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転生者のアフターファイブ

「大丈夫な訳?」

ミラ姉が、私の前にスープ皿を置きながら言った。

作業台に置かれたクリームシチューは美味しそうな湯気を上げている。早く食べたい。

「何が」

ふうふうシチューを吹く合間に問えば、姉は皿を拭きに戻りつつもこっちを振り返る。

「今ですらそんなに疲れた顔して帰ってくるのに、協会とお城と掛け持ちなんて。あんたそういうの器用な方じゃないでしょ?二足のわらじなんてきついんじゃない?」

ずばりその通りだ。だけど、自分でわかった上でやろうと思っていることをそう言われるとむっとするものだ。

「今日は、街で仕事だったから治安ナイトファンに睨まれて疲れただけだし。…いただきます」

私は言い訳をしながら、シチューを乱暴にかき回した。

もうすぐ店が忙しくなる時間だし、早く冷まして食べてしまいたい。

お城を退勤して、実家の厨房の隅で夕食を食べる習慣も、日常のリズムとして定着しつつある。

住み込み中あれだけブラックだった勤務時間だけど、今はばっちり5時終わりだ。街灯や店の照明で明るい城下町とはいえ、一応若い娘である私を遅い時間に返す訳にはいかないというのだ。さすがレディファーストの人。お城の使用人は基本的に住み込みだし、貴族の令嬢は婚活重視なのか女性の役人がエセル領のお城にはいないから、私の扱いには若様の判断基準がそのまま反映されている。

でも、早く帰るようになったのには、もう一つ理由があった。

定時で帰る代わりというか、若様は私に、一つの約束をさせたのだ。

それは、私にとっては意外なことだった。

『時間に余裕があろうと、決して独断で前世に潜ろうとしないと、約束しろ』

つまり彼は、前世を探るなと言ったのだ。それを聞いて私は間抜けな顔をしたと思う。それから、青くなったかもしれない。

『何故、ですか?前世の知識がなければ、私はお役にたてませんし…あの、それは』

焦って少し取り乱した私に、若様は子どもを宥めるように言った。

『無理に前世を探ることは危険を伴うと、ナン女史に聞いた』

だから、そういうことはしない約束だぞと。

びっくりした。それから、今までなかなか潜る機会が作れなかったのは、若様たちの画策だったのかなと思い至った。思い起こせば、残業攻勢が始まったのはちょうどナンさんが私のお見舞いにきた辺りだったし、元々若様は私が倒れたと誤解して前世を探ることを止めていた。だからこの予感は当たりかもしれない。きっと若様のことだから、部下の体調管理は自分の仕事だとか思っているんだろう。

それでも、そういう気遣いをしてくれたことはやっばり嬉しくて、その場は素直に頷いてしまった。つまり、これが帰宅が早まった二つ目の理由だ。

でも、悩みは残った。

すでに思い出した知識を出し尽くした私に、これから何が出来るのか、引き止められたのに役に立てなかったらどうすればいいのか。

さらにミラ姉の言うとおり、二足のわらじに対応できるのかという悩みが加わった。

正直、荷の重さは、今シチューが煮えている厨房で一番大きい寸胴鍋クラスだ。

でも。

「やるって決めたら、やるしかないんだって」

私はようやく食べられる程度に冷めたシチューを、たっぷりすくって口に入れた。

口の中で崩れるほど柔らかな鶏肉を、しっかり噛んで味わう。じっくり煮込んだ野菜の旨味が優しくて、こんな気分の時でも我が家のシチューは美味しい。

そうだ、重くたってなんだって、やるしかないんだ。だって、荷物を任せて欲しい、期待されたい相手に言われたことなんだから。私を見込んでくれたナンさんにも、引き止めてくれた若様にも、応えたいじゃないか。

「やるしかないって言ったって、無理して身体壊したら意味ないんだからね」

「はいはい」

「ヘスター!」

「珍しくヘスターが前向きなんだから、いいじゃないか」

「お父さん、心配してたくせに」

ミラ姉は取りなしてくれたお父さんにじとっとした目を向けた。

「そりゃ、帰りが遅くなるのも働き過ぎるのも、心配だぞ。でもな、どんなに忙しかろうと、うちの店がいいって来た客の注文は受けるもんな。大変そうなら、周りはつべこべ言うよりも、手伝ってやればいいんだ」

お父さんはそう言ってまた明日のソース作りを再開した。

私とミラ姉は顔を見合せた。

あんまり強いタイプの父親じゃない。料理の腕は確かだし商売人だから愛想はいいけど、家の中では母や姉の勢いに圧されがちな父親だ。

でも、今は、仕事の内容は違うけど、同じように仕事をする人間として私の気持ちを代弁してくれた。それが、一人前として認められたようで、少しくすぐったい。

私は思わず意味もなくシチューをかき回したし、ミラ姉はそっぽを向いてため息をついた。

「…わかってるわよぉ」

ミラ姉は拗ねたようにそう呟くと、食器の山から離れて私の前まで来た。

そして、腰に手を当てて宣言した。

「お母さんとも相談してたんだけど、あんた、夕食の後に店の皿洗うの止めなさいよ」

私はぎょっとした。

「え?それって、ウェイトレスの方やれってこと?私注文とるのはやっぱりまだ」

先週店内でやらかした失敗を思い出して焦った私に、姉は首を振って否定した。

「ああ、違う違う。あんたを店に出したら、それこそお父さんも私たちも心配で大変じゃない」

実は先週、混んでいた店を手伝おうとした私は何度かフロアでナンパをされたんだ。私越しにお城を見たのかからかわれたのか、はたまたお城に通える程度に身だしなみを整えていたせいか、それは分からないけど。

