけだ。そして、この二回の『視察』を踏まえてのドレス作りは、なおさら人の誤解を呼ぶだろう。もうそれは、『万が一』という確率の話ではないのではないか。
頭の中のご婦人たちが、『聞いた?あの娘、この前も若様をつけ回っていたらしいわよ!』、『まああ!なんて図々しい!』と叫び出す。
「まずい…まずいよ…」
思わず声に出して呟いていたら、ぽかんと頭を殴られた。
「厨房で『まずい』『まずい』連呼するな!」
「はい…」
父の言うことはもっともだったので、私はとりあえず素直に頷いたが、でもやっぱりまずいよと、心の中で繰り返した。
もう一つ、重大な問題があった。
あの日私が使った『詐欺』という言葉のことだ。
私は一縷の望みをかけて、チキンライスのフライパンを振る父に話しかけた。
「ねえ、父さん。詐欺って、知ってる?」
父は振り向かずに答えた。
「ああ?そんなはやり言葉、分かる訳ないだろ。それより、そこに平皿二枚並べといてくれ」
「そうだよね…うん」
そんなはやり、ないしね。
私は言われたとおりに、洗った皿の山からチキンライスフライ添え用の皿を二枚素速く拭き上げて、作業台に並べた。
16年間生きてきて気付いていなかったのだが、この世界には『詐欺』という言葉が存在しなかった。そう言えば聞いたことがなかったし、よく意識すると、とそこだけ外国語を話しているような違和感があったのだが、それは後から分かったことだ。
この世界は、中でもこの国は、過去の転生者たちの活躍のおかげもあってとても豊かだ。
電気はないが、それに変わる別の異世界から導入されたエネルギーがあってどの家にも明かりがついているし、それがクリーンなお陰で都市化による公害問題も特になく、牧歌的な農業社会と商業社会の活気が混在したのどかな国が成立していた。
さらに、転生王妃のおかげで孤児院や病院などのセーフティネットも充実していて、真面目に生きていれば食べるに困らないので、治安も非常にいい。この国で耳にする犯罪で一番多いのは、酔っぱらいの喧嘩と痴漢行為だ。盗み、強盗、恐喝などもあるが、数として多くはない。
あの場は全力で誤魔化して、若様を立ち去らせることができたが、きっと彼は詐欺師をつかまえに行くのを優先しただけで、私の発した意味不明な言葉が転生前の知識だと勘づいているだろう。
「はああ…」
盛大なため息が漏れた。
せっかく転生前の知識でこちらにまだないものが見つかったと思ったら、犯罪がらみだ。何も商品価値がない上、厄介な人に気付かれてしまった。
私がうっかり口にした『詐欺』という前世の言葉は、勿論若様に指摘された。
つまり、領主ご夫妻の呼び出しも、息子を助けたことへの礼を伝えたいというのは建前で、詐欺についての知識を詳しく聞くためだ。
野心がある人間ならばそれを喜べるかもしれない。
でも、私は全くうれしくない。私の望みは、なんとか目立たず社会にとけ込み、独り立ちするというものだからだ。
お城に行って領主様方に『詐欺』についての知識を説明するのも、若様とドレスを買いに行くのも、どちらも『目立たない』という私の望みに相反する。自意識過剰なだけと言われるかもしれないが、本当に目立ったのではないかと恐れるだけで外に出にくくなるのだから、たかが自意識でも、私にとっては大問題なのだ。
皿拭きを再開していた私の背筋を、またぞくぞくと悪寒が走った。
お城には、行けない。
白い布巾を握りしめ、私はそう確信した。