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幕間~腹心の葛藤~

「ばあか」

「馬鹿ではないだろう」

「それなら、腑抜けか」

「…」

「自覚があるようで結構」

窓辺に両手をついてうなだれていたマーカスが、ロンを振り返った。

その緑の目は心なしか潤んでいる気がする。

「引き留めたいなら、はっきり『お前が』ここにいて欲しいんだと言えばよかったのに」

そうすれば、もう少し揺さぶりをかけられただろう。

あの娘は、孤独な時間が長かったせいか、仲間だとかそういった言葉に弱い。

だから、たとえ無自覚なマーカスの言葉でも、頷いたかもしれないのに、この男は何を思ったか弟の言葉として伝えてしまった。タラシのくせに、とロンは鼻を鳴らした。

「…言おうと、したんだ。でもな、あの目で見上げられていると思ったら、何故か急に喉が詰まったようになって、言えなかったんだ」

おかしい、あれはおかしかった、とマーカスは真剣にぶつぶつ言っている。

おかしいのはお前の頭だ、とロンは呆れた。でも、一応言わないでやる。

つい先刻まで一緒に茶を飲んでいたヘスター・グレンは、この場にいない。

彼女は餞別用に作ってしまったクッキーを、せっかくだから日頃の感謝を込めて配ってくると言って行ってしまった。マーカスへの贈り物だと思い込んでいた料理長は今頃目を白黒させていることだろう。


マーカス・エセルは生まれてこのかた、女性に困ったことがない。いや、寄って来すぎるという意味では困っていただろうが、とにかく、相手の方から寄ってくる恋愛しか、したことがないのだ。もしかしたら、ただれた女性関係をもつ割には初恋もまだなのかもしれない、とは最近気付いたことだが、このところの挙動不審さを見て、確信に変わった。

そう、マーカスはあのヘスター・グレンに恋をしているのだ。

それも、生まれて初めての恋を。

相手は転生者で元・引きこもりで、平民で、いろいろと価値観や生活水準が違う人間だ。

おまけに、引きこもりのトラウマからか、かなり自己評価が低いため、マーカスとは違う意味で鈍感。男性どころか人間自体に不慣れで、からかう分には面白いが、落とすのならば大変だろう。

せめてお前だけでも自覚しろ、と、親友としてマーカスが嫉妬する場面を作ったり2人が接触する機会を設けたりしてきたのだが、未だ自覚はないようだ。

「あの、灰色の目が潤んでいるのをみると、どうも心臓が痛くなる。まずい、私は心臓に病を抱えているんだろうか」

「それはない」

「目を逸らし続けていたのがようやくこっちを見るようになったせいだろうか…懐かない野生動物が近づいてきたようで、嬉しいんだが、今度は心臓が」

思い出したのか、胸を押さえてうっと呻いている。華やかな美形は苦悩の表情も様になるが、いかんせん言っている中身が残念だ。

ロンは、くだんの少女を思い浮かべた。

最初はマーカスの外見や地位に惹かれて近づいてくる女達の一人かと疑ったが、そんな技能も免疫もないことはすぐに見て取れた。

客観的に言えば、容姿は十人並みだ。確かにくりっとした濃い灰色の目とたっぷりの黒髪は珍しいし、華奢ではないが小柄だから、まるで小動物のようではある。ただ、身長にしろ胸にしろ腰にしろ、成人女性には見えない上、低めの鼻といい頑固そうな口元といい、顔立ちは整っているとは言えない。

可愛いといえば、かわいい。多分、物慣れないせいかすぐ赤くなる白い肌とか、簡単に涙がこぼれそうになる目できつい睨み方をするところとか、そういう造作以外のところが、そう、可愛いと言えるだろうと、ロンは努めて冷静に分析した。

加えて、非常に臆病なわりにいざというときは腹を括る胆力もある。

努力もするし、給料分しっかり勤めようという誠実さもある。

人見知りだが、基本的に人には優しい。

そうした点を総合的に見て、側近としても親友としても合格点をつけたのだ。

それに、奥方様も推していらっしゃる、とロンは頭の中で呟いた。

そもそも、あの女性は最初から一番積極的だった。家族水入らずの夕食にヘスター・グレンを招いたのも彼女だし、絶対に使用人部屋ではいけないと客室を支度したのも彼女だ。黒猫屋のことを警戒してヘスターが彼の店へ行くのにロンを同行させたこともある。