問題なのは私が相手の意図に気付けなくて、とんちんかんなやり取りを続けてしまったことだ。気付いたモナ姉がやんわり割って入ってくれたから問題なく収まったけど、調子に乗って接客も手伝おうとしていた私は結構落ち込んだ。ちょっと引きこもりが治った程度で店先に出ようとした自分は、接客を舐めていた。前世のコンビニバイトが、いかに恵まれた環境だったかを思い知った。注文を取りに行ったはずが逆にモナ姉の手を煩わせることになって、やっぱり私にウェイトレスはまだ早かったと痛感したんだ。

思い出してどんよりした私に、ミラ姉は手を布巾ごとひらひら振った。

「だから、店の手伝い自体を止めさせようってこと。慣れない通勤も仕事も疲れるんだから、家では休みなさいって。おまけに協会の手伝いまでするんでしょ、なおさらよ」

「でも」

家にいながら働かないなんて、なおさらびっくりだ。

別に働き者のわけでも特別家族思いでもないけど、皆が忙しくしているのを尻目に、自分だけのうのうとしているのは気が引ける。落ち着かない。家族の中でも、自分の居場所を確保したい。

情けない顔をしたんだろう、私を見ていたミラ姉は、勝ち気な顔を少し和らげた。

「気にしなくても、あんたがいろいろと慣れてきて、ぐうたらしているようだったら容赦なく引っ張り出すから。それに、土日は家の掃除洗濯をしてくれれば助かるわ」

「ん。わかった。…ありがと」

「別にお礼言われるようなことじゃないでしょ、あんたは外で働き出したんだから。それに、通いになった途端店の手伝いをして疲れて病気になりました、なんてことになったら若様に申し訳ないからね」

そう言った姉はすでに皿の山に身体を向けていて、その手はどんどん皿を拭き上げていく。もうすぐ仕事終わりのお客が流れ込んでくる時間だから、お皿は溜めておけないんだ。

食べ終わったら手伝うつもりだったけど、ここまで言われちゃ手は出せない。

だから、私は残りのシチューを食べ終わってすぐに、二階に退散した。

自分の部屋に入ると、ベットわきの狭いスペースで服を脱ぐ。お城の部屋の豪華さとは比べものにならないけど、慣れ親しんだ部屋は狭いなりに心地いい。脱いだワンピースはハンガーに掛けて、白いブラウスと茶色のタイツは洗濯に出すために傍へ寄せる。

そのとき、ベットに投げておいた空話が鳴った。

下着の上に膝まであるカーディガンを羽織って、とりあえず空話に出る。

「もしもし?」

「ヘスターか?」

「ライナス様でしたか」

「そうだ、今日は会えなかったから、どうしているかと思ったんだ」

可愛い。

ライナス様は、私がお城を出てからこうしてちょくちょく連絡をくれる。

「今日は、夕食会はないのですか?」

小机に置いた時計を見れば、いつもならお城では夕食を食べているはずの時間だった。

「ああ、今日は兄上とご一緒する予定なんだ。兄上がもう少ししたら身体が空くと言うから、待っているところだ」

「そうでしたか。それは良かったですねえ」

ライナス様が若様と夕食を食べると聞いて、ほっとした。どうやら、私は『兄上』待ちの間のつなぎのようだ。大好きな兄と夕食を食べることを自慢したくてかけてきたんだな、と思って、自然と口元が緩んだところに、少し元気のない声が届いた。

「…ヘスターもいれば、もっといいんだけどな」

「…ライナス様」

正直、嬉しい。だって、兄との水入らずよりも私と会いたいと言ってくれるのだ、可愛い子どもが慕ってくれるのが嬉しくないわけがない。でも、同じだけ、申し訳ない。それが妥当だったとはいえ、これだけ慕わせておいて、お城を出て疎遠になるのを選んだんだから。

罪悪感で黙った私に、ライナス様が言った。

「ヘスター。たまには、また一緒に夕食を食べてくれるか?」

「ええ、ライナス様がそう言ってくださるなら」

私はするりとそんなことを答えていた。

「言ったな、約束だぞ。後から嫌だなんて、言うなよ」

「大丈夫ですよ」

念を押してくるライナス様に宥めるように返してから、気付いた。そうだ、ライナス様と夕食を食べるって、お城で仕事時間以外を過ごすってことなんだ。居候中は夕食をどの部屋で食べるか、という程度の問題だったけど、お城でのお食事に呼ばれるなんて、以前の私だったら逃げていた…いや、実際仮病を使って逃げようとしたんだった。

私が自分の変化に戸惑っているうちに、ライナス様は『兄上がいらした!じゃあな』と言って通話を切ってしまった。

そうか、私、ちょっと変わったんだ。

お城の生活に慣れちゃったんだ。

ライナス様や若様なんていう、お城のご一家にも慣れちゃったんだ。

それに、街を歩けば治安ナイトファンに睨まれるは店ではナンパされるは、私の周りも変わったみたいだ。

ギャビさんと仲直りできたりお父さんに一人前扱いされたり、いい方向の変化もあるけど、今気付いた変化は私をなんだか落ち着かない気持ちにさせた。

何もかも、少しずつ変化していて、今まで通りではなくて。

お城勤めに加えて、これからまた協会のお手伝いも始まれば、皿洗いの件だけじゃなくてさらにいろんなことが変わっていくんだろう。

なんだか怖いような、それでいて動かずにはいられないような、妙な気分だ。

私は、洗濯物を出しに行くのも忘れて、ぼすんとベットに倒れ込んだ。



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