つまり、貴賤結婚の一番の障害である上位の親の反対は、ない。そもそもこの国では転生王女が従者と結婚した昔から、転生者に貴賤結婚という縛りは存在しないのだが。

ここまで整っていて、肝心のマーカスが無自覚なものだから、ロンは苛々させられるのだ。

おかげでヘスター・グレンを逃がしてしまった。

仕事を続けることは約束させたが、せっかくの同居状態からただの職場の上司部下に後退したことは事実だ。まあロンとしては、一度戻るのもいいだろうと判断したから止めなかったのだが。

無理矢理引き留めれば、不満が残る。しかし一度家に戻れば、自分を取り巻く世界て人の目の変化を感じて居心地の悪さに気づくはずだ。城という名の『箱』入りになっているヘスターは正確に把握できていないようだが、マーカスや自分だけでなくすでに彼女自身もこの領内では有名な存在になっている。元引きこもりの彼女のことだ、数日徒歩通勤でもしてこの変化に気づけば、苦痛に感じるだろう。

そのタイミングで何かしら理由をつけて誘ってやれば、城への住み込みを承諾する可能性は高いとロンは見ていた。ただ、彼女はなかなか人の世話になりだがらない性格だから、多少の布石は必要かもしれない。

正直、面倒な、と思う。これは本来マーカスが自分で対処すべき問題だ。ただ、彼に任せておくと多分また都のときのような大惨事になるのだから、後始末よりはこっちの方が断然ましだ。それに、どうせならさっさとくっついてほしい。

せっかくこっちが引いてやったのだ、とのど元まで出かけて、やめた。

代わりにため息を一つ吐き出して、金色の頭をこづく。

「お前、少し恋愛小説でも読め」

なぜそんなことを、と不思議そうに顔を上げたマーカスに、ロンはもう一度ため息をついた。

「…話をかえるが、こちらの都合で仕事を続けさせる以上、ヘスター・グレンが記憶を必要以上に掘り起こすことのないよう、注意する必要がある」

以前、転生者協会のナン女史から、前世の記憶を無理掘り起こす危険性について忠告された。今生の意識が拒否した記憶には、死や、それと同じほどの苦しみが埋まっていることもあり、それを思い出すのは転生者にとって大きな苦痛を伴うことかもしれないと。

この機に解雇すれば、その危険はなくなったはずなのだ。そう告げれば、マーカスの顔が一瞬で引き締まった。

緑の目に光が宿り、確かにこれがエセル領の次期領主なのだと思わせる才気溢れる若者の顔になる。

「そうだな。そういう目的で雇っているのではないと、しっかり話そうと思う」

大事な娘を思う、若者の顔だ。

この顔をあの娘が見たら、どういう顔をするのだろうと考えて、真っ赤な顔を必死で背ける様がまざまざと思い浮かんで、ロンは勝手に動きかけた唇を引き結ぶ。

へスター・グレンは面食いだ。ばっちり、自分たちの顔面にひかれている。それなのに、認めまいと抗うのがロンにはおもしろい。貴族には美形の割合が高いため、顔の美醜に反応しない娘も中にはいるが、あの娘は正しく審美を判断した上でそこに惹かれるのを恥じているのがおもしろいのだ。そして、マーカスの残念な部分を素直に間抜けだなぁというあきれ顔で見つつ、なおかつ外見との落差に落胆を見せるでもないところが。ある意味で客観的な見方をしている。いや、自分に課している。

思えば、へスターグレンには根っからの美点というものが少ない。美に弱く、くじけがちで、臆病で、対人能力も低い。ただ、彼女はそれを変えようと抗う。その点は、美点だ。抗う姿が、面白く、いじらしく、…愛らしい、親友の思い人だ。

ロンにとっては、この最後の一点こそ、最も優先すべき事実だった。

布石は明日から打つとして、今夜は、絶対飲む。度数の高い酒にしよう。

ロンはそう決めながら、無表情を貫いた。


若様の内面を書こうと思っていたのですが、ロンの視点が先になってしまいました。

もう一話幕間を挟んで、第二部に入りたいと思います。

